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2016年5月24日 (火)

ジャズを聴く(31)~ソニー・クラーク「ソニー・クラーク・トリオ(タイム盤)」

Jazclark いわゆるバド・パウエルのプレイ・スタイルをベースにしたパウエル派と呼ばれるピアニストたちの一人。ブルー・ノートの伴奏ピアニストとして数多くのソリストやボーカルの伴奏を勤め、伴奏者としての録音は数知れない。そのような姿勢からも、自分がフロントに出てプレイを前面に出すというよりは、演奏全体を見渡してコントロールして最終的に自分の色彩にまとめ上げていくというプロデューサー・タイプだったように思われる。それは、彼の数少ないリーダー・アルバムでも、その傾向が強く、彼のピアニストとしてのプレイ・スタイルの特徴にも表われているといえる。彼のピアノは固定的でなく、その時のコンセプトや共演者によって、かなり柔軟に変化する。伴奏者としての経験やもともとの資質からかもしれないが、それを加味して、彼の特徴を考えてみたい。といっても、際立った特徴があって、一聴で彼のプレイが分かるというタイプではない。そのため、他のパウエル派のピアニストと比較しながら見ていくと、比較的分かり易いと思われる。
 クラークのピアノについて“哀感に満ちた陰翳の美、ピアノのタッチに込められた硬質な表現”と言われることがあるのは、そういう比較の上でのことで、彼がそういうスタイルを前面に出しているわけではない。例えば、ブルー・ノートに録音した「ソニー・クラーク・トリオ」というアルバムの最初に“朝日のようにさわやかに”という曲を演奏しているが、ウィントン・ケリきる、という感じだ。
 クラークのピアノのタッチは深くて強い。それが重心のひくい重い音になって聞こえてくる。そのため音色は暗く沈んだ、渋く感じられる。それがクラークの印象を地味にしている。しかし、打鍵がつよいため音には芯があって音の輪郭は明確だ。だから、地味だからと言って、けっして存在が隠れてしまっているわけではないのだ。その明確なタッチは時に強弱のグラデーションが巧みに使い分けられ、「クール・ストラッティン」以降の録音で顕著になるアクセントを後ろにずらして独特の溜めをつくり、フレーズの尻尾が粘るような、“後ろ髪をひかれる”ような後ノリを生み出すことになる。そのノリで聴くバラードは、思いつめたようなロマンティックな気持ちを感じ、哀愁とも翳りとも感じることにつながる。
 しかし、その一方、クラークのプレイは、明確なタッチで端正なのだ。あえて言えば、真摯にフレーズで勝負する姿勢といえる。クラークの即興演奏を聴いていると、バド・パウエルの短い分解されたリフを積み上げると言う行き方とは反対に、水平方向にうねうねとしたメロディラインを伸ばすように紡いでいくように聴こえる。まるで、レニー・トリスターノのように。クラークはそこで、意表を突くようなアクセントを施し、ひねりの効いたメロディにしているところがクラークとトリスターノの違うところだ。それを明確なタッチで、パウエルばりの速いテンポで突進することで緊張感をたかめる。多くの曲でクラークは躍動感のあるビートを押し出し、慌ただしさを強調し、緊張感の高いものにしている。これを例えばウィントン・ケリーだと、リラックスしたスイング感を得るために心もち打鍵を遅らせていた。また、スタカートによるアタックは、クラーク好みのヘビのように曲がりくねった構成とうまくマッチしている。そして、さらに、このような時クラークはバーン!とブロック・コードを叩く、これ見よがしのハッタリを使わずにハイテンポのフレーズを端正に演奏する。これによって、緊張感ある一方で、透明感のある演奏になっている。つまりは、劇的に盛り上がりを煽るようなことはせずに、フレーズで勝負しているのだ。そこに、地味だが味わい深い、という全体の印象が醸し出されるといえる。 

 

Sonny Clark Trio     1960年3月23日録音

Jazclark_time Minor Meeting
 Nica
 Sonny's Crip
 Blues Mambo
 Blues Blue
 Junca
 My Conception
 Sonia 

Sonny Clark (p)
 George Duvivier (b)
 Max Roach (ds)

