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2016年4月10日 (日)

リバプール美術館蔵 英国の夢 ラファエル前派展(2)~Ⅰ.ヴィクトリア朝のロマン主義者たち(1)

Zenpaml2 最初の主催者あいさつだの説明だのとパネルに人だかりがしているのを横目にスルーして、展示スペースに入ると、まずに出くわすのが、ミレイの「いにしえの夢─浅瀬を渡るイサンプラス卿」という1856年ころの作品です。彼、というよりラファエル前派を象徴するような代表作「オフィーリア」は1952年ころの作品ですから、それほど制作年が離れているわけではありませんが、ここにはミレイが、「オフィーリア」の作風から離れ始めたころの作品と言えます。それは、どのようなことか、ちょっと長くなりますが、私なりに思っていることを、お話したいと思います。さきほどあげた「オフィーリア」のミレイは、画面に情報を溢れるほど詰め込んでいく傾向がありました。「オフィーリア」であれば、シェイクスピアの「ハムレット」に書かれている内容を漏れなく反映させ、描きこまれた植物には象徴的な意味が込められていました。これらを作品で見て分かるためには、「ハムレット」を知悉していたり、植物の知識が求められます。そのためには知識や教養が求められ、難しそうと言ったことになりがちです。それがエスカレートすれば、ゲームでいう隠れキャラ探しのように、ややもすると作品の細部を主題とは無関係に探偵のように探し回るこことにもなりかねません。それは絵画を見るという本来のものから脱線してしまうことになりかねません。
 Mireofiria そこで、ミレイが志向したのが、シンボライズされた情報でした。彼の後の時代の象徴主義の人たちが、音楽という媒体に範とした表現をします。音楽は時間の芸術、パフォーミングアートで、絵画のように繰り返すように鑑賞することはできません。一瞬で流れ去ってしまうもので、そこで人々に何らかの情報が伝わるのです。しかし、その情報というは言葉で論理的に説明できるように明確なものではなく、意識下の感情とか気分のような雰囲気的なものです。それは、何度も繰り返す必要もなく、鑑賞者に特別な集中力や知識を要求するものでもありません、しかし、鑑賞者からある種の感情を引き出し、共感を得たり感動を誘うことができるものです。ミレイが目指そうとしたのは、このような情報だったと思います。それは、後にミレイの芸術の大きな特徴として言われるようになる“哀感”とか“詩的なイメージ”と言われるものです。例えば、ラファエル前派の理念では、自然はありのままに描きこむもので、ミレイは博物学的な正確さに基づく精緻な描写を追求していました。花や草といった自然が作品画面では背景の一部として埋没してしまうのではなくて、背景から浮き上がるようにそれ自体で存在感を主張するようになり、主人公の人物と画面上の存在を競うようになり、それが観る者に情報が溢れるような印象を与えていたと言えます。それを、ミレイは、言ってみれば博物学的な客観性の高い自然から、絵画作品を創ったり見たりする人間の感情、つまりは主観の動きに従う、あるいはそれを煽るような主観的な見方に沿うような大胆なデフォルメを施していくようになります。それは、例えば、主人公がある気持ちを表わしているのを補完するような雰囲気を効果的に作り出す小道具のようにアレンジされていくようになります。「オフィーリア」は、その典型的な作品でした。
 これに対して、ここで展示された「いにしえの夢─浅瀬を渡るイサンプラス卿」は「オフィーリア」のような元々の文学テクスト、「オフィーリア」ではシェイクスピアの「ハムレット」、がありません。これは、ミレイがテクストがあるかのように場面を想像して絵画に仕立て上げ、観る人に逆にものがたりを自由に想像してもらおうと試みた作品なのです。そこでの自然は写実的に描写するのではなく、また、テクストの中の意味をディテールに託して表わすことはできません。作品の劇的な効果を強調するためのツールとなっています。例えば、人物と馬と背景のバランスが人がリアルと感じるものとはズレていますし、光の使い方が不自然に見えます。その中で、馬のシルエットや騎士の鎧といった厳格な要素は、柔肌が剥き出しになった手足や弱々しさを強調するような子どもたちの不安げな表情と不釣り合いに組み合わされています。一方で、遠景にある神秘的な尼僧たちは、死後の世界への憧憬を仄めかすものでもあり、子供たちが生と死を分ける危険な境界を彷徨っていることを示唆します。ただし、これらは直接的なこうだということを主張しているのではなく、そのような雰囲気を醸し出して、作品を見る者が、ここにあるようなことから、何となく感じ取るように、そして、鑑賞者自身によるこの作品の物語を想像するように巧妙に仕向けられている、と言えます。
River_preraapple  同じくミレイの「春(林檎の花咲く頃)」という1859年の作品です。「いにしえの夢─浅瀬を渡るイサンプラス卿」から3年後の、ラファエル前派兄弟団の頃の作風からは、さらに離れていっているように見えます。解説によれば、描かれている人物たちは、ミレイ自身の妻や家族とその友人の、とくに若い女性であったといいます。ミレイは、近しく気にかけていることによって、特に個人的な性格を絵に与えたと説明されています。説明はそうなのでしょうが、作品の中で描かれている人物の顔を見ていると、前に見た「いにしえの夢─浅瀬を渡るイサンプラス卿」の馬上の三人に比べると精緻さや描き分けでは数歩譲るように見えます。仮に、この「春(林檎の花咲く頃)」の中の人物がミレイの家族であることを知らないで、見ていたとして、ここの人物の顔だけを取り出して見比べてみて、明確に区別がつくかどうか。しかも、これは顔を細かく描きこんでいないせいかもしれませんが、あまり、それぞれの人物に表情が見えず感情的な表現が交替しているように見えます。

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