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2016年5月

2016年5月28日 (土)

ジャズを聴く(35)~ソニー・クラーク「ソニーズ・クリブ」

Jazclark_crib With A Song In My Heart
Speak Low
Come Rain Or Come Shine
Sonny's Crib
New For Lulu 

Sonny Clark (p)
 Paul Chambers (b)
Art Taylor (ds)
Donald Byrd (tp)
John Coltrane (ts)
Curtis Fuller (tb) 

1957年9月1日録音
 ソニー・クラークのリーダー・アルバムとしては「ダイアル・S・フォー・ソニー」に続く2作目。前作では3人のホーン奏者が参加し、クラークのリーダー・アルバムとは言ってもホーン奏者がフロントで活躍するというセクステットの録音というべきだった。だから、クラーク個人の個性というよりは、他の3人の個性とあわさって特徴がでていたといえる。このアルバムも、編成は同じで、クラークの性格からいって、同じような結果となっている。ただし、メンバーが異なっているので、前作とは印象が、かなり違う。その大きな要因が、テナー・サックスがジョン・コルトレーンが参加している点だろう。コルトレーンは、自身が後に語った“神の啓示”を受けた直後であり、この録音の数日後に「ブルー・トレイン」を録音している。つまり、伸び盛りの精力に満ち溢れていた時期にあたる。また、トランペットのドナルド・バードもクリフォード・ブラウン亡き後のハード・バップのトランペットとして期待を集めていたころ。つまり、「ダイアル・S・フォー・ソニー」でのハンク・モブレーやアート・ペッパーの地味でしっとりに対して、「ソニーズ・クリブ」でのコルトレーンとバードはバリバリだった。要するに、若い血潮が漲っているということだ。しかし、ややもすると若さゆえに暴走が止まらなくなり、単なるプロウ合戦に終わってしまうおそれもあった。これは、リーダーとなっているクラークの手腕によるのか、彼それこそが彼の個性なのか、ホーンの3人が抑え気味にベストを尽くしたものとなっている。具体的には、アレンジの妙や全体の統一感を求めた結果として素晴らしい演奏になっている。ソニー・クラークというピアニストは、作曲もするということもあり、自身がソロで華やかにピアノを弾くというタイプではなく、ホーン奏者をまじえて、彼らに自由にプレイをさせつつ、全体の演奏を設計したり、バッキングなどでコントロールすることに、より適性があった人ではないかと思えてくる。とくに、このアルバムでのクラークのピアノは、それほど聞こえてこない。著名な「クール・ストラッティン」の場合にも、このような特徴を見ることができる。
 1曲目「ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート(心に歌を)」。何のイントロもなく、最初からバードのトランペットが高らかなファンファーレのように軽快にテーマを提示すると、他の2管が絡むようにやり取りを少しやってからアドリブに、バードはハイ・テンポで短いフレーズを積み上げていく、次いでコルトレーンのソロは、そのテンションを高めるように、さらに細かいフレーズをハイ・スピードで繰り出し、時に意外なメロディを挟み込む、トロンボーンのソロで少し落ち着き、次のクラークのピアノは、歯切れはいいのだが、バードやコルトレーンのハイ・テンションほどではなく、最後の管の絡みでテーマに戻り、テンションが高まったところで終わる。全体として、クラークのバッキングは、他のリズム・セクションと共に堅実にリズムを刻んでいるというところ。
 最初の3曲はスタンダード・ナンバーでテーマはおなじみということなのだろうが、「スピーク・ロウ」のテーマは聴き易いメロディ。これをコルトレーンが提示し、ソロになだれ込んでいくという感じ。テンポは一段落ちてミディアムだけれど、これとレーンのアドリブの後年のカーペット・サウンドと評された、細かい音で埋め尽くすようなものではなくて、けっこうメロディックで歌っている。それに引っ張られるように他の管も高いテンションでメロディックなアドリブの応酬。
 後半の2曲がクラークのオリジナルで、「ソニーズ・クリブ」。冒頭の、ジャズではないけれど、イギリスの60年代ビート・グループのアニマルズの「ブーン・ブーン」に良く似た、さぁこれから、行くぜ!!みたいなスタート合図のような短いふれーずから、コルトレーンのソロに入るとテンポが加速し、そこが、ちょっとしたテーマとのギャップもないわけではないけれど、コルトレーンはお構いなしに突っ切るというところ、一人おいてバードトランペットもコルトレーンと競っている。
 最後の「ニョー・フォー・ルル」は、「クール・ストラッティン」の2曲目「ブルー・マイナー」に似ているという評もあるようだけれど、コルトレーンの元気さは、ここでも引っ張っていて、「ブルー・マイナー」の雰囲気とは異質な感じがする。この曲では、ソロがクラークから始まり、短いがクラーク自身の主導したプレイがここで聴ける。それでも、全体はコルトレーンとバードのプレイが目立つアルバムであり、クラークのピアノは、バックに隠れていて、印象的なフレーズを繰り出してもこないので、よほどピアノを聴くのに集中しないと聞こえてこない。ただし、全体のまとまりは、クラークによるところのようなので、クラークのそういうところを聞くアルバムと言えるかもしれない。

2016年5月27日 (金)

ジャズを聴く(34)~ソニー・クラーク「ダイアル“S”フォー・ソニー」

Jazclark_dial Dial S For Sonny
 Bootin' It
It Could Happen To You
Sonny's Mood
Shoutin' On A Riff
Love Walked In 

Sonny Clark (p)
 Wilbur Ware(b)
Louis Hayes(ds)
Art Farmer (tp)
Hank Mobley (ts)
Curtis Fuller (tb) 

1957年7月21日録音
 ソニー・クラークが26歳の誕生日にブルー・ノートで録音した初のリーダー・アルバム。日本で大人気の「クール・ストラッティン」でのように“うしろ髪引かれる”後ノリが顕著ではないけれど、すでにクラーク独特のずらしは控えめながら、ここでも聴き取ることができる。むしろ、それゆえに全体として、心地よく、まろやかで、寛いだ雰囲気のアルバムとなっている。ここでちょっと大上段に構えた議論をする。クラークの場合はパウエル派などとファンはみなしているが、バド・パウエルが切り拓いたビ・バップのピアノのスタイルに大枠として倣っているからだろうと思う。しかし、そのスタイルはパウエルの、今にも、目の前で音楽が生まれてくるような生々しい創造力あってのものなのであり、パウエルのピアノのタッチの燦然とした輝かしさ、厳しさとは切っても切れないものだ。そして、当のパウエルでさえ常に成功するとは言えない異常ともいえるものだ。だから、クラークをはじめ他のピアニストが、右手重視とかスタイルの外形だけをまねしても音楽として成り立たないし、うまくできたとしても、せいぜいのところがパウエルの亜流で終わってしまうだろう。また、時代も変わってパウエルがスタイルを確立したころとはレコードでの音楽聴取という新たな聴き方によって聴衆も変化してきている。その中で、聴衆に受け容れられて、ひとかどのピアニストとして認められていくためには、時代に合うように、そして何よりも自分というピアニストを人々に印象付けるために、パウエルのスタイルを変化させて、プラスアルファを、つまりソニー・クラークだからこそ聴くことの出来る付加価値をつけなければならない。当時のクラークが本当に、こんなことを考えたかどうかは分からないが、後世の、私が、クラークのピアノのスタイルを聴いていこうとする際には、そんなことを考えながら、彼の特徴とか魅力を聴き取ろうとしている。そのような視点で考えると、パウエルのような一瞬の煌きのように、音楽が生まれる瞬間に立ち会うというのは、仮にLPレコードの録音で聴く場合には、ライブの生々しさはなくなり、20分程度を連続して再生、つまり音楽の垂れ流しを聴取する場合には、適さないだろう。それよりも、切れば血の吹き出るようなスリリングな演奏よりも、安心して、音楽の流れに身をゆだねるとか、演奏をじっくり味わうという、あるいは音楽を自宅のリビングでリラックスして聴くといったニーズわ応えるようなもの、それがクラークのパウエルプラスアルファなのではないかと思う。それが具体的なスタイルとして表われたのが、例えば、タッチの重さ、渋く重厚な音色で、ノリは良いのだけれど過度に滑らず、ホンの少し引っかかるようなところで、微妙なニュアンスを生み出す。それが聴き手に渋い味わいを感じさせる。そういうところだろう。このアルバムでは、そういうところを共有できるような奏者たち、とくにサックスのハンク・モブレーなどは特にそういうところがある、と共同作業で演奏全体の雰囲気をつくり上げていると思う。一方、このアルバムが「クール・ストラッティン」ほど“うしろ髪引かれる”ように、なっていないのは、協演者がモブレーであることも要因しているのではないか、「クール・ストラッティン」のマクリーンとの違いということではないか。
 さて、一曲目の「ダイヤル・エス・フォー・ソニー」はクラークのピアノでブルースっぽいイントロから、心地よいリズムで典型的なハード・バップのテーマが3本のホーンのアンサンブルで提示される。そこから順繰りに各奏者のソロへの受け渡されるというシンプルな構造の演奏だが、最初にソロをとるハンク・モブレーが、「クール・ストラッティン」のマクリーンとは違って、節回しを強調する粘っこさはなく素直な伸びのある音で歌うように、一本の長い糸のようにアドリブのフレーズを紡いでいく。繰り返し、聴き込んでも疲れるというものでもなく、何度も聴いて味わっていくという滋味に満ちたプレイではないかと思う。続く、トロンボーンもモブレーのサックスのと調子を合わせるように、低音による滑らかに流れるように演っている。そして、トランペットはちょっとだけ音色の輝かしさを出してみた以外は淡々と、訥々と語るような演奏をする。この3人のホーン奏者の音色のバランスが、ハイテンションになりすぎず、かといってリラックスしすぎず、派手すぎず地味すぎずと過度に一方向にエスカレートせずに絶妙に中庸の調子に演奏がなっている。これらのバックでクラークのピアノは、推進力はあるが煽ることなく、音数を抑えて、必要不可欠なところで控えめに鳴っているが、その控えめさゆえに、どうしてか耳をそばだたせてしまうのだ。
 最後の「ラブ・ウォークト・イン」はピアノ・トリオの形で、クラークのソロをたっぷり聴くことができる。前半はビル・エバンスっぽいそこはかとないムードのメロディをゆったりとしたテンポで、クラークは一音一音を丁寧にゆっくりと空間に置くかのように弾く。後半は一転したテンポ・アップでスィング全開となり、クラーク独特のシングルトーンによるアドリブを追いかけるのが楽しい。
 このアルバムは、ひとつひとつの曲や演奏を取り出して焦点をあてて聴くというよりも、全編を通して垂れ流しのように聞くともなく聴いて、全体の雰囲気とかムードを味わう愉しみ方を提案しているように思える。

ジャズを聴く(33)~ソニー・クラーク「クール・ストラッティン」

Jazclark_cool Cool Struttin'
Blue Minor
Sippin' At Bells
Deep Night
Royal Flash
Lover 

Sonny Clark (p)
 Paul Chambers (b)
Philly Joe Jones (ds)
Art Farmer (tp)
Jackie McLean (as) 