ソニー・クラークに対する評として“後ろ髪を引かれる”ということを名盤ガイドやジャズの入門書で目にすることが多いが、このアルバムを聴くかぎり、そのような印象は薄い。
 ソニー・クラークには、この「ソニー・クラーク・トリオ」というタイトルの同じアルバムが2作品ある。紛らわしいことこの上ないが、録音レーベルが違うため、こちらはタイム盤と通称され、もう一枚はブルー・ノート盤と通称されて、ファンには区別されている。そして、この作品ではないブルー・ノート盤の方は、典型的な“後ろ髪を引かれる”プレイがおさめられているのだ。とにかくノリもドライブ感も二つの盤では、本当に同じピアニストなのかというぐらい違う。これは、録音レーベルの性格の違いも原因しているかもしれないが、ブルー・ノート盤がスタンダード・ナンバー中心であるのに対して、こちらはソニー・クラークのオリジナル曲という選曲の違いや協演者の違いも大きく原因していると思う。ここでは、ジョージ・デュヴィヴィエのベースと、マックス・ローチのドラムと一丸になって突進してゆくクラークのピアノは、かなりアグレッシヴで、後ろ髪引くどころか、前髪つかんで前へ前へと突進してゆくようだ。
 最初の「Minor Meeting」は、深い打鍵の重いピアノのブロック・コードの連打でビートを刻む、アクセントの音でベースとドラムがドスの効いた低音で音を重ねる。ちょっと、バド・パウエルの「ウン・ポコ・ロコ」を想わせる、ビートばかりの無機的に聞こえてくるテーマです。バド・パウエルの場合は、そこから強引にリズムだけとも言える無機的なティストでアドリブも押し切ってしまうのですが、ソニー・クラークの場合は、アドリブに入るとメロディっぽいところが時折しのばせるように出てきて、バド・パウエルに比べて情緒的なところが隠し味のようになっています。その代わりに、ドラムのマックス・ローチが煽るようにアグレッシブでプレイの推進力は衰えるところはなく、最後まで突っ走ります。
 続く「Nica」では、前曲の勢いで聴き進めて、マイナー・コードのブロック・コードで始まるテーマで“後ろ髪を引かれる”ような演奏にはピッタリのフレーズだれど、ここでは静かではあっても、しっかり打鍵して、むしろ静かだけれどアグレッシブ。これは、短い続くソロが続くベースが煽っているからかもしれない。アドリブにはいると、ピアノの打鍵は力強くなり、シングルトーンで、短いフレーズを重ねて、それが全体として長い一本の流れになるようなクラークに特徴的なソロを、しかも、前へ前へという、まるで突き動かされるかのように続く。
 3曲目の「Sonny's Crip」になってマイナーからメジャーに曲調が変わって、弾むようなリズミカルな雰囲気になるが、演奏の推進力は増してきている。これは聴く側の一方的な感覚だが、最初の2曲のマイナーな曲で勢いがついてしまって、それにつられてグイグイと勢い乗ってしまうのだ。
 7曲目の「My Conception」で、一息つくようなスローテンポのナンバーで、クラークのピアノだけのソロ・ナンバーで「枯葉」を想わせるテーマがしんみりとなりそうだけれど、アドリブになってテンポはそのままでも手数がものすごく多くて、テンポはスローなの二、その慌しさは、これもバド・パウエルを想わせる。スローテンポになっても、テンションが高くて息つく余裕を与えてもらえない。
 そして、最後の「Sonia」は、明るいリラックスしたムードの快演で、トリオの3人が溌剌と、まるでスピード比べをするかのようにプレイしている。とりわけ、クラークのピアノは突き抜けるようなピュアなタッチが印象的で、爽快に終わる。
 全体として、バド・パウエルに負けない、バリバリのプレイで、なおかつアルバムとしてのまとまりや親しみ易さもそなえた作品になっていると思う。時として常人を寄せ付けないような気迫と厳しさを湛えたパウエルのピアノは、一音一音のピアノの音の存在感が強烈だが、それが突っ走りすぎて演奏全体が瓦解してしまうこともある。そういうスリルは、クラークにはなく、むしろ全体を冷静に見通して、フレーズとして聴ける演奏をしているところに特徴がある。それが、ここでは余計な飾りがない裸の姿を見せてくれていると思う。

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