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2016年4月 6日 (水)

佐藤直樹「犯罪の世間学─なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか」

2011年の東日本大震災のときに海外のメディアから絶賛されたのは、外国だったらこうした無秩序状態で当然起こり得る略奪も暴動もなく、被災者が避難所できわめて整然と行動していたことだった。つまり、諸外国と比較したときの日本の犯罪率の圧倒的低さや治安の良さだったといいます。それはいったいなぜなのでしょうか。海外と違って、日本には外国には存在しない「世間」があり、法よりも「世間」のルールのほうがはるかに優先されるため、法秩序が崩壊した状態でも、それが外国のように略奪や暴動にただちに結び付かなかったといいます。日本人はみな、法のルール以前に、「世間」のルールに縛られている。というのが本著作の主張です。

西欧諸国はキリスト教の告解の神に自分の内面を告白するというなどから個人が形成され、近代化のプロセスで「世間」に相当するものが解体され、かわりに社会が形作られました。それによって、その個人と個人の関係は契約で明確な言葉によって取り決められ、犯罪については法律で明解に律せられることになりました。その結果、災害などで法秩序が崩壊すれば、個人のエゴが剥き出しになってしまうということになってしまうのです。

また、だからといって、日本がいいのかというと、1990年代のグーバル化に伴う新自由主義の本格的台頭は、例えば雇用における終身雇用制や年功序列制度の解体を招き、競争的環境に人々を叩き込むことになりました。そこでは「世間」という共同幻想が肥大化し、異質なものを排除する同調圧力が強まり、息の詰まるような閉塞状況を招くこととなってしまった著者は言います。

それを、例えば、犯罪に対する考え方が変化してきたことと関連して、次のように説明しています。

日本の「世間」は、犯罪者を穢れとして外部に排除する面と、真摯に反省し謝罪する犯罪者許して内部に包摂する面という矛盾した二つの側面を併せ持っているわけです。

一方で、日本の刑法は、まず、旧派刑法学の影響下で人間は法的な契約主体となりうる自由な人格として認められ、法を破った者は、自らの行為に対する責任を負わされる罪刑法定主義。ここでの刑罰は応報刑として、犯罪行為の軽重に基づいて科せられるということになります。これが、日本の1880年制定の旧刑法であり、例えば殺人罪でも「謀殺」「毒殺」「故殺」「誤殺」といったように殺人類型を細かく区分し、それに応じて刑罰も細かく規定されていました。その後、日本の刑法は1907年に現行刑法が制定され、そこでは殺人罪の条文は1つだけになりました。その分裁判所の裁量となったというわけです。それは19世紀後半に福祉国家に伴うように新派刑法学が、刑罰は応報刑ではなく一定の目的のためで、犯罪者とは自由な意思を持った主体ではなく、実証主義の下で科学的に分析可能な決定論の対象となりました。つまり、犯罪から社会を防衛するという観点から犯罪者を科学的に分析し矯正や教育や治療によって、この危険性を取り除くことを目指すものとなれました。ここでは犯罪の重さではなく、犯罪者の危険性によって刑罰が科される。そのプロセスで刑事政策や社会政策が介入する。そこでの刑罰の判断は様々な要素を加味した複雑なものとなるので単純な基準での判断では追いつかず、都度の判断に近いものとなります。

そして、この新派刑法学による福祉主義的な考え方は、日本の「世間」のウチに生きる人間を許して包摂するという側面と危険を排除するという側面の両方に親和的であったといいます。つまり、制度的なものは近代的であったにもかかわらず、人的関係は伝統的な「世間」のままという畸形的なものとなってしまったというわけです。

さらに、20世紀後半の個人主義の進展により私的空間が拡大し共同体が解体し、他者の排除が一般化した。また経済変動に伴う労働市場の再編により失業者が構造的に増大し、それによる犯罪の増加を制御することで、他者の社会的な排除が進んだ。そこで、欧米で注目されたのが「割れ窓理論」。つまり、割れた窓ガラスが放置されているような場所では、縄張り意識が感じられないので、犯罪者が警戒心を抱くことなく気軽に立ち入ることができ、当事者意識も感じられないので、犯罪者は犯行を抑止されないだろうと思い、安心して犯罪に着手するというものでした。これが、欧米では、福祉主義から排除厳罰主義に転換する契機となりました。一方、これは、日本では「世間」では、現に町内会や自治会が日常的に気をつけてパトロールしていることです。つまり、日本では、基本的な方向性や構造が転換することなく、むしろ、それを強化する結果となりました。それが、今日のがんじがらめに近い治安体制を形成したという説明で、これには、説得力があると思います。

しかし、著者の主張は分かると思うけれど、個人が確立していないと「世間」が残って、共同体の自立的な秩序が残存するということであれば、日本の場合に、田舎はそうだろう、けれど都会で、そういう秩序が残っている説明には苦しいのではないかと思います。他方、個人が確立していないのは日本だけではなく、アジアやアフリカ諸国、あるいはヨーロッパでも東欧やロシアなどもあてはまるだろうが、そのような国々での治安の悪い国はたくさんある。その説明がつかない。議論が性急な気がしました。

「世間」の論理を突き詰めていくと、次のような結論を導くことも可能ではないかと思えてきます。というより、現に、そういうことになっていて、おおっぴらに口にすることはないけれど、そう思っている人は案外少なくないのかもしれない、と思ったりします。つまり、こういうことです。

この著者は、個人ができていない側で「世間」に対して批判的であるけれど、逆に「世間」の側からみていくと、犯罪は秩序に対して排除すべきものということになる。逆方向で言えば、排除すべきものは「世間」の同調から外れるものがそうだ。その意味で、“いじめ”とか“ハラスメント”について、個人ができていて、社会が形成されている側であれば、各個人の人権とか自由が最優先であるから、当然、否定的に見られる。これは、当然のことだろう。これに対して、「世間」という言葉に表われる呪術的な秩序優先の思考で考えると、極めて近い距離感で人が集まって強い同調圧力がかかる下で生活を共にし、高い規律の秩序を維持していけば、そこに強いストレスが伴うのは当然であり、そのストレスを放置すれば危機が蓄積し、ゆくゆくは「世間」を崩壊させてしまう危険がある。それを回避するためにストレスがある程度蓄積したとこで、どこかに放出させることが有効となる。それは、文化人類学なんかの未開人社会の調査で見られるスケープゴートあるいは生贄といったようなストレスを何ものかに集中的に負わせて、その者に対して、聖にしろ賤にしろ、殺してしまったり、追放してしまったり、要は集団からストレスをその者が持って出て行かせるということだ。そのような視点でみれば、“いじめ”などは、まさに結果として、そのような機能を果たしていると言えなくもない。従って、そのような視点にたって考えてみれば、共同幻想としての「世間」による秩序、現実には、現在の日本の安全な治安を維持させるために“いじめ”は近代的な人権の考え方からすれば否定し根絶させるべきものなのだろうけれど、「世間」の維持装置として考えてみるという視点も成り立ちうる。実際のところ、そのような機能を果たすものが無くなってしまった場合、つまり、現象としての“いじめ”を解決したとしても、「世間」の維持のために、代替的に別の事態が発生する可能性は極めて高いということだろうし、そうであれば、“いじめ”をなくそうということに対して積極的に慣れない人が実は少なくなくて、解決の障害がなくならないということになっているのでは、と考えることもできる。

自分で書いていても、ちょっと・・・と思うところもありますが。

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