1958年1月5日録音

ソニー・クラークのリーダー作品ということになっているが、ピアノ・トリオにホーンの二人、トランペットのアート・ファーマーとアルト・サックスのジャッキー・マクリーンを加えたクインテットなので、ピアノは控えめで、ホーンの方が聞こえてくる。ソニー・クラークについてよく言われる“後ろ髪を引かれる”というイメージに最も当てはまるのが、このアルバムではないかと思う。とくに最初の2曲に、その特徴がもっともよく出ている。
 最初の曲、タイトル・チューンである「クール・ストラッティン」は、スロー・ナンバー。全員のトゥッティでテーマをゆっくりと提示する。このホーンによるスローでブルージーなテーマ、そしてその醸し出すムードを好きになるかどうかで、このアルバムの好き嫌いが分かれると思う。それだけ、このテーマにソニー・クラークをはじめとする5人の演奏のムードが集約されている。これはクラークのものであると同時に、ジャッキー・マクリーンのものであり、アート・ファーマーのものであり、フィリー・ジョー・ジョーンズのものであり、ポール・チェンバースのものであり、つまり、全員の共同作業でつくりだされたようなものだ。それは、続く、各自のソロ・パートを聴くとハッキリする。それぞれがタメるノリの競争をしているかのようなのだ。最初にソロをとるのはクラークで、抑え気味にシンプルなプレイだが、これはテーマの際にホーンがテーマのメロディを吹いているバッキングの低音のパートから移行していっているようからだろう、テーマの時にもホーンの音の合い間から、しっとりとしたピアノの音が洩れ聞こえてくるようだったが、ソロ・パートになって、そのピアノが全部聞こえてきて、スローなテンポと相俟ってさらにピアノの重く、暗いタッチが際立ってくる。続いてアート・ファーマーのトランペットもアゲアゲで疾走することもなく抑制気味にじっくりとフレーズを紡いでいく。軽快さとは正反対のどっしりとした重量感。これみよがしのブローもなく、アドリブのキレで勝負するというのでもない、後年のフリューゲルホンによる滋味深いプレイを彷彿とさせる淡々と吹く。続いて、多分、絶好調だったのではないかと思われるマクリーがンあの重いサウンドで、タメにタメたノリで、フレーズの最後でクルリと小節をきかせるマクリーン節が全開で充分に唄い上げる。これらの奏者たちが相互にタメを共用していくなかから、“うしろ髪ひかれる”ようなノリを作っていく、独特のグルーヴ感じと言ってもいい。再びクラークのソロでは、さっきとはうって変わって三連譜を多用し、粘っこいほどタメたノリだ。このあたりのプレイや2人のホーンのバックで弾かれるふくよかなピアノの音色などが、クラークを好きな人には堪らないのではないか。
 次の曲「ブルー・マイナー」。古いファンはアナログ・レコードのA面に、最初の2曲が収められていたため、プレイヤーでレコードを聴くと、この2曲をまとまって聴く、レコードを裏面に引っくり返して続く曲を聴くのを面倒になり、最初の2曲ばかり聴くことになってしまうという事情から、アルバム中の最初の2曲をとくに好むという。前の「クール・ストラッティン」に比べミドル・テンポのテーマの呈示のあとマクリーンが、そのテンポのまま、じっくりとソロを聞かせる。それは、マイナー・コードで展開されるタメをきかせる独特の節回しは“泣き”といえるような聴く者に哀感を覚えさせ、これが全体のペースを決めてしまう。この間、リズム部隊も落ち着いたテンポをキープし、煽るようなことはせず、重くリズムを刻んでいる。続く、アート・ファーマーは、流れにうまく乗って、このムードを壊さない。それで聴いていると、後ろに引っ張られるようになり、しかもマイナーキーなので、もの悲しさを微妙に感じるようになるのだ。このあとのクラークのピアノは、テンポをキープしながら、必ずしも哀愁のフレーズを演っているわけではなく、むしろドライなのだけれど、却って全体のムードを印象的にしている。
 4曲目の「ディープ・ナイト」は、曲が始まりはピアノ・トリオで演奏が進み、ソニー・クラークのピアノは哀愁ただよう切ないメロディを、少々速めのテンポで過度にセンチメンタルにならず、ピアノの一音一音をしっかりと聞かせるように弾き進める。そして、このピアノに覆いかぶさるようにトランペットがソロを取って代わり、他の曲と同じようなムードの展開となる。
 このアルバムは、良くも悪くも金太郎飴のような、一貫したムードで統一されているので、それの中で漂い、雰囲気を味わうので、それに親しめるか否かで好き嫌いが分かれるものだと思う。圧倒的な演奏、音楽で聴く者を否応なく圧倒するタイプのものではない。 

2016年5月25日 (水)

ジャズを聴く(32)~ソニー・クラーク「ソニー・クラーク・トリオ(ブルーノート盤)」

麻薬が寿命を大幅に短くしてしまったが、その短い人生でも、ソニー・クラークはバド・パウエルの系統に位置するバップ・ピアニストの中でも最高の一人だった。50年代前半、彼はサンフランシスコでヴィド・ムッソやオスカー・ペティフォードとプレイし、ロサンゼルスに居を定めるとテディ・チャールスと最初のレコーディングを行い、その後1953~56年、バディ・デ・フランコのカルテットに加わった。彼のバディ・デ・フランコとの録音はモザイク・レコードから豪華限定盤のボックスセットで再発されている。同じ時期に、彼はソニー・クリス、フランク・ロソリーノとライトハウス・オールスターズともプレイしている。1957年にはニュー・ヨークに移り、ブルー・ノート・レコードの専属となった。そこで数枚のリーダー・アルバム(1957年の1年間だけで「Dial S for Sonny」「Cool Struttin'」「Sonny's Crib」の3タイトル)を録音し、ソニー・ロリンズ、ハンク・モブレー、カーティス・フラーやその他のたくさんのミュージシャンたちのサイド・マンとしてプレイした。享年31歳という早すぎる死はジャズにとり大きな損失となった。  

Sonny Clark Trio   1957年10月13日録音

Jazclark_bluenote Be-Bop
 I Didn't Know What Time It Was
 Two Bass Hit
 Tadd's Delight
 Softly as in a Morning Sunshine
 I'll Remember April 

Sonny Clark (p)
 Paul Chambers (b)
 Philly Joe Jones (ds) 

同じタイトルで2枚のアルバムを別々にリリースされている中で、こちらは早い時期の録音のブルー・ノート盤と呼ばれて区別されている。どちらのアルバムもアップ・テンポのナンバーが多く、最初の「Be-Bop」ではハイ・スピードで疾走している。ソニー・クラークに対する世評で、よく引き合いに出される“後ろ髪を引かれる”ということから連想される、しっとりとしたとかしみじみとしたというイメージを期待すると、裏切られることになる。ただし、同じタイトルのもうひとつのアルバム(タイム盤)に比べると多少は、その感じがあるかもしれない。ソニー・クラークのアルバムでピアノ・トリオの編成で演っているのは「ソニー・クラーク・トリオ」のタイトルの2作品くらいで、あとは彼のリーダーアルバムといってもホーン奏者との協演になるので、ピアノは傍役になりがちで、ソニー・クラークはそんな時に強引に出しゃばるようなことはしない。だから、ピアノが主役で通せる、この作品では満を持してパリバリ演っているのだろう。無理もないことだ。しかし、ここではフィリー・ジョー・ジョーンズのドラム、とくにシンバルが、時にピアノ以上に聞こえてくる。パワフルな金属音だけではなく、単調なようでいて、繊細にソニー・クラークのピアノに反応し、かといって反応しすぎていないところもツボなのだ。そういうところから、クラークというピアニストは、自身のプレイに突っ走る人ではなく、演奏の全体を見渡しながら自分の居場所を見つけていくタイプのピアニストであることが、この作品ではよく表われている。そこで、彼におけるピアノの深いタッチや独特のタイミング、重量感はあるものの角のとれた丸い感じの音で端正に弾かれるのは、演奏全体が安定して成り立っていることで生きてくる、そのような設計をして演奏を組み立てていることが、このアルバムを聴くとよく分かる。
 最初の「ビ・バップ」は曲名からしてもハードに疾走するナンバーだ。最初のテーマもそこそこに、すぐにアドリブを始めると、クラークのピアノはシングルトーンによる、まるで1歩の線が続くようなうねうねとフレーズを紡いでいく。それもハイスピードでテンションの高さを保ったまま。それが約7分間続けられる。その間、ソロの交代も3人のトゥッティのような変化もつけず、ひたすらクラークのピアノ、バックでドラム、とくにシンバルが目立つ煽りをしているが。同じ、バップのピアニストであるバド・パウエルであれば、パウエルは、まさに、目の前で音楽が生まれてくる瞬間に立ち会うような生々しい、切れば鮮血が吹き出すような新鮮な体験をさせてくれる稀有なピアニストだが、その演奏は閃光のようなもので、長時間にわたり付き合える代物ではない。鮮度というのは急速に落ちるものなのだ。クラークの場合は、ピアノ一本のアドリブ勝負で7分間という時間にもかかわらず聴く者を離さない。それはもう、パウエルの新鮮さでは太刀打ちできないものだ。これは、おそらく、パウエルといった人々が創った世界を、クラークは創られたものとして受け継いだというスタンスに違いによるものだ。つまり、生まれた音楽をいかに続けるかという段階にクラークはいる。それがパウエルとの違いだ。だから、クラークのプレイには、この先がどうなるか分からないといったスリルは感じられない。その代わりに、そのプレイそのものを魅力あるものにして、人々が聴いていたいと感じさせるようなプレイをするようなスタイルを選択するようになってきているのだ。それが端的に表われているのが、ピアノのタッチの違いだ。ともすれば、単調になりがちなシングル・トーンのアドリブの長いソロは、クラークは独特のタッチで支えている。クラークは、独特のリズムのノリで聴く者を引き込んでもいく。そして、終盤、ベースソロからにわかに曲想が変化しトリオの競演となり、ドラムソロへとつながり、全員でバトルのような火花散る疾走から鬼気迫るエンディングをむかえる。3曲目の「トゥー・ベース・ヒット」、次の「タッズ・ディライト」といったアップ・テンポのバップ・チューンでクラークはバリバリに弾いているが、ドラムあるいはベースが主導権を持って引っ張っている感じだ。しかし、それはクラークが彼らに演らせている感じだ。そこに、トリオとしてまとまりで演奏をつくっていく意識が前に出ていることが分かる。クラークのタッチとかノリといったことは、このことの一環としてあると思う。
 有名な「朝日のようにさわやかに」になるとテンポがぐっと落ちる。この演奏については各処で様々なコメントがある有名な演奏のようなので、今更付言する気はない。むしろ、折角アグレッシブに進んできた勢いが、この曲で止まってしまうので、このアルバムに入れなくても良かったのではないか、と個人的に思っている。

2016年5月24日 (火)

