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2016年5月15日 (日)

安田靫彦展(1)

2016年4月30日(土)東京国立近代美術館 
Yasudapos_2  休日に、わざわざ美術館に出かけるなどということは滅多にないことだ。このように、美術館で展覧会を見た感想をせっせと書いているけれど、見に行った展覧会は仕事のついでに、時間をみつけては手近な美術館に寄ったというもの。展覧会を見ることが第一目的ではなかった。だから、リラックスして絵画を眺めることができたし、あれこれと妄想のような考えをめぐらして遊ぶこともできた。だから、休日に美術館に出かけるというは、私にとって珍事ともいえる。しかも、その出かけたのが安田靫彦という画家で、万難を排してまで見たいと思うような画家であったのか。などといっても、実は、都心で学生時代の友人と会う約束があったので、そのついでに少し時間を早めて家を出て、ついでに近代美術館に寄ったというだけのこと。近代美術館は都心の美術館では交通の便と開館時間の関係で、平日に仕事で都心に出て、そのついでに寄ることが難しい位置にあるため、このような機会でもないと訪れることもできないため、寄ってみたということ。休日の、しかも4月末から5月初めの大型連休のときということで、いつも平日に訪れるのと、違うかもしれない雰囲気と、休日だから混雑しているかもしれない(会期も終わりに近い)、上野で開催している若冲展が2時間待ちなどという噂も聞いているので、一抹の危惧もあった。実際に、でかけてみると、人では少なくはないが、絵を見るに支障のあるほどでもなく、人気の作品の前では人だかりがしていたのを別にすれば、まあまあの状態で、落ち着いた時間を過ごすことはできたと思う。
 安田靫彦という人は、日本画では大家であるらしいのですが、門外漢の私にはいっこうに不案内なので、いつものように主催者のあいさつから引用します。主催者の趣旨もそこに織り込まれているとおもうからです。“安田靫彦(1884~1978)は、はじめ小堀鞘音の門に入り、新しい歴史画の研究に意欲を燃やしました。1914年の日本美術院再興には経営者同人として参画、以後、岡倉天心の直接の指導を受けた最後の世代として院の中核を担いました。靫彦の作品は「美しい線」、「澄んだ色彩」、「無駄のない構図」といった、誰もが日本画らしいと感じる特徴をそなえています。明治、大正、昭和を生きた靫彦の80年に及ぶ画業全体を見渡すと、それは伝統的な古い様式ではなく、写実に取り組んだ時期、さらに考証という域を超え古典芸術に範を求めた時期を経て、日本画の領域に初めて達成された真に新しい様式だったと理解できます。また、生涯かけて取り組んだ歴史画では、教養と造形力を武器に、誰も描かなかった主題にゆるぎないかたちを与えたことも特筆されます。─中略─本制作ばかり108点を紹介する本展は、靫彦の豊かな創造力と端正で品格の高いその芸術の魅力を再確認するまたとない機会となることでしょう。また、94年の長命に恵まれた靫彦は、昭和初期のナショナリズムの高揚や戦後の価値観の激変を、身をもって経験しています。時代の大きな流れのなかで、靫彦は何をどう描いたか、そしてそれはどう変化したか。本展では、靫彦の生きた時代の問題も視野に入れながら、靫彦の画業を考察したいと考えます。”これだけでは、安田は(主催者あいさつや宣伝や展覧会を見た人の感想記事などでは靫彦というファーストネームか雅号が使われているようですが、いつもカンディンスキーとかカラヴァッジョというようにラストネームで画家を呼んでいるのに倣って、ここでは安田という名字で画家を特定しています。これは別の展覧会の感想でも、大観と呼ばずに横山と呼んでいるのに揃えています。私には、この方が言いやすいので。)どのような画家であるのか、具体的には分かりません。例えば、このあいさつでは安田の特徴を「美しい線」、「澄んだ色彩」、「無駄のない構図」の3点であると説明していますが、安田の線の美しさとはどのようなものであるかについては何も語られていません。あいさつ文を批判するわけではありませんが、例えば線の美しさというのは多くの画家が追求するもので線の汚い画家といないと思いますから、単に線が美しいというのは、画家の特徴を表わすものにならないと私は思います。それぞれ画家なりの線の美しさを、画家たちは追求しているはずなので、ここでもし安田の特徴を言うのであれば、安田の線はどのように美しいのか、というところまで行かなければ、安田の特徴を表わしているとは言えないと思います。例えば、ある画家の特長について、美しい絵を描くというのでは、何も行っていないに等しいと思います。まあ、作品を見なさいということなのでしょう。
 で、全体として作品をみた印象を、ここの作品について書いていく前に簡単に言うと、たいへん難解でした。と言っておきます。分からない、というのが率直な感想です。実際に会場を回って展示をみて、あまりの難解さに、自分は、一体何をしにここに来たのかという、強い後悔に捉われました。入場者が比較的多かったのですが、皆さんは興味深げに鑑賞していた様子だったので、難しさに途方に暮れているのは、私だけかと、たいへん疲れました。
