無料ブログはココログ

« 安田靫彦展(3)~第2章「えらい前人の仕事には、芸術の生命を支配する法則が示されている」 | トップページ | 安田靫彦展(5)~第4章「品位は芸術の生命である」 »

2016年5月18日 (水)

安田靫彦展(4)~第3章「昭和聖代を表象するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない」

1940年から45年の、わずか5年という短い期間ですが、安田の創作の高揚期にあたるという説明でした。その一方で、この時期の日本は長期化した日中戦争から真珠湾攻によってアメリカやイギリスなどのいわゆる連合国諸国との戦争になだれ込んでいく戦時の状態にありました。戦時体制の「挙国一致」は、絵画の分野に対しても「戦意高揚」に資する要請が有形無形に、いわば国策として画家たちも、積極的にも消極的にも協力していったということです。とりわけ、日本画という、もともと国威発揚の一環としてつくられた分野で、そのなかでも歴史的な題材を扱う安田の場合は、その立場からも、機能の面からも、制作をしていったということでしょう。
Yasudayoritomo  「黄瀬川陣」という作品。安田の代表作ということで、この展覧会のポスターやチラシなどでも、この作品が大きく使われている、いわば今回の展示の目玉ということになるでしょう。鎌倉時代の『吾妻鏡』や『義経記』のエピソードから、平家追討の挙兵をし、富士川の合戦で勝利をあげた源頼朝のもとに、生き別れになっていた義経が奥州から馳せ参じ、20年ぶりの対面を果たした場面ということです。一双の屏風の向かって右側の畳に座っているのが頼朝で左側の甲冑姿が義経です。
 ここで右側の頼朝の方に注目してしみましょう。まずは、その頼朝の顔です。この顔をどこかで見た記憶があるような気がしました。私の記憶に間違いがなければ、日本史の教科書でみた頼朝像です。京都の奥、高尾の神護寺に伝わる頼朝の似絵に書かれている顔とよく似ているのです。これについては、作品解説などでは、安田が様々な古美術や資料を参考にして、綿密な考証を重ねた結果という説明がされています。しかし、私には単なる下調べだけで終わっていると思えません(もちろん、その下調べをしなかったり、いい加減に終わらせてしまう人が大多数で、これを綿密に行なっていること自体が、安田という画家の誠実さを表わしているとは思います)。このような下調べは、絵を描くという作業に比べて、画家にとっては手間と苦労を要するもので、直接的に制作の内容を左右するかというと、どちらかというと、付加価値の部分であるような細部の出来栄えとか、そういうところに関係するものでしょう。完全主義者とか、細部にこだわるという画家の性格によって、そういうところに力を注ぐかどうか、というのが大多数の画家なのではないかと思います。しかし、安田の場合には、絵画制作の本質的なところで、下調べの必要があった、つまり、切実であったのではないかと思うのです。この「黄瀬川陣」の右側の人物の顔は、頼朝の顔として広く知られ一般化しているものだと思います。ということで、この作品はタイトルとか、作品説明がなくても源頼朝を描いた作品であることがすぐに分かるものとなっています。その方法というのは、神護寺の似絵の広く知られた頼朝の画像をキャラとして引用し、自作に持ってきて当てはめた。まるでパロディの手法です。いまなら、マンガやアニメーションで他の作品のキャラをそのまま持ってきてパロディとしてストーリーを作るという手法はよく使われています。以前にも「夢殿」で聖徳太子のキャラを自作に引用していると指摘しましたが、ここでも使われています。つまり、安田は、この「黄瀬川陣」だけに限らず、この方法を制作の方法論として広く用いていたということです。これは、私には安田の絵画制作の本質的な部分であるのではないかと思えるのです。そこで考えられることは、次の2点です。