ジャズを聴く(31)~ソニー・クラーク「ソニー・クラーク・トリオ(タイム盤)」

Jazclark いわゆるバド・パウエルのプレイ・スタイルをベースにしたパウエル派と呼ばれるピアニストたちの一人。ブルー・ノートの伴奏ピアニストとして数多くのソリストやボーカルの伴奏を勤め、伴奏者としての録音は数知れない。そのような姿勢からも、自分がフロントに出てプレイを前面に出すというよりは、演奏全体を見渡してコントロールして最終的に自分の色彩にまとめ上げていくというプロデューサー・タイプだったように思われる。それは、彼の数少ないリーダー・アルバムでも、その傾向が強く、彼のピアニストとしてのプレイ・スタイルの特徴にも表われているといえる。彼のピアノは固定的でなく、その時のコンセプトや共演者によって、かなり柔軟に変化する。伴奏者としての経験やもともとの資質からかもしれないが、それを加味して、彼の特徴を考えてみたい。といっても、際立った特徴があって、一聴で彼のプレイが分かるというタイプではない。そのため、他のパウエル派のピアニストと比較しながら見ていくと、比較的分かり易いと思われる。
 クラークのピアノについて“哀感に満ちた陰翳の美、ピアノのタッチに込められた硬質な表現”と言われることがあるのは、そういう比較の上でのことで、彼がそういうスタイルを前面に出しているわけではない。例えば、ブルー・ノートに録音した「ソニー・クラーク・トリオ」というアルバムの最初に“朝日のようにさわやかに”という曲を演奏しているが、ウィントン・ケリきる、という感じだ。
 クラークのピアノのタッチは深くて強い。それが重心のひくい重い音になって聞こえてくる。そのため音色は暗く沈んだ、渋く感じられる。それがクラークの印象を地味にしている。しかし、打鍵がつよいため音には芯があって音の輪郭は明確だ。だから、地味だからと言って、けっして存在が隠れてしまっているわけではないのだ。その明確なタッチは時に強弱のグラデーションが巧みに使い分けられ、「クール・ストラッティン」以降の録音で顕著になるアクセントを後ろにずらして独特の溜めをつくり、フレーズの尻尾が粘るような、“後ろ髪をひかれる”ような後ノリを生み出すことになる。そのノリで聴くバラードは、思いつめたようなロマンティックな気持ちを感じ、哀愁とも翳りとも感じることにつながる。
 しかし、その一方、クラークのプレイは、明確なタッチで端正なのだ。あえて言えば、真摯にフレーズで勝負する姿勢といえる。クラークの即興演奏を聴いていると、バド・パウエルの短い分解されたリフを積み上げると言う行き方とは反対に、水平方向にうねうねとしたメロディラインを伸ばすように紡いでいくように聴こえる。まるで、レニー・トリスターノのように。クラークはそこで、意表を突くようなアクセントを施し、ひねりの効いたメロディにしているところがクラークとトリスターノの違うところだ。それを明確なタッチで、パウエルばりの速いテンポで突進することで緊張感をたかめる。多くの曲でクラークは躍動感のあるビートを押し出し、慌ただしさを強調し、緊張感の高いものにしている。これを例えばウィントン・ケリーだと、リラックスしたスイング感を得るために心もち打鍵を遅らせていた。また、スタカートによるアタックは、クラーク好みのヘビのように曲がりくねった構成とうまくマッチしている。そして、さらに、このような時クラークはバーン!とブロック・コードを叩く、これ見よがしのハッタリを使わずにハイテンポのフレーズを端正に演奏する。これによって、緊張感ある一方で、透明感のある演奏になっている。つまりは、劇的に盛り上がりを煽るようなことはせずに、フレーズで勝負しているのだ。そこに、地味だが味わい深い、という全体の印象が醸し出されるといえる。 

 

Sonny Clark Trio     1960年3月23日録音

Jazclark_time Minor Meeting
 Nica
 Sonny's Crip
 Blues Mambo
 Blues Blue
 Junca
 My Conception
 Sonia 

Sonny Clark (p)
 George Duvivier (b)
 Max Roach (ds)

ソニー・クラークに対する評として“後ろ髪を引かれる”ということを名盤ガイドやジャズの入門書で目にすることが多いが、このアルバムを聴くかぎり、そのような印象は薄い。
 ソニー・クラークには、この「ソニー・クラーク・トリオ」というタイトルの同じアルバムが2作品ある。紛らわしいことこの上ないが、録音レーベルが違うため、こちらはタイム盤と通称され、もう一枚はブルー・ノート盤と通称されて、ファンには区別されている。そして、この作品ではないブルー・ノート盤の方は、典型的な“後ろ髪を引かれる”プレイがおさめられているのだ。とにかくノリもドライブ感も二つの盤では、本当に同じピアニストなのかというぐらい違う。これは、録音レーベルの性格の違いも原因しているかもしれないが、ブルー・ノート盤がスタンダード・ナンバー中心であるのに対して、こちらはソニー・クラークのオリジナル曲という選曲の違いや協演者の違いも大きく原因していると思う。ここでは、ジョージ・デュヴィヴィエのベースと、マックス・ローチのドラムと一丸になって突進してゆくクラークのピアノは、かなりアグレッシヴで、後ろ髪引くどころか、前髪つかんで前へ前へと突進してゆくようだ。
 最初の「Minor Meeting」は、深い打鍵の重いピアノのブロック・コードの連打でビートを刻む、アクセントの音でベースとドラムがドスの効いた低音で音を重ねる。ちょっと、バド・パウエルの「ウン・ポコ・ロコ」を想わせる、ビートばかりの無機的に聞こえてくるテーマです。バド・パウエルの場合は、そこから強引にリズムだけとも言える無機的なティストでアドリブも押し切ってしまうのですが、ソニー・クラークの場合は、アドリブに入るとメロディっぽいところが時折しのばせるように出てきて、バド・パウエルに比べて情緒的なところが隠し味のようになっています。その代わりに、ドラムのマックス・ローチが煽るようにアグレッシブでプレイの推進力は衰えるところはなく、最後まで突っ走ります。
 続く「Nica」では、前曲の勢いで聴き進めて、マイナー・コードのブロック・コードで始まるテーマで“後ろ髪を引かれる”ような演奏にはピッタリのフレーズだれど、ここでは静かではあっても、しっかり打鍵して、むしろ静かだけれどアグレッシブ。これは、短い続くソロが続くベースが煽っているからかもしれない。アドリブにはいると、ピアノの打鍵は力強くなり、シングルトーンで、短いフレーズを重ねて、それが全体として長い一本の流れになるようなクラークに特徴的なソロを、しかも、前へ前へという、まるで突き動かされるかのように続く。
 3曲目の「Sonny's Crip」になってマイナーからメジャーに曲調が変わって、弾むようなリズミカルな雰囲気になるが、演奏の推進力は増してきている。これは聴く側の一方的な感覚だが、最初の2曲のマイナーな曲で勢いがついてしまって、それにつられてグイグイと勢い乗ってしまうのだ。
 7曲目の「My Conception」で、一息つくようなスローテンポのナンバーで、クラークのピアノだけのソロ・ナンバーで「枯葉」を想わせるテーマがしんみりとなりそうだけれど、アドリブになってテンポはそのままでも手数がものすごく多くて、テンポはスローなの二、その慌しさは、これもバド・パウエルを想わせる。スローテンポになっても、テンションが高くて息つく余裕を与えてもらえない。
 そして、最後の「Sonia」は、明るいリラックスしたムードの快演で、トリオの3人が溌剌と、まるでスピード比べをするかのようにプレイしている。とりわけ、クラークのピアノは突き抜けるようなピュアなタッチが印象的で、爽快に終わる。
 全体として、バド・パウエルに負けない、バリバリのプレイで、なおかつアルバムとしてのまとまりや親しみ易さもそなえた作品になっていると思う。時として常人を寄せ付けないような気迫と厳しさを湛えたパウエルのピアノは、一音一音のピアノの音の存在感が強烈だが、それが突っ走りすぎて演奏全体が瓦解してしまうこともある。そういうスリルは、クラークにはなく、むしろ全体を冷静に見通して、フレーズとして聴ける演奏をしているところに特徴がある。それが、ここでは余計な飾りがない裸の姿を見せてくれていると思う。

2016年5月19日 (木)