 こんなことを言うと、“あまり考えすぎずに、無心に感じてみましょう”とか“芸術は理解するのはなく、感じるものだ”といった意見を言われることがあります。偉い評論家のセンセイ、例えば小林秀夫とか吉田秀和などといった人々、がたは、芸術は分かったとか分らないとか、理屈で理解するのではなくて、無心に接してみて、良いか悪いか感じればいいということを仰います。そういうのは、自分が分っているから言えるのであって、それを分らない人に、分っていたうえでやっていることを強いるのは、傲慢でしかありません。むしろ、「オレは分っているからいいんだ。オメエらは分かんねえだろう」という自慢の心の声が聞こえてきるようで、そういう評論家に限って、無心(と自分で思って)に作品に触れるときの、自分の感性の構造をみずから検証しないでいて、じぶんと違った感性の存在が分からず、感性の違う人に対して、どのような説明が理解してもらえるかという視点が全くないため、フォロワーしか彼の評論を理解できないということが往々にしてあります。例えば、吉田秀和が時折漏らす本音。「それが分からない人は、最初から(クラシック)音楽など聴かない方がいい」。それを誤解して、難しくて高尚だとかいって高い評価を受けている評論家の先生が沢山います。絵画に対しても、そういう権威ある先生がいると思います。なんか、自分が分らないということで醜いやつあたりをしてしまいました。
 ここでいう「分らない」というのは、偉い先生方が言うような「美術を頭で理解しようとする」というようなことではなくて、(それが全然ないと言えませんが)、極端にいえば「こんなの絵ではない」という否定の意味があるように思います。だから、さきの言説に対して言えば、もともと感性で接する「美術」であると確信できないものに対して、このような言説は「美術」に対して感性で接しなさいと言っているわけで、ピント外れも甚だしい、ということです。さて、「分らない」に戻りますが、かりにヨーロッパで抽象画がはじめて出て来たときのことを想像してみて下さい。「こんなの美術じゃない」という否定の声が多かったと思います。欧米の人は断定的ない言い方をしますが、私等のような日本人は、そういう時に決めつけることを避けて、謙遜した言い方で逃げることが多いと思います。そういう時に「私には分らない」という言い方はとても便利です。そういう意味で「分からない」には婉曲な否定が入っていると思います。
 話は少しそれますが、私は音楽を聴くのも好きでジャンルなどには拘らずに聴いていますが、その中には西洋のクラシック音楽の楽曲も好んで聴く曲の中にあります。その中で、モーツァルトというクラシック音楽の代名詞ともいえる大メジャーな作曲家がいます。私はクラシック音楽に接し始めて20年以上になりますが、今以ってモーツァルトとハイドンの作品は難解で、何度聴いてもよく分らないのです。クラシック音楽好きな人に、その話をすると信じられないという顔をされますが、マーラーとかパレストリーナとかは大好きで長時間聴いていても疲れることはないのですが、モーツァルトの曲、例えば有名な「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とか交響曲とか、何が何だか分らないのです。そこで感じている難しさと、似たものを今回の展示を見て感じました。ともっともらしい理屈を捏ねていますが、本当に分らない。
 端的に言えば、安田の描いた絵が、例えば、他の画家の描いた絵と区別がつかないし、安田の作品の中でも並べられたそれぞれの作品の違いが判らず、同じ見えてしまうのです。展示の中に「東都名所」という当時の著名な日本画家が東京の名所を描き比べた作品が並べられていました。その中に安田の描いたものも混じっていたのですが、他の画家のものと見分けられなかったのです。(他の画家たちも個性がなかったということでもあるのですが)、つまり、これが安田靫彦だとか、これが安田の何々という作品であると特定ができないのです。西洋絵画(一応、便宜上このような言い方をします)では、画家が他の画家と同じということになれば、個性がないということで評価の対象にすらならないでしょうから、最初の作品が成り立つ前提として、だれもがいまさら言うことのほどでもないのです。しかし、私が当時の絵画の知識がなく、そういうものに対する感覚的な土壌を欠いているためかもしれませんが、安田の描いたものは、そういう基準を満たさない、規格に当てはまらないのです。だから、私からすれば、それは絵画ではないということになります。そういうものを理解できるか、理解できません。だから難解なのです。
 だから、「分からない」ものを無理して見る必要はないはずです。もともと、絵を見るというのは好き好きの世界でしょうから、好きになれない人に無理強いして、変な理屈をつける(感じればいいとか)ことは無用と思います。そんなことを言うと、ではどうして、このようなことを長々と書いているのかと、ここまで読まれた方は文句のひとつも言いたくなるだろうと思います。ただし、です。例えば、今、友人として行き来している人がいる場合、最初に出会ったときは「見知らぬ」人つまりは、「分らない」人であったはずで、おそらく、人は、その「分らない」という壁を突破して、その「分らない」人と「分り」合い、その結果友人となったと思います。だから、「分らない」というのは出会いの始まりなのです。その点で、未知の美術に出会った時に、「こんなの絵じゃない」といって断定的に否定するのではなくて、「分らない」と言ったのは、もしかしたら「分る」ためのスタートラインに立った宣言という意味合いもあるのではないかと思います。そういう意味で、「分からない」という態度を否定的にいうことには、私は与しません。むしろ、「分からない」ものは「分からない」と正直に明らかにしたほうがいいと思うのです。そこから、スタートするのですから。
 それでは、かなり頼りないと思われるでしょうが、具体的に作品を見ていくことにしましょう。展示は次のような章立てでしたので、それに沿って見ていきたいと思います。
 第1章「歴史画に時代をあたえ、更に近代感覚を盛ることは難事である」
 第2章「えらい前人の仕事には、芸術の生命を支配する法則が示されている」
 第3章「昭和聖代を表象するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない」
 第4章「品位は芸術の生命である」

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