Yasudayoritomo2_2  まず、この「黄瀬川陣」のなかの人物が日本で常識のあるひとであれば源頼朝であることが一目で分かるということであり、その頼朝という人物が歴史上どのようなことをして、どのような評判であるということをある程度知識としてもっていることを、当初期待できるということです。「黄瀬川陣」はそのような観者を前提として、そのために、頼朝の画像をパロディのように取り入れたのではないかと思えます。そうであれば、画面の頼朝というキャラがそうと観者に認識された時点で動き始めます。これは、映画やドラマでいうスターシステムのキャスティングに似ているところがあります。例えば、映画の中の登場人物についてトム・クルーズがキャスティングされていれば、その人物が映画のストーリーのなかで、主人公か重要な役回りであるとか、コメディ的とかマッチョ的ではないことが映画を見る前から分かっていて、それなりの期待をして映画をみていると思います。この「黄瀬川陣」では、頼朝の画像は、それと分かるキャラであることで、頼朝という人物が画面より先に観者の想像のなかで歩き始めることが可能になるということです。それは、逆の方向から言えば、画面を作ろうとするときに、人物がすでに観る者のなかで存在していることを前提に考えることができるということです。
 そう考えると、この「黄瀬川陣」の対面の場面全体の描き方の変な感じが理解できます。史料でもそう書かれていると思いますが、頼朝は軍団の総司令官で陣中は、その本部であるはずです。そして、義経は奥州から馳せ参じてきたわけで、数は多くないかもしれませんが奥州藤原氏からの兵士を引き連れてきています。だから、兄弟対面といってもオフィシャルな儀式であるはずで、この作品のように兄弟二人だけの水入らずでの対面とはなり得ません。陣中で頼朝は総大将として、旗下の武将たちを背後に従えているで、義経が口上を述べるという場面となるのが、スタンダードが場面の作り方ではないかと思います。また、もし兄弟二人だけの対面にしようとするならば、史実に記されている再会を喜び涙にむせぶということの強調ということになるのでしょうが、そうであるならば二人の間の距離が遠すぎます。この距離では涙にむせぶには、現実的に難しそうです。
 つまり、この「黄瀬川陣」では、富士川の合戦で義経が馳せ参じてきて、兄弟が対面したという歴史的場面そのものを描くのではなくて、その場面をバックに頼朝と、これに並ぶ義経という二人の歴史上のスターを描いたといえるのではないか。だからこそ、その意味で、二人の人物の描写や二人の周囲のアクセサリー等の小物類の描写については最高の技術が最高の配慮で描かれている(そう解説で説明されています)。そこには、最高の技術で最高の品質のものをつくりあげる一流の工芸職人のような安田の特徴が最大限に現われていると思います。ここで、今述べたような前提がなければ、スーパーテクニックを披露しただけの、技巧的なイラストにしか見えない作品ではあるのです。それは、適当な言葉が道からないので、陳腐な言い方に成りますが、芸術としての絵画にはなりえない巧いだけの骨董品(商品)というようなものでしかない、そう誤解されてもおかしくなかったのです。さらに、安田はそれだけでは終わらせずに、二人の武者のうちのひとりが源頼朝であることが、誰にでもすぐにわかるように描いて、頼朝というスターが画面から独立するようにしました。もう一人の人物が、たとえ義経であるとは、すぐに分からなくても、スターである源頼朝と正面から対峙し、画面の中でタイマンを張っているのであるから同格のスターであることは誰にでも分かります。そこで、二人のスターのぶつかり合いのドラマということが、この作品の歴史画としての写実とは別のリアリティ、迫真性を生んでいるのです。
 第二点目として、上記のようなことから安田は、歴史画を歴史の場面をリアルに描くというものとして描いていなかったことが分かります。西洋絵画であれば、歴史の場面に描くにも約束事はたくさんあって、頻繁に描かれるような場面であれば、有名な先行作品が何点もあって、そこで新たに制作する画家は先行作品を視野に入れて描くことが必要とされるでしょう。しかし、それらを参考にしつつ、画家は約束事や先例を押さえつつも、それらにない画家の独自性を出して、自分の作品の価値を主張しなければなりません。それが画家や作品の個性というものである。だから、有名な先行作品から主要なキャラをちゃっかり借用すれば、剽窃と受け取られてしまう。ひとつの作品が独立したものとして統一的に完結していること、そして、他の作品と同じでない独自のものであること、そのような芸術作品であるということ。このようなことに対して、安田は、若年の習作期は別として、画家として年齢を重ねていくに従って、そのような芸術としての絵画から次第にズレていったように見えます。とはいっては、そのような芸術を否定してしまって、そういうものとは無縁のところで制作を貫いたというのでもなく、両者の境界で彷徨っていたように見えます。