安田靫彦展(5)~第4章「品位は芸術の生命である」

第二次世界大戦で日本が敗戦した、いわゆる戦後の社会的な価値観の転換が起こり、伝統的な芸術の価値の見直しやら、画家に対しては戦争画などの戦争への協力の告発など、日本画で、とくに歴史画を描き続けることが難しくなった時期を越えた、晩年の作品です。厳しい状況でも動じることなく安田は歴史画を描き続けたということで、そのぶれない一貫した姿勢と説明されていますが、そういう面では鈍感だったと思えなくもないので、そのことについては、作品を見る限り何ともいえないと思います。安田の代表作とされる作品が、この時期に多いということですが、気の抜けたような作品も増えたようにも感じました。これは、展示作品を見た限りではあるのですが。
Yasudanukada  「飛鳥の春の額田王」という作品で、安田の代表作だそうで、郵便切手にも使われたということなので、見た人も多いそうです。飛鳥時代の女流歌人で、万葉集のなかでも、あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る という情熱的な和歌(天智天皇の後宮にいながら大海人皇子に送ったと言われる)が有名な人です。彼女の背後には、当時の都である奈良の風景が広がっています。左下に花咲く梅が描かれているので春の風景です。「あをによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり」と歌われた季節です。背後に畝傍、香具、耳成というお椀型の大和三山が遠望され、その麓には、飛鳥川を挟んで左手前から川原寺、本薬師寺、藤原宮、右には板葺宮、飛鳥寺、山田寺が描かれていますが実際の地理上の位置関係とは違うそうです。中心の額田王の衣服の赤と肩掛け緑青との鮮やかな対比が、この背景の建物の柱と屋根に反復され、画面に統一感をもたらしている。歴史画といっても、典拠のある出来事を題材にしたのではなく、「夢殿」のように人物を配して、後は観者に想像させるという傾向の作品に入ると思います。文化が花開いた飛鳥を春の光景と額田王とで象徴させたというものらしいです。この時代は、古代でもあり文献や史料が乏しいので、周辺の情報から画家がイマジネーションを働かせて描いたという、画家の構想力を問われる作品ということになります。解説されていたスタンダードな説明は、そんなところでしょうか。
 今まで、展示されていた作品を見ている限りでは、安田は描く題材によって描き方を変えているように見えます。それはどういうことかというと、聖徳太子や源頼朝、豊臣秀吉といった人々の間に人気があって参考する著名な画像があってステレオタイプの画像イメージがある場合には、そのイメージに倣ってパロディっぽいキャラで描いて、観者が作品に入り易くしています。これに対して物部守屋とか良寛とか現代の人物のように作品による画像イメージがない場合には、比較的写実的な描き方をして、年齢や性別、体型や衣装から外形イメージを画家がつくっていくことをしています。ただし、これらの中間にはいくつもの段階があるようで、中国の題材では類型的な人形のような描き方もしているので、一様とはいえませんが、両極端の間で描き方を使い分けているといえます。そこで、この額田王ですが、画像イメージは皆無に近いもので、歌人であったので和歌が残されていることから、その奔放で情熱的な性格は比較的知られていて、性格を想像する材料はそこそこあるということなので、以前の「守屋大連」のような写実的な描き方をすることも出来たはずですが、そうはしないで図案のような人格とか人間性の垣間見えない、まるでステレオタイプのキャラを最初から狙ったような描き方をしています。だから、全体として巧い模様のようなものとなっています。
Yasudaoh  私のこの展覧会で見出した安田の特徴というのは、絵画(芸術というと口幅ったいので、西洋画のような絵画というように受け取ってもらっていいと思います)と骨董とか工芸というような商品(イラストとかマンガに近いものといっていいと思います)の境界にあって、どっちにも足を踏み入れながら、どちらにも全面的に属さない危うい均衡のもとにあるような危なっかしいスタンスによって、時折、著名画家の名に似つかわしくないようなヘンテコな作品を堂々と提出してしまうところです。今回の展示で、「守屋大連」「風神雷神図」「花づと」「梅花定窯瓶」といった作品は、時には笑いを抑えきれないほどヘンテコで、それゆえに絵画とは何かという根源的な問いかけを厳しく突きつけてくるようなところがあるのです。それは、日本画の大家などという安定した枠に収まらない、ともしれば日本画を否定してしまいかねない革命的な面を底に秘めた作品であると思います。
 残念なことに「飛鳥の春の額田王」は、安田の作品を見回していると、そのように描くことが可能な題材と思えるのに、誰でもが安心してみることのできるステレオタイプの作品に収まってしまっているということです。老年に至り、気力が減退してとは思いたくはありませんが。
 「王昭君」という作品で、これも安田の代表作のひとつのようで、展覧会カタログの表紙には、この作品が使われていました。安田という画家は巧い人のようで、その巧さで描いた、小手先などと評すると、私の無知と無恥を公開しているようです。ここで描かれているのは、王昭君というのは、漢の王室が北の脅威である匈奴を手なずけるため後宮から女性を差し出すこととなった際に、肖像画を描かせて醜い者を選ぶはずが、画工に賄賂を贈らなかったために一番の美女である王昭君が選ばれてしまうことになり、潔く異国に旅立ったというエピソードです。しかし、残念ながら、ここで描かれている女性は、美女に見えません。美女かどうかは観る人の価値観によるので、客観的にどうとかは言えませんが、少なくともここでは観る者にそのことを納得させることは必要でしょう。そこを、敢えて行なっていないところに、安田のヘンテコさがあるという解釈は可能ではありますが、安田のヘンテコさというのは、この場合であれば、王昭君を美女に描こうとしてヘンテコになってしまったというところに、かれのヘンテコさがあるように、私には思えます。詭弁かもしれませんが。背景の敷物の赤とか衣装の黒とか、その配色や描く技法などは凝っているのでしょうが、それが凝っているというところで終わってしまって画面全体としての印象に還元されていないというのでしょうか、工芸品の模様のデザインのように見えるのです。
Yasudaumebin  「梅花定窯瓶」という作品です。ここまでくると、写実という要素はなくなって、抽象画とはいえませんが、実際に梅の花を見て描いたとはいえない。幼児のおえかきのようなものを技巧があるがゆえに図案のようになってしまった、と見える作品です。いってみれば無様としか言えない無惨なものです。老境に至った画家が、いままでの約束事を超越した自由な境地で、融通無碍に描いたなどと解説されてしまいそうですが、仮に、この作品を安田の作品としてでなく、無名の学生の作品として提出された場合に評価を受けるだろうか、とおもえるものです。私、個人に見る目がないかもしれませんが、そういう作品に見えます。しかし、それゆえにこそ、こんな代物を臆面もなく提示してしまうところに、安田という人のヘンテコさがあるかもしれないと思いました。穿った見方で、偏見に捻じ曲がっているかもしれませんが、そうであれば、発表された1963年の日本画の状況に対する批判ということになるわけです。
 まあ、そうでもないと、この最後のコーナーに展示されている作品は、代表作とみなされた有名な作品もおおいらしいのですが、私には気の抜けた、作品にすらなっていない、たんに紙に絵の具を塗っただけとしか思えないものばかりに思えたからです。

2016年5月18日 (水)

安田靫彦展(4)~第3章「昭和聖代を表象するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない」

1940年から45年の、わずか5年という短い期間ですが、安田の創作の高揚期にあたるという説明でした。その一方で、この時期の日本は長期化した日中戦争から真珠湾攻によってアメリカやイギリスなどのいわゆる連合国諸国との戦争になだれ込んでいく戦時の状態にありました。戦時体制の「挙国一致」は、絵画の分野に対しても「戦意高揚」に資する要請が有形無形に、いわば国策として画家たちも、積極的にも消極的にも協力していったということです。とりわけ、日本画という、もともと国威発揚の一環としてつくられた分野で、そのなかでも歴史的な題材を扱う安田の場合は、その立場からも、機能の面からも、制作をしていったということでしょう。
Yasudayoritomo  「黄瀬川陣」という作品。安田の代表作ということで、この展覧会のポスターやチラシなどでも、この作品が大きく使われている、いわば今回の展示の目玉ということになるでしょう。鎌倉時代の『吾妻鏡』や『義経記』のエピソードから、平家追討の挙兵をし、富士川の合戦で勝利をあげた源頼朝のもとに、生き別れになっていた義経が奥州から馳せ参じ、20年ぶりの対面を果たした場面ということです。一双の屏風の向かって右側の畳に座っているのが頼朝で左側の甲冑姿が義経です。
 ここで右側の頼朝の方に注目してしみましょう。まずは、その頼朝の顔です。この顔をどこかで見た記憶があるような気がしました。私の記憶に間違いがなければ、日本史の教科書でみた頼朝像です。京都の奥、高尾の神護寺に伝わる頼朝の似絵に書かれている顔とよく似ているのです。これについては、作品解説などでは、安田が様々な古美術や資料を参考にして、綿密な考証を重ねた結果という説明がされています。しかし、私には単なる下調べだけで終わっていると思えません(もちろん、その下調べをしなかったり、いい加減に終わらせてしまう人が大多数で、これを綿密に行なっていること自体が、安田という画家の誠実さを表わしているとは思います)。このような下調べは、絵を描くという作業に比べて、画家にとっては手間と苦労を要するもので、直接的に制作の内容を左右するかというと、どちらかというと、付加価値の部分であるような細部の出来栄えとか、そういうところに関係するものでしょう。完全主義者とか、細部にこだわるという画家の性格によって、そういうところに力を注ぐかどうか、というのが大多数の画家なのではないかと思います。しかし、安田の場合には、絵画制作の本質的なところで、下調べの必要があった、つまり、切実であったのではないかと思うのです。この「黄瀬川陣」の右側の人物の顔は、頼朝の顔として広く知られ一般化しているものだと思います。ということで、この作品はタイトルとか、作品説明がなくても源頼朝を描いた作品であることがすぐに分かるものとなっています。その方法というのは、神護寺の似絵の広く知られた頼朝の画像をキャラとして引用し、自作に持ってきて当てはめた。まるでパロディの手法です。いまなら、マンガやアニメーションで他の作品のキャラをそのまま持ってきてパロディとしてストーリーを作るという手法はよく使われています。以前にも「夢殿」で聖徳太子のキャラを自作に引用していると指摘しましたが、ここでも使われています。つまり、安田は、この「黄瀬川陣」だけに限らず、この方法を制作の方法論として広く用いていたということです。これは、私には安田の絵画制作の本質的な部分であるのではないかと思えるのです。そこで考えられることは、次の2点です。
Yasudayoritomo2_2  まず、この「黄瀬川陣」のなかの人物が日本で常識のあるひとであれば源頼朝であることが一目で分かるということであり、その頼朝という人物が歴史上どのようなことをして、どのような評判であるということをある程度知識としてもっていることを、当初期待できるということです。「黄瀬川陣」はそのような観者を前提として、そのために、頼朝の画像をパロディのように取り入れたのではないかと思えます。そうであれば、画面の頼朝というキャラがそうと観者に認識された時点で動き始めます。これは、映画やドラマでいうスターシステムのキャスティングに似ているところがあります。例えば、映画の中の登場人物についてトム・クルーズがキャスティングされていれば、その人物が映画のストーリーのなかで、主人公か重要な役回りであるとか、コメディ的とかマッチョ的ではないことが映画を見る前から分かっていて、それなりの期待をして映画をみていると思います。この「黄瀬川陣」では、頼朝の画像は、それと分かるキャラであることで、頼朝という人物が画面より先に観者の想像のなかで歩き始めることが可能になるということです。それは、逆の方向から言えば、画面を作ろうとするときに、人物がすでに観る者のなかで存在していることを前提に考えることができるということです。
 そう考えると、この「黄瀬川陣」の対面の場面全体の描き方の変な感じが理解できます。史料でもそう書かれていると思いますが、頼朝は軍団の総司令官で陣中は、その本部であるはずです。そして、義経は奥州から馳せ参じてきたわけで、数は多くないかもしれませんが奥州藤原氏からの兵士を引き連れてきています。だから、兄弟対面といってもオフィシャルな儀式であるはずで、この作品のように兄弟二人だけの水入らずでの対面とはなり得ません。陣中で頼朝は総大将として、旗下の武将たちを背後に従えているで、義経が口上を述べるという場面となるのが、スタンダードが場面の作り方ではないかと思います。また、もし兄弟二人だけの対面にしようとするならば、史実に記されている再会を喜び涙にむせぶということの強調ということになるのでしょうが、そうであるならば二人の間の距離が遠すぎます。この距離では涙にむせぶには、現実的に難しそうです。
 つまり、この「黄瀬川陣」では、富士川の合戦で義経が馳せ参じてきて、兄弟が対面したという歴史的場面そのものを描くのではなくて、その場面をバックに頼朝と、これに並ぶ義経という二人の歴史上のスターを描いたといえるのではないか。だからこそ、その意味で、二人の人物の描写や二人の周囲のアクセサリー等の小物類の描写については最高の技術が最高の配慮で描かれている(そう解説で説明されています)。そこには、最高の技術で最高の品質のものをつくりあげる一流の工芸職人のような安田の特徴が最大限に現われていると思います。ここで、今述べたような前提がなければ、スーパーテクニックを披露しただけの、技巧的なイラストにしか見えない作品ではあるのです。それは、適当な言葉が道からないので、陳腐な言い方に成りますが、芸術としての絵画にはなりえない巧いだけの骨董品(商品)というようなものでしかない、そう誤解されてもおかしくなかったのです。さらに、安田はそれだけでは終わらせずに、二人の武者のうちのひとりが源頼朝であることが、誰にでもすぐにわかるように描いて、頼朝というスターが画面から独立するようにしました。もう一人の人物が、たとえ義経であるとは、すぐに分からなくても、スターである源頼朝と正面から対峙し、画面の中でタイマンを張っているのであるから同格のスターであることは誰にでも分かります。そこで、二人のスターのぶつかり合いのドラマということが、この作品の歴史画としての写実とは別のリアリティ、迫真性を生んでいるのです。
 第二点目として、上記のようなことから安田は、歴史画を歴史の場面をリアルに描くというものとして描いていなかったことが分かります。西洋絵画であれば、歴史の場面に描くにも約束事はたくさんあって、頻繁に描かれるような場面であれば、有名な先行作品が何点もあって、そこで新たに制作する画家は先行作品を視野に入れて描くことが必要とされるでしょう。しかし、それらを参考にしつつ、画家は約束事や先例を押さえつつも、それらにない画家の独自性を出して、自分の作品の価値を主張しなければなりません。それが画家や作品の個性というものである。だから、有名な先行作品から主要なキャラをちゃっかり借用すれば、剽窃と受け取られてしまう。ひとつの作品が独立したものとして統一的に完結していること、そして、他の作品と同じでない独自のものであること、そのような芸術作品であるということ。このようなことに対して、安田は、若年の習作期は別として、画家として年齢を重ねていくに従って、そのような芸術としての絵画から次第にズレていったように見えます。とはいっては、そのような芸術を否定してしまって、そういうものとは無縁のところで制作を貫いたというのでもなく、両者の境界で彷徨っていたように見えます。この「黄瀬川陣」においても、テクニシャンである素養を発揮して、綿密な彩色や流麗な線描の技量や、細部に視線を移せば、鎧や軍扇などの漆の部分に艶墨が塗られていたり、金具には盛り上げ彩色が為されていたり、色彩に注目すれば、義経の袴のハッキリした白と薄い青みを帯びた幔幕の白、あるいは光る素材を混ぜた畳の高麗縁や弓袋の白といったように繊細に塗り分けられています(すいません、解説の引用です)。これらの技巧を尽くされていながら、画面全体には表現の厚みがなく、薄っぺらいのです。スカスカに見えてしまうのです。余白を生かすといった場合には、そう見せさせる全体的な緊張感の漲りがあるはずなのですが、ありません。だから、芸術作品の尺度で見てしまうと、キレイだけれど、それだけ、よくできた工芸品のようなものになってしまいかねないのです。安田は、そのギリギリの境目で綱渡りをするかのごとく作品を制作していて、そのぎりぎりの線上にいたのが、「黄瀬川陣」をはじめとした、この時期の作品ではないかと思います。
 Yasuda56 次に「山本五十六元帥像」を見てみましょう。源頼朝の場合と違って先行する著名な作品はありません。しかし、制作された昭和18年当時は、大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官として国内では誰もが知る著名な人物でした。多分の、写真をもとに描いたものと思いますが、描く技量にかけては安田は卓越していたことが、よく分かります。日本画のパターンにない題材で、しかも色彩としては黒が中心で鈍く地味で見栄えのしない題材をよく、絵の風景に仕立て上げたと思います。安田はテクニシャンとしては群を抜いていた証拠でしょう。 “たらしこみを多用した軍服の渾厚な墨色は、立体感を巧みに示しつつ偉丈夫の毅然とした風格さえ味あわせる”という評があったということですが、そう見えなくもなく、日本画の性格上の限界なのかもしれませんが、軍艦という鉄の塊のなかにいるという場面で、その鉄の冷たくゴツゴツした鋭角的な感触が、まさに殺戮兵器というものでしょうが、そういうところが全くなくて、また、重量感もなくフワフワしたようなのです。だから、工夫を凝らした軍服も写真を巧みに描写した山本五十六の姿も、軍艦に乗っている司令官というよりは、生活感のない風流な平安の貴族が軍服のコスプレをして、ハリボテの書き割りの前に立ってコスプレごっこをしているようにしか見えないのです。それは、一方では近代戦争の大量殺戮の道具である軍艦と、それをまさに実践している軍人の血生臭さを脱色して、優美にさえ見せています。それは、ある面では戦争のキレイゴトをプロパガンダするものとしては、効果的であったのかもしれません。これは、安田が意図したとか、そういうことではありません。ただ、この作品を見ていると、安田という画家に秘められた毒の要素、危険な部分が垣間見えるのではないかと思います。それは、単に工芸だけにとどまっていられなかった安田の画家としての資質ゆえに、彼が内に抱えていた闇の部分ではないと思います。この闇が深ければ、反対の光が相対的に輝くということです。
Yasudajinmu  「神武天皇日向御進発」という作品です。神武天皇が天孫降臨の地、日向の高千穂から進軍する場面です。人々は埴輪を並べたようで、海の波は様式化された模様のようです。ここでも、のんびりとした優雅にさえ映るキレイゴトになっています。これをよしとして表面的に受け取ったのが、安田より下の世代の画家たちで、そのような人たちが絵画として存在感が見られない歴史画を量産してしまうようになったのは、このような作品を踏まえてのことではないかと思います。

2016年5月17日 (火)

安田靫彦展(3)~第2章「えらい前人の仕事には、芸術の生命を支配する法則が示されている」

大正末から1940年までの壮年期の作品が集められたコーナーです。この時期の安田は精力的に制作に打ち込み、古典に学んだ、端正な線描、図と余白による緊密な構成、そして明澄な色彩による画風を確立したと説明されています。
Yasudawind  「風神雷神図」を見ていきましょう。二曲一双の屏風であること、それぞれの屏風に風神と雷神をひとりずつ配置していること、それに背景には墨のたらしこみで雲を描いていることから、安田はこの作品で、俵屋宗達や尾形光琳の風神雷神図を意識して描いていることが分かると解説されています。しかし、安田と二人の作品の風神雷神の姿はかなり違います。安田の作品では“はつらつとした若者の姿”で描かれていて、それは安田自身が“「鬼になる前」の二神の姿を描いた”と語っていると解説されていました。鬼になる前の姿とは、風神雷神として日本に伝わってくる以前の西方での原形であるとされるギリシャのアネモス、メソポタミアのエンリルの姿を参考にしたそうです。また、二神の両手を広げすっくと伸ばした姿などは興福寺の阿修羅像を参考にしているように見える、また肥満のなくよどみのない線描は水墨画の強弱のはっきりした線描とは異なる法隆寺金銅壁画でみられる鉄線描であるとも解説されています。このように安田は、写実というところから古典を勉強し、それを自身の様式に取り入れて作品を制作していったようです。
Yasudawind2  という解説はもっともらしいのですが、そういう解説をいったん忘れて、この「風神雷神図」を眺めてみると、変な感じがしませんか。正直に言うと、笑っちゃいますというほどヘンテコリンな印象なのです、ホント…。と冗談のように申し上げましたが。それは、上の解説で取り上げられていた俵屋宗達や尾形光琳の作品とあまりにかけ離れているからかもしれません。とは言っても、安田本人は受け狙いなどという意図はないでしょうし、戦略的にパロディとして制作したなどということもあり得ないでしょう。おそらく、解説にもあるように生真面目に勉強して、精進した結果なのでしょう。それは、俵屋宗達や尾形光琳の極彩色の氾濫のような色彩でつくられているような風神雷神に対して、スッキリというか、あっけないほどさっぱりとした二神を線描でやって、その線が鉄線描というのでしょうか、一定の太さで持続して伸びていて、強靭な感じがするのと、輪郭線というと黒い墨で引かれているのに、そうではなくて色の線となっている、つまり、単なる輪郭という機能ではなく、線で画面をつくっていることを明確に打ち出していて、それだから色塗りを抑制していることがハッキリしている。おそらく、安田の線の美しさというのは、そういうところにあるのではないかと思います。そういうことがちゃんと分かるように描かれているからこそ、真面目な(?)作品であることが分かるのです。たまに、コメディ映画で本人が大真面目で行動しているのに、傍から眺めていると可笑しくて仕方がないというキャラクターをみることがありますが、この作品も、おそらく、その類が当てはまるのかもしれません。
 私が、風神雷神図といって俵屋宗達や尾形光琳の作品を思い出すからというわけではなく、おそらく、安田の風神雷神図を見る人、例えば、この作品は院展に出されたということですから、私以上に先行する著名な作品を知悉している人々に見られることを想定できたと思います。絵画を見るということ、とくに歴史画のような過去に著名な同種の作品が存在している絵画を見る場合には、どうしたってその情報をあらかじめもって、作品に当たることが多くなります。制作する画家のほうでも、当然、過去の作品を参考として参照しているはずです。しかし、それは参考とする程度で、少なくとも、作品自体は独立していて、過去の作品の情報をまったく持ち合わせいなくても、作品を鑑賞することに差し障りはないことになっています。これに対して、私が安田の「風神雷神図」を見てヘンテコリンと思い、思わず吹き出しそうになったのは、先行する俵屋宗達や尾形光琳の作品と比べての上のことではないかと思います。比べると、どこか脱力系のようにも見えてきてしまうのです。前のところで、安田の作品は独立して完結したものを志向していないと述べましたが、例えば、歌舞伎でいう「世界」ということに近いのではないかと思います。歌舞伎の主要な演目は歴史的な事件や英雄譚がベースになっていますが、歌舞伎の舞台の上では実際の歴史の事実と一致しているとは限りません。例えば「義経千本桜」では平知盛や安徳天皇は壇ノ浦で死んでいないことになっています。その上で舞台は進んで行きます。それが歌舞伎の「世界」なのです。そして、歌舞伎の様々な演目は、その「世界」の上にたってサイドストーリーが創作それ、豊かなレパートリーが広がっていったのです。例えば、忠臣蔵から派生して「お軽勘平」が独立して演じられたり、まるで関係ないように見える「東海道四谷怪談」は、忠臣蔵の登場人物が他の場面に遭遇したらどうなのか、あるいは登場人物の有している特徴の一部を入れ替えたら話の展開が変わってしまうか、といったことが話が面白い方向(客に受ける方向)に脱線を繰り返した結果生まれてきたサイドストーリーと言えます。これは、現代で言えば、マンガやアニメの登場人物をつかってパロディ的にサイドストーリーを受け手が二次創作して同人誌を作って、それがそれなりに受けてしまうのに似ていると思います。しかし、それらは、いかに面白いものであっても、もとの原作あって初めて可能になったものなのです。安田の「風神雷神図」についても、この作品だけで独立し完結した作品として、仮に俵屋宗達や尾形光琳の作品が制作されなかったとして、存在し得るかという、それは難しいと思います。前のコーナーで見た「夢殿」もそうなのですが、安田は聖徳太子や風神雷神の姿を、先行する著名な例がステレオタイプとして定着していることを利用して、それをみんなが知っているということに対して、その先入観に逆らうことをせずに、しかし、そこにちょっとしたズレを生んだ画像をつくりだします。それを見る人は、安心して聖徳太子や風神雷神の姿を確認できるのですが、何か違うという感じ、そこに異化作用を生んでいく、そこに安田の作品の特徴があるのではないかと思います。
Yasudasyoubu_2  「菖蒲」という作品です。菖蒲だけを軸の中で大きくクローズアップし、たらしこみの技法で描ききった作品ということです。このような作品を見ていると、上手い画家であることがよく分かります。こんなに上手い画家が人物の描写となると、どうしてマンガやイラストのような扁平なパターンに域を出ることができないのか、不思議でなりません。それは、今の視点で言えることなのかもしれませんが、「風神雷神図」と比べると、違う画家が二人いるように、思えてしまいます。だからこそ、安田の人物を対象とした作品は、まわりくどいほどの屈折を経てしまうのでしょうか。私が、変わっているのかもしれませんが、そうでもしないと、人物を描いた絵画として見ることができないのです。