この「黄瀬川陣」においても、テクニシャンである素養を発揮して、綿密な彩色や流麗な線描の技量や、細部に視線を移せば、鎧や軍扇などの漆の部分に艶墨が塗られていたり、金具には盛り上げ彩色が為されていたり、色彩に注目すれば、義経の袴のハッキリした白と薄い青みを帯びた幔幕の白、あるいは光る素材を混ぜた畳の高麗縁や弓袋の白といったように繊細に塗り分けられています(すいません、解説の引用です)。これらの技巧を尽くされていながら、画面全体には表現の厚みがなく、薄っぺらいのです。スカスカに見えてしまうのです。余白を生かすといった場合には、そう見せさせる全体的な緊張感の漲りがあるはずなのですが、ありません。だから、芸術作品の尺度で見てしまうと、キレイだけれど、それだけ、よくできた工芸品のようなものになってしまいかねないのです。安田は、そのギリギリの境目で綱渡りをするかのごとく作品を制作していて、そのぎりぎりの線上にいたのが、「黄瀬川陣」をはじめとした、この時期の作品ではないかと思います。
 Yasuda56 次に「山本五十六元帥像」を見てみましょう。源頼朝の場合と違って先行する著名な作品はありません。しかし、制作された昭和18年当時は、大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官として国内では誰もが知る著名な人物でした。多分の、写真をもとに描いたものと思いますが、描く技量にかけては安田は卓越していたことが、よく分かります。日本画のパターンにない題材で、しかも色彩としては黒が中心で鈍く地味で見栄えのしない題材をよく、絵の風景に仕立て上げたと思います。安田はテクニシャンとしては群を抜いていた証拠でしょう。 “たらしこみを多用した軍服の渾厚な墨色は、立体感を巧みに示しつつ偉丈夫の毅然とした風格さえ味あわせる”という評があったということですが、そう見えなくもなく、日本画の性格上の限界なのかもしれませんが、軍艦という鉄の塊のなかにいるという場面で、その鉄の冷たくゴツゴツした鋭角的な感触が、まさに殺戮兵器というものでしょうが、そういうところが全くなくて、また、重量感もなくフワフワしたようなのです。だから、工夫を凝らした軍服も写真を巧みに描写した山本五十六の姿も、軍艦に乗っている司令官というよりは、生活感のない風流な平安の貴族が軍服のコスプレをして、ハリボテの書き割りの前に立ってコスプレごっこをしているようにしか見えないのです。それは、一方では近代戦争の大量殺戮の道具である軍艦と、それをまさに実践している軍人の血生臭さを脱色して、優美にさえ見せています。それは、ある面では戦争のキレイゴトをプロパガンダするものとしては、効果的であったのかもしれません。これは、安田が意図したとか、そういうことではありません。ただ、この作品を見ていると、安田という画家に秘められた毒の要素、危険な部分が垣間見えるのではないかと思います。それは、単に工芸だけにとどまっていられなかった安田の画家としての資質ゆえに、彼が内に抱えていた闇の部分ではないと思います。この闇が深ければ、反対の光が相対的に輝くということです。
Yasudajinmu  「神武天皇日向御進発」という作品です。神武天皇が天孫降臨の地、日向の高千穂から進軍する場面です。人々は埴輪を並べたようで、海の波は様式化された模様のようです。ここでも、のんびりとした優雅にさえ映るキレイゴトになっています。これをよしとして表面的に受け取ったのが、安田より下の世代の画家たちで、そのような人たちが絵画として存在感が見られない歴史画を量産してしまうようになったのは、このような作品を踏まえてのことではないかと思います。

« 安田靫彦展(3)~第2章「えらい前人の仕事には、芸術の生命を支配する法則が示されている」 | トップページ | 安田靫彦展(5)~第4章「品位は芸術の生命である」 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/63650859

この記事へのトラックバック一覧です: 安田靫彦展(4)~第3章「昭和聖代を表象するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない」:

« 安田靫彦展(3)~第2章「えらい前人の仕事には、芸術の生命を支配する法則が示されている」 | トップページ | 安田靫彦展(5)~第4章「品位は芸術の生命である」 »