Yasudalady_2  「花づと」という作品です。歴史上の人物とか神話伝説のキャラクターではない人物を描いた作品です。このような先行する作例のない場合に、前に見た「守屋大連」もそうなのですが、この他にも横山大観や山本五十六を描いた作品などもそうです、安田は軛から解き放たれたかのように精緻な線と彩色で人物を描こうとします。ここにもまた、「夢殿」や「風神雷神図」とは別の安田がいるかのようです。この作品でも、パターンの枠内ではあるものの、顔についても瞳をちゃんと描いていますし、表情をつけようという意図は感じられます(ちょっと不気味な感じはしますが)。つまり、感情をもった個人としての人格を、外形だけでも描こうとしている。細身ではあるけれど、ちゃんと人間の骨格をそなえた人体となっています。少なくとも、同じ顔のパターンで首から下は着せ替え人形のように取り替えひっかえして作品を量産する、いわゆる美人画の日本画家たちの作品に比べ、絵画になっていると思います。私が絵画を見る場合には、日本画だからどうとか油絵だからどうとか、あまり区別しません。ジャンルの違いによる特徴を無視するわけではありませんが、とくに日本画というのは、明治政府の富国強兵政策のなかで、欧米列強に文化的に対抗すべく、欧米の土俵に立った上で自国の優位性や独自性をアピールしていくものであったと思います。だから、そもそも西洋絵画の尺度に乗っていると考えていいわけです。そのような出自を考えれば、西洋絵画の視点で見られることは、当時の日本画というジャンルを創出した人々、つまりフェロノサや岡倉天心たちは意図的だったと考えられます。その岡倉の弟子筋にあたる安田にも、その自覚は少なからずあったと思います。だから、私の述べていることは、あながち的外れとは言えないのではないか。手前味噌ですが、まっ、私の個人的好みであることに、屁理屈をつけてもしょうがないと思いますが。
 この展覧会で、人物を描いた作品が数多く展示されていましたが、私には、チラシに引用されている大作などよりも、この作品のほかいくつかが、親しみ易い作品でした。
 Yasudasonsi 「孫子勒姫兵」を見ていきましょう。『史記』り「呉越列伝」の中の次のエピソードを描いたということです。戦国春秋時代の呉王が兵法家の孫武の力量を試そうと、後宮の女たちを集めて指揮を執れと命じた。孫武は、寵姫を筆頭にした180人を庭に集め、二つの隊に分け、王の寵姫を隊長に据えた。しかし後宮の女たちは、王の戯言、遊びごとの延長だと思って、孫武が軍律を五度繰り返しても、どっと笑うばかりで命令に従わなかった。これに対し孫武は「兵が軍律に従わぬのは、隊長の咎である」と2人の首をはねて女たちに見せてまわった。
 右にいるのが孫子で、左には目を奪われるほど鮮やかな赤と白の衣装をつけた宮廷に使える女たちが7人描かれています。孫子は剣を抜き、手に槍を持った宮女たちと一戦交える構えです。女たちは白い衣装の裾は足を踏ん張っているため、左右に広がり、孫子のグレイの衣装も激しい動きで横になびいています。しかし、女たちはよそ見をしたり、槍を構えていない人(左端の二人)もいます。そこで、長い帯を腰につけている二人の隊長を切り殺そうとする場面ということだそうです。
 この題材については、著名な先行作品は私には寡聞にして思い至りません。試しに、ネットで検索してみましたが、ひっかかってきませんでした。といわけで、この作品では、そういうものがなかったのでしょうか。解説では中国の彫刻の孫子の姿を参考にしたとありますが、それは日本の人々の知るところではないでしょう。しかし、ここで、安田は「夢殿」などのようなパターンに倣ったスタイルで描いています。ここでは、先行作品がなかったにもかかわらず、あたかもあったかのように、かわば架空の先行作品を想像させるように作品を制作していると言えます。ストレートに異化を起こせないので、その前段階を虚構的に作り出して、そこから異化を起こさせるという手の込んだことをしてします。例えば、背景が全く描かれていません。ちゃんと『史記』のエピソードを描くのであれば、宮殿の中庭か何かで、建物をバックに玉座で皇帝が見ているところが描かれていなければなりません。それを敢えて省略してしまっているのは、見る者に対して、みなさんご存知のことのはずなので省略しましょう、というポーズではないかと思います。そこで、先行作品があり、見るものはそれを知っている振りをしているわけです。しかし、おそらく、この作品を見る人のなかで『史記』の孫子のエピソードを知っている人はほとんどいないと思いますので、それをタイトルや前評判の解説などを駆使して、事前の手配を考えたのではないかと思います。その点で、絵画作品だけでなく、作品周辺の情報の拡散なんかも含めて関連事項なども、この作品の中に含まれることになるのではないかと思います。安田の作品は、そのようなことを意図していたのではないか、と私は思います。
 このように考えていくと、安田の作品というのは、絵画作品という物に対する、近代主義的な共通認識とは少しズレてくるのではないだろうか、と思います。

2016年5月16日 (月)

安田靫彦展(2)~第1章「歴史画に時代をあたえ、更に近代感覚を盛ることは難事である」

安田が14歳で小堀鞘音に入門してからの25年間の習作から初期の作品です。いったん写実に傾斜した画風が、古典芸術への共感の高まりと共に簡潔さを加え、やがて色や形、構図によって主題への解釈を自在に演出するものへと変容して行った。この25年間で、安田は歴史や芸術に関する教養と技術、それにも増して、正しい考証と主題解釈の独自性、近代的造形をあわせもつ、そんな歴史画のあるべき姿に対する新年であった。という説明が付されていました。
 最初のほうの展示は、器用なガキがお手本を上手に学びました(たしかに巧い)というたぐいでした。しかし、その画面は晩年の作品と並べても遜色はないものでした。一種の天才少年だったのか、逆に言えば、晩年になるまで、それほど変わっていない、キツイ言い方をすれば、著しい進化はなかったということにもなります。私には、そうも見えます。おっと、結果を急ぎすぎたかもしれません。ただ、私には、後年の個性が感じられない類型的な“日本画”然とした作品に比べて、少し枠をはみ出しているような作品がこの時期にあって、親しみ易かったのも事実です。
Yasudamoriya  「守屋大連」という作品です。守屋大連とは、物部守屋のことで古代の飛鳥王朝で仏教の伝来に反対し蘇我氏と対立した人物とされています。頑なな保守派としての人物の性格をも伝える現実感ある描写を安田当人は「余りにも写実表現が生すぎる」と自省したと説明されています。私には、今回の展示では、絵画として鑑賞の対象としてはもっとも分かりやすい作品でした。とりたてて頑なな性格が窺われるようには見えませんが、少なくとも、画面にいる3人の人物の顔のつくりが異なっている。何か当たり前のことのようですが、日本画を見ていると、あながちそうとも言えません。いままで、いわゆる日本画というジャンルの画家の展覧会のいくつかを見てきました。例えば、横山大観、下村観山、菱田春草、竹内栖鳳、速水御舟などといった人々ですが、一様に花鳥画や風景画はいいとしても、人物を描いたものはイラスト、挿絵、まんがと区別をすることが私には難しいものばかりでした。これは、イラスト、挿絵、まんがを貶めようという考えはありませんので、誤解のなきよう。これは、安田が主として描いた歴史画とは何かということにも関連することなので、そもそも歴史画とは何かということに遡って考えてみたいと思います。
 西洋絵画(へんな言い方ですが、便宜上日本画と区別するために)では歴史画は絵画のヒエラルキーでは最高位にあるものと近代絵画以前の17から9世紀のアカデミーと言われる権威では位置付けられていました。歴史画は神話や歴史上の場面を描いたもので、場合によっては宗教的なエピソードを教訓的に描いたものも含まれることもあります。この場合の宗教や神話の物語や歴史は様々な寓意や教訓を含み、崇高さや偉大さに満ちたものであるものとされました。これは、この当時の絵画の注文者が教会や君主、あるいは有力な貴族といった支配層で、歴史画の大きな作品を聖堂の壁面や城郭の大広間に飾ることによって、自身の出自の正統性や偉大さを広くアピールするための、一種の宣伝ツールとしての機能を担っていたものだったと考えられます。このような機能を考慮すれば、歴史画で重視される要素はどのようなものでしょうか。誤解を恐れず端的に言えば、人々が見て感心し畏れさせることではないかと思います。直接的な言い方をすれば、人々が感心して、その絵を飾っている支配層をあがめるように働きかける機能です。そのために、歴史画はどのように描かれるべきか、美術史の教科書のような著作では、画家の歴史的・宗教的知識・創造力・画面の構成力が必要という説明がされていますが、実際的な機能を考えると、見る人を感心させ、かしずかせるためには、人々からある程度の共感を得ることが必要であると思います。自分たちとは異質の人間離れした神さまとか精霊のような対象では、支配者としてリスペクトするよりは、自分たちとは無縁の関係ないものと突き放してしまうでしょう。そこで必要となってくるのは、リアリズムです。つまり、見る人が自分と同じような存在であるからこそ共感とかリスペクトといったような感情移入することができるわけで、歴史画の中の人物に、そのような感情を抱くためには、その人物がリアルであると想像できることが必要です。たとえば、怒っていたり、悲しんでいたり、苦悩していたりといった自分と同じような人間である人が、偉大な行為をしたからこそ尊敬の視線を送るようになるというわけです。だから、歴史画の中の人物は、人々の共感を誘う、リアルな存在感のあるように描かれることが必要です。このような歴史画の見方は私の個人的な独断で、一般性はないかもしれませんが、このような視点で、日本画というジャンルで制作されている歴史画を見ると、機能や目的が不明確で曖昧に見えてしまいます。へんな言い方かもしれませんか、西洋画に歴史画というヒエラルキーの高い絵画ジャンルがあるから、日本画でもやってみようと見よう見真似で描いてみた、と思えてしまうのです。しかし、実際に日本に歴史画を注文して、それを活用しようとする注文主がいたのか、むしろ、描く側の都合で、日本画でも歴史画を描くことができるという権威付け、箔付けのような動機で始められたのではないか、そのような妄想をしてしまうのですが、それは、この安田の諸作のそうなのですが、中途半端で曖昧な画面を見ていると、そう思うのです。
 回り道が長くなりましたが、「守屋大連」に戻りましょう。歴史画としてみた場合に、ここで描かれている人物が物部守屋であるとすぐに分かる人は、どれほどいるでしょうか。上目遣いでにらむ視線は険しく、眉間の皺も深く、どこか近寄り難い風貌すら見せている、と形容する人もいるようですが、何の先入観もなくみれば、皺深い、機嫌の悪そうな老人です。古代の飛鳥風の衣装を着て(綿密な考証をしているのでしょうが)、それらしい格好の人物が背後にいるので、昔の人なのだろうかという程度です。だいたい、物部守屋という人物を歴史の上でどれだけメジャーでエピソードや風貌が知れ渡っているのかはなはだ疑問です。だから、この絵を一目見て、歴史画かコスプレの肖像画か、その機能を見分けるのは易しいことではないでしょう。しかし、「守屋大連」というタイトルで、聖徳太子や蘇我氏と仏教の受け入れをめぐって対立し、その結果滅んだ物部守屋という人物が描かれていると分かった途端に、ここで描かれている老人はストーリーを紡ぎ始めます。西洋画の宗教画や歴史画は文字を読めない人々にもエピソードを伝える啓蒙や宣伝の機能を果たすものでしたが、このように見れば、この「守屋大連」は文字を読めるという最低限の教養があって物部守屋という歴史上の人物を知っている人が鑑賞し味わうことができるものであるわけです。つまり、絵画として自身で完結していないのです。これは、安田の指向とか技量に責任を負わせるものではなくて、そもそも日本画の歴史画というのが、そのような性格を元来背負わされていたもので、その中で誠実に作品を制作しようとして、安田の絵画がこのような性格になってしまっていたといえるのではないかと思います。つまり、安田の作品は絵画という完結した作品から、どんどんずれていくのです。この後の安田の制作の軌跡を見ていくと、私にはそう思えるのです。
Yasudataisi1  「夢殿」という作品を見ていきましょう。安田は「守屋大連」を制作した後、結核を患い療養生活を強いられます。その間に古典を研究し、その結果「守屋大連」の過度な写実から古典的な手法への揺れ戻しがあって、この「夢殿」を制作し、高い評価を得たと説明されています。安田はこの作品について、“聖徳太子が「法華経義疏」をあらわしている時に難渋して夢殿にこもって瞑想にふけっていると、金色に輝く聖僧があらわれ、教えをさずけたという伝説による”と記していると説明されていました。画面右側の三人の僧が、聖僧ということになるでしょうか。では左側の女性たちは何なのでしょうか。それについては、安田は必ずしも伝説に忠実ではなく、それを説明的に描いたのではなく、それにヒントを得てモティーフを膨らませた。つまり、さまざまな奇跡に彩られた聖徳太子という宗教的人格を、奇跡の現場となった夢殿とともに象徴的に描いたと解説されています。
 Yasudataisi2 この「夢殿」を描く際には、安田は制作する作品が自立し完結した作品とならないことを自覚していたのではないかと思います。それがゆえに、「守屋大連」のような中途半端な写実を放棄して(写実からの飛躍とか解説されていましたが)、絵画ではない方向に意識的に進もうとしたのではないかと、思いたくなります。この作品を見てみると、例えば、聖徳太子の描き方です。「守屋大連」のような描き込みはされず、スッキリとした描かれ方ですが、聖徳太子と分かります。それは、ある程度の知識のある人であれば聖徳太子であると分かる、聖徳太子のキャラクターの約束事に沿って描かれているからです。具体的に言えば、法隆寺に伝えられていたといわれ、今なら日本史の教科書に載せられている聖徳太子のカットに似せて描かれているからです。中心の聖徳太子がそうであると分かれば、彼を取り囲む人たちは、別に特定の人物である必要はなく、僧侶とか女官のコスチュームを被せて配置すればいいわけです。これは、マンガのキャラクターの描き方に通じるような、登場人物を記号にように一種の約束事として作者と読者との間で共有することに似ていると思います。さきに述べたように歴史画が、歴史の偉大なエピソードを描くとすれば、その偉大さとは何らかのアクション、つまり行為を行なった結果としてもたらされたものです。その行為が偉大であるということは、ひいてはその行為を行なったヒーロー(人物)が他の人にはない偉大さがあったからです。ということは、その人物が他の人にはない、つまり、個性と言ってもいいでしょう、がはっきりわかる、そして、その個性を持った偉大な人物が目の前に生き生きと再現される。そのような人物の存在感とか個性が再現されるには、他の人物と並べて違いを際立たせるのが効果的です。歴史に限らず、ドラマは人と人との関係から生まれます。そういう意味でも、個性のある人物が画面にあって、相互の関係からドラマが生まれるというのが、歴史画のひとつの手法ではあると思います。しかし、この「夢殿」では主人公である聖徳太子はステレオタイプのマンガのキャラクターで、他の人物はノッペリとしたコピーアンド・ペーストのようなその他大勢で、コスチュームプレイのように扮装でそれと分かるというだけの一種の背景です。
 しかし、この「夢殿」が描かれた1912年、文展に出されたということで、この作品のニーズやマーケット状況(誰に、どのような人に向けて制作されたか)を考えてみると、まず文展というコンクール向けに描かれたということから、コンクールの審査をする人々、当時の日本画壇の権威筋の人々が果たして、西洋の歴史画をよしとする人々であったのかというのが考えられます。おそらく、上に述べたような歴史画を認めてしまうと、自分たちの描いている作品を否定することにもなりかねないでしょう。また、さらに、当時の日本での歴史画のニーズを考えてみると、この「夢殿」のような作品が、うまく合致するものであったのではないかと思えるのです。当時の日本画に歴史画のニーズはあったと思います。それは、日本という国の立脚点を明らかにし、現在を正統化し、国威を発揚する、さらに国内外に日本をアピールするというニーズです。それは、特定の支配者や有力貴族の家系の偉大さをアピールし、その支配を正統化するというのは、ちょっと違います。後者であれば、他の者や民衆とは違って、支配者を特別なものと際立たせるという違いを強調するものです。これに対して、前者の場合には、国威発揚ということで、ふつうの庶民も含めて、みんなで一体化して盛り上げて国を発展させていくという、違いではなくて、共通性を強調するものとなるはずです。つまり、「夢殿」で、もし聖徳太子が偉大な個性を強烈に放つ人物としてリアルに描かれていたとすれば、そこに反発を感じる人も当然出てくるでしょう。それは、支配者として遠目に崇めるのであれば、それでもいいかもしれません。しかし、そこでみんなで共有して一体感を持たせるには邪魔になってきます。そこでは、むしろ透明でも、シンボルのようなほうがみんなで共有し易いのです。みんなが知っているステレオタイプのイメージを壊さずに、むしろ、観る者がイメージをふくらみやすくしてあげれば、そこに人々は自分たちのものがたりを加えていって、作品の印象が豊かになっていきます。「夢殿」の画面は、その邪魔をしないように具体的で生々しいもの、観る者の個人とか自立を求めるような、孤独に作品と対峙させられるような要素は用心深く排除されています。
 Yasudaume しかし、「夢殿」が上で述べたような機能を果たすことできるものであるならば、それは絵画と言えるでしょうか。そこに、私は安田の作品に一貫して、絵画からズレを感じるのです。安田自身、そのことを意識していたのではないかと、私は妄想しているのです。
 ちょっとした息抜きではないですが「羅浮仙」という作品を見てみましょう。梅ノ木の精だそうです。「羅浮仙」というのは中国の隋の時代に、趙師雄という人が羅浮仙の料亭で、羅の衣をまとい梅の香りを漂わせた美女に誘われ酒を酌み交わし、酔いつぶれて寝てしまったのですが、夜が明けると梅香る樹のもとで目覚め美女はいなかったのですが、実は美人は梅の精であったというお話です。これでもかというほど、いっぱいに咲き誇るような白梅と縦横に枝が延びる、まるで唐草模様のような背景に細面の美女(?)がこちらを向いて立っている。これが美女といえるのか分かりませんが、おそらく浮世絵の美人とかマンガの美少女のようなこう描くと美人というお約束を充たして、あとは背景とかコスチューに趣向を凝らして異彩を放っているのではないかと思います。主催者あいさつの中で安田の特徴として述べられていた「美しい線」、「澄んだ色彩」、「無駄のない構図」というのは、このようなところで魅力的に発揮されているのではないかと思いました。なお、この三つの特長については、後で少しずつ具体的に触れていくことになると思います。

2016年5月15日 (日)

安田靫彦展(1)

2016年4月30日(土)東京国立近代美術館 
Yasudapos_2  休日に、わざわざ美術館に出かけるなどということは滅多にないことだ。このように、美術館で展覧会を見た感想をせっせと書いているけれど、見に行った展覧会は仕事のついでに、時間をみつけては手近な美術館に寄ったというもの。展覧会を見ることが第一目的ではなかった。だから、リラックスして絵画を眺めることができたし、あれこれと妄想のような考えをめぐらして遊ぶこともできた。だから、休日に美術館に出かけるというは、私にとって珍事ともいえる。しかも、その出かけたのが安田靫彦という画家で、万難を排してまで見たいと思うような画家であったのか。などといっても、実は、都心で学生時代の友人と会う約束があったので、そのついでに少し時間を早めて家を出て、ついでに近代美術館に寄ったというだけのこと。近代美術館は都心の美術館では交通の便と開館時間の関係で、平日に仕事で都心に出て、そのついでに寄ることが難しい位置にあるため、このような機会でもないと訪れることもできないため、寄ってみたということ。休日の、しかも4月末から5月初めの大型連休のときということで、いつも平日に訪れるのと、違うかもしれない雰囲気と、休日だから混雑しているかもしれない(会期も終わりに近い)、上野で開催している若冲展が2時間待ちなどという噂も聞いているので、一抹の危惧もあった。実際に、でかけてみると、人では少なくはないが、絵を見るに支障のあるほどでもなく、人気の作品の前では人だかりがしていたのを別にすれば、まあまあの状態で、落ち着いた時間を過ごすことはできたと思う。
 安田靫彦という人は、日本画では大家であるらしいのですが、門外漢の私にはいっこうに不案内なので、いつものように主催者のあいさつから引用します。主催者の趣旨もそこに織り込まれているとおもうからです。“安田靫彦(1884~1978)は、はじめ小堀鞘音の門に入り、新しい歴史画の研究に意欲を燃やしました。1914年の日本美術院再興には経営者同人として参画、以後、岡倉天心の直接の指導を受けた最後の世代として院の中核を担いました。靫彦の作品は「美しい線」、「澄んだ色彩」、「無駄のない構図」といった、誰もが日本画らしいと感じる特徴をそなえています。明治、大正、昭和を生きた靫彦の80年に及ぶ画業全体を見渡すと、それは伝統的な古い様式ではなく、写実に取り組んだ時期、さらに考証という域を超え古典芸術に範を求めた時期を経て、日本画の領域に初めて達成された真に新しい様式だったと理解できます。また、生涯かけて取り組んだ歴史画では、教養と造形力を武器に、誰も描かなかった主題にゆるぎないかたちを与えたことも特筆されます。─中略─本制作ばかり108点を紹介する本展は、靫彦の豊かな創造力と端正で品格の高いその芸術の魅力を再確認するまたとない機会となることでしょう。また、94年の長命に恵まれた靫彦は、昭和初期のナショナリズムの高揚や戦後の価値観の激変を、身をもって経験しています。時代の大きな流れのなかで、靫彦は何をどう描いたか、そしてそれはどう変化したか。本展では、靫彦の生きた時代の問題も視野に入れながら、靫彦の画業を考察したいと考えます。”これだけでは、安田は(主催者あいさつや宣伝や展覧会を見た人の感想記事などでは靫彦というファーストネームか雅号が使われているようですが、いつもカンディンスキーとかカラヴァッジョというようにラストネームで画家を呼んでいるのに倣って、ここでは安田という名字で画家を特定しています。これは別の展覧会の感想でも、大観と呼ばずに横山と呼んでいるのに揃えています。私には、この方が言いやすいので。)どのような画家であるのか、具体的には分かりません。例えば、このあいさつでは安田の特徴を「美しい線」、「澄んだ色彩」、「無駄のない構図」の3点であると説明していますが、安田の線の美しさとはどのようなものであるかについては何も語られていません。あいさつ文を批判するわけではありませんが、例えば線の美しさというのは多くの画家が追求するもので線の汚い画家といないと思いますから、単に線が美しいというのは、画家の特徴を表わすものにならないと私は思います。それぞれ画家なりの線の美しさを、画家たちは追求しているはずなので、ここでもし安田の特徴を言うのであれば、安田の線はどのように美しいのか、というところまで行かなければ、安田の特徴を表わしているとは言えないと思います。例えば、ある画家の特長について、美しい絵を描くというのでは、何も行っていないに等しいと思います。まあ、作品を見なさいということなのでしょう。
 で、全体として作品をみた印象を、ここの作品について書いていく前に簡単に言うと、たいへん難解でした。と言っておきます。分からない、というのが率直な感想です。実際に会場を回って展示をみて、あまりの難解さに、自分は、一体何をしにここに来たのかという、強い後悔に捉われました。入場者が比較的多かったのですが、皆さんは興味深げに鑑賞していた様子だったので、難しさに途方に暮れているのは、私だけかと、たいへん疲れました。
 こんなことを言うと、“あまり考えすぎずに、無心に感じてみましょう”とか“芸術は理解するのはなく、感じるものだ”といった意見を言われることがあります。偉い評論家のセンセイ、例えば小林秀夫とか吉田秀和などといった人々、がたは、芸術は分かったとか分らないとか、理屈で理解するのではなくて、無心に接してみて、良いか悪いか感じればいいということを仰います。そういうのは、自分が分っているから言えるのであって、それを分らない人に、分っていたうえでやっていることを強いるのは、傲慢でしかありません。むしろ、「オレは分っているからいいんだ。オメエらは分かんねえだろう」という自慢の心の声が聞こえてきるようで、そういう評論家に限って、無心(と自分で思って)に作品に触れるときの、自分の感性の構造をみずから検証しないでいて、じぶんと違った感性の存在が分からず、感性の違う人に対して、どのような説明が理解してもらえるかという視点が全くないため、フォロワーしか彼の評論を理解できないということが往々にしてあります。例えば、吉田秀和が時折漏らす本音。「それが分からない人は、最初から(クラシック)音楽など聴かない方がいい」。それを誤解して、難しくて高尚だとかいって高い評価を受けている評論家の先生が沢山います。絵画に対しても、そういう権威ある先生がいると思います。なんか、自分が分らないということで醜いやつあたりをしてしまいました。
 ここでいう「分らない」というのは、偉い先生方が言うような「美術を頭で理解しようとする」というようなことではなくて、(それが全然ないと言えませんが)、極端にいえば「こんなの絵ではない」という否定の意味があるように思います。だから、さきの言説に対して言えば、もともと感性で接する「美術」であると確信できないものに対して、このような言説は「美術」に対して感性で接しなさいと言っているわけで、ピント外れも甚だしい、ということです。さて、「分らない」に戻りますが、かりにヨーロッパで抽象画がはじめて出て来たときのことを想像してみて下さい。「こんなの美術じゃない」という否定の声が多かったと思います。欧米の人は断定的ない言い方をしますが、私等のような日本人は、そういう時に決めつけることを避けて、謙遜した言い方で逃げることが多いと思います。そういう時に「私には分らない」という言い方はとても便利です。そういう意味で「分からない」には婉曲な否定が入っていると思います。
 話は少しそれますが、私は音楽を聴くのも好きでジャンルなどには拘らずに聴いていますが、その中には西洋のクラシック音楽の楽曲も好んで聴く曲の中にあります。その中で、モーツァルトというクラシック音楽の代名詞ともいえる大メジャーな作曲家がいます。私はクラシック音楽に接し始めて20年以上になりますが、今以ってモーツァルトとハイドンの作品は難解で、何度聴いてもよく分らないのです。クラシック音楽好きな人に、その話をすると信じられないという顔をされますが、マーラーとかパレストリーナとかは大好きで長時間聴いていても疲れることはないのですが、モーツァルトの曲、例えば有名な「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とか交響曲とか、何が何だか分らないのです。そこで感じている難しさと、似たものを今回の展示を見て感じました。ともっともらしい理屈を捏ねていますが、本当に分らない。
 端的に言えば、安田の描いた絵が、例えば、他の画家の描いた絵と区別がつかないし、安田の作品の中でも並べられたそれぞれの作品の違いが判らず、同じ見えてしまうのです。展示の中に「東都名所」という当時の著名な日本画家が東京の名所を描き比べた作品が並べられていました。その中に安田の描いたものも混じっていたのですが、他の画家のものと見分けられなかったのです。(他の画家たちも個性がなかったということでもあるのですが)、つまり、これが安田靫彦だとか、これが安田の何々という作品であると特定ができないのです。西洋絵画(一応、便宜上このような言い方をします)では、画家が他の画家と同じということになれば、個性がないということで評価の対象にすらならないでしょうから、最初の作品が成り立つ前提として、だれもがいまさら言うことのほどでもないのです。しかし、私が当時の絵画の知識がなく、そういうものに対する感覚的な土壌を欠いているためかもしれませんが、安田の描いたものは、そういう基準を満たさない、規格に当てはまらないのです。だから、私からすれば、それは絵画ではないということになります。そういうものを理解できるか、理解できません。だから難解なのです。
 だから、「分からない」ものを無理して見る必要はないはずです。もともと、絵を見るというのは好き好きの世界でしょうから、好きになれない人に無理強いして、変な理屈をつける(感じればいいとか)ことは無用と思います。そんなことを言うと、ではどうして、このようなことを長々と書いているのかと、ここまで読まれた方は文句のひとつも言いたくなるだろうと思います。ただし、です。例えば、今、友人として行き来している人がいる場合、最初に出会ったときは「見知らぬ」人つまりは、「分らない」人であったはずで、おそらく、人は、その「分らない」という壁を突破して、その「分らない」人と「分り」合い、その結果友人となったと思います。だから、「分らない」というのは出会いの始まりなのです。その点で、未知の美術に出会った時に、「こんなの絵じゃない」といって断定的に否定するのではなくて、「分らない」と言ったのは、もしかしたら「分る」ためのスタートラインに立った宣言という意味合いもあるのではないかと思います。そういう意味で、「分からない」という態度を否定的にいうことには、私は与しません。むしろ、「分からない」ものは「分からない」と正直に明らかにしたほうがいいと思うのです。そこから、スタートするのですから。
 それでは、かなり頼りないと思われるでしょうが、具体的に作品を見ていくことにしましょう。展示は次のような章立てでしたので、それに沿って見ていきたいと思います。
 第1章「歴史画に時代をあたえ、更に近代感覚を盛ることは難事である」
 第2章「えらい前人の仕事には、芸術の生命を支配する法則が示されている」
 第3章「昭和聖代を表象するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない」
 第4章「品位は芸術の生命である」

2016年5月11日 (水)

トランプさんの主張への私見

アメリカの大統領選挙の予備選も、共和党はトランプ氏が候補者のサバイバルレースで浮き残って、大きな波乱の状況となっているということです。とくに、彼の歯に衣を着せぬ言説もさることながら、プロフェッショナルな政治家ではありえないような、暴言と称されるような規制の政策とは、異質な考え方を公言しています。例えば、移民の規制だったり、とくに、対日認識については、ニュース等で盛んに取り上げられています。日本や韓国がアメリカ軍の駐留経費の負担を大幅に増額させなければ撤退させる。さらには日米安全保障条約についても、アメリカが攻撃されても日本は何もしないが、日本が攻撃されたらアメリカは駆けつけなければならず、不公平だと主張しました。そして、日本の核兵器も否定しないとまで、エスカレートしていきました。このような発言に対して、米国の高級紙の新聞やテレビのネットワークは強い批判的姿勢を示し、日本のマスコミや政府は、その主張に戸惑うばかりといったところだったと思います。全体的に批判的な調子で、対策(まるで災害対策の対策をもってきたかのようです)を考えようとか、そういう感じであると思います。
 このようなトランプ氏の主張するところは、第二次世界大戦後の日本の戦後体制、つまるところ、アメリカの占領政策という、日本に再軍備をさせないということを180度転換させることになると思います。それは、ひとつの視点で言えば、日本の軍隊を解体し、戦力不所持を条文化した憲法を持たせ、アメリカ軍が駐留して日本の再軍備を抑え込み、他方で中国やソ連といった東アジアの共産圏の進出に対する防御拠点として日本を守るということだったと言えます。たしかに、当時のアメリカ人やヨーロッパ人にとっては、異質な文化的伝統を持ち、いつもはニヤニヤ笑っていて従順な様子だけれども何を考えているか分からない。それが、突然、思いもかけず暴発するように、第二次世界大戦のような無謀と言える戦争を国全体が熱狂して仕掛けてくる。欧米の人々にとっては、目を離すと何をするか分からない危険な野獣のようだったのではないかと思います。また、マスコミは、そこにぶら下がっていれば、情報を得ることが分けですし、官僚の方にシフトすることもできました。
 その占領政策が長期化し、ルーチン化してくると、そこに既得権益を持つ人々が増えてきます。例えば軍産複合体と言われる、軍需産業と軍隊、そしてまた、知日派といわれる学者、官僚、政治家と、これに対する日本の政治家や外務省、防衛省の官僚たちというところでしょうか。それらの人々が互いに手を組んでそれぞれの地位を保障し合うという、日米安保体制があった方が、彼らの重要度がアピールできることになっている。それは、歴代の政権で日米関係を担当していたので、政府の方針となっていたということだと思います。
 トランプ氏の主張は、暴言かもしれませんが、その既得権益に対する攻撃になる可能性があったのではないかと思います。
 これは、客観的事実といったことではなくて、そのようなことも可能性としてありうるのではないかという、個人的な妄想ですので、ご笑覧いただくような程度のものと思っていただきたいのですが。
 もし、上記のようなことが考えられるとすれば、トランプ氏の発言が、マスコミから無視されてなかったことにされずに、大騒ぎになるということは、そのような発言が通る土壌が、アメリカにできてきているからではないかと思うわけです。そうであるとすれば、トランプ氏の主張は暴言であるように、現時点では評されるとしても、将来的にはひとつの選択肢として正面から議論の対象となる可能性があるということです。
そう考えると、この主張を批判したり、危機感をもって対策を考えるのもいいのですが、日米関係が変化するかもしれない可能性を考慮して、自国に有利に方向にもっていくためにしたたかに利用するという発想のあるのではないか。例えば、政権野党の立場からは、外交防衛政策や基地問題の解決のあらたな選択肢を現実的な戦略として提案できるのではないかと考えてもいいのではないでしょうか。
 例えば、米軍の駐留の費用を全額負担するとか、日本は軍備してもいいとかいうことになるのであれば、在日米軍はすべて引き払って本国に帰ってもらい、沖縄などの基地は返還してしまうことができるわけです。そのためには、アメリカ軍がいなくなっても大丈夫なような、外交や防衛戦略に現実的で、世界の国々や日本の国民の大多数が納得できるように計画し実行できることが最低条件として必要になってくると思います。
 また、憲法論議の場合でも、第9条の平和条項と日米安保条約は内容が矛盾していたわけで、その安保条約が変わってしまうのであれば、その矛盾を一気に解決できるわけです。そこで、憲法学者とか識者とか、いわゆる護憲のひとたちが現実的な戦略をつくって、人々を納得させることができるチャンスを得ることができることになるわけです。そこで、改めて憲法をどうするかという議論が、現実問題として必要になってくるかもしれない。
 ということで、トランプ氏の暴言のような主張ですが、受け取り方を戦略的に考えてみてもいいのではないかと思ったりします。

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