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2016年6月 8日 (水)

ジョルジョ・モランディ展 終わりなき変奏(3)~Ⅱ 溝に差す影

ここから、モランディの静物画をヴァリエーションごとに分類して展示していきます。 
Morandi1936_2  ここでは、同じ題材、表面に溝のある白い壺が繰り返し登場します。この壺の横には、様々な大きさの箱や、溝の入ったボールなどの異なる器が並べられています。モランディが表面に溝のある壺を中心モチーフとしたのかは、展示されている作品の影の向きが一定であることから、表面の溝に光と影のコントラストがあって、そのことによって具体性や実在性を与えることができる、と解説されていました。
 次の2点の画像は、1936年制作の「静物」と1946年制作の「静物」です。この2点を並べて見比べると、まるで間違い探しのクイズの答えを探すようなことをしてしまいます。白い溝のある壺をはじめとして3つ横に並んでいるのは、同じように見えますが、手前の小鉢のような小さな食器が異なっています。1936年制作の場合は、手前両脇に2個ありますが、1946年制作では手前中央の1個という点が違います。そこから、さらに違っているところが見えてくるでしょうか。2つの作品で個数や位置が違っている食器ですが、1936年制作のものは向かって手前左側の食器は黄色い蓋があって、右側は白です。しかし、この食器には溝がないため、同じ白い食器でも表面がツルツルに光っているように見えます。これに対して、1946年制作では、手前の食器は下部のボールのように丸みを帯びた器部分は白く溝がありますが、上部は帯が巻かれたようになっていて、その部分が赤く彩色されています。この少しの違いが、画面全体を見渡すと、色調、とくに全体の基調となっている白の目に映るニュアンスが違ってきます。
 Morandi1946 また、両作品の制作年の間の10年で画家のタッチの変化があったのか、技量が上達したのか、筆触が違ってきているようにも見えます。それは、画像ではなく、実際の作品にあたって見ないと分からないかもしれませんが。
 これら、まだ他にもあるでしょうが、作品を見比べることによって、違いを探してみて、その違いから、モランディが制作するたびに、何を置くか、配置をどうするかなど、あれこれ弄っていたのを想像してみるというのが、これらを見るひとつの楽しみとしていいのではないでしょうか。
 ひとつの見方として、ちょっとした差異を起こして、そこから新たなものを創りだして行く、そのプロセスを、ここでは作品を追いかけることによって、追体験することができる。そういう楽しさも慥かにあると思います。まるで、体験型のロールプレイングゲームをやっているようです。つまり、ひとつの完結した独自の作品を提示して、それを与えられたものとして鑑賞する、というのが一般的な芸術絵画の鑑賞です。しかし、この場合、ひとつの独立し完結した作品ではなく、同じ傾向のある諸作をいわば作品群として提示してきています(この展示方法がユニークなのかもしれませんが)。観る者は、その作品群の中で、様々な選択肢を与えられ(それは、各作品同士の差異として表われています)それは、まるで、ロールプレイングゲームで選択肢を提示され、そこで選択をしないと先へ進めないし、その選択によって、その後の展開が変わってくる。それと同じように、作品群にある差異の中から選択を繰り返していくうちに、作品群の中から作品を特定していく。しかも、ゲームと違うのは、ゲームは選択肢が予め決められているのに対して、展示作品では差異を自分の目で見つけ出す、したがって選択肢そのものを自分で見つけ出す(選択肢であることを決める)ということです。
 ここで、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。モランディが師と仰いで影響を受けたとされるセザンヌは、モランディと同じように(むしろモランディが倣ったのですが)テーブルの上の食器や果物の配列を変えることで多くの静物画を描きましたが、モランディのように、並べて展示して比較しようとすることはありません。セザンヌの静物画は、作品群として比較しながら差異を楽しむということは聞いたことがありません。すなわち、セザンヌの静物画は、ひとつの作品を単独で取り出して、独立し完結した作品として鑑賞するものになっていると思います。このセザンヌとモランディの違いは小さなことではありません。何か、深刻めかした議論のように述べてきていますが、これはモランディの作品を見ている私が、作品に親しむためのストーリーのようなものということを、お忘れないでいてほしいです。私なりのストーリーで缶変えたセザンヌとモランディの違いは、時代状況が違っていることが大きく要因しているという考え(仮説?)です。年齢ではモランディのひと回り下になるテオドール・アドルノは次のように書いています。“ブルジョア道徳は、持ち前の宗教的な規範が解体し、自律的な規範も形骸化したために様々の概念に収斂して今日に至っているが、その中でも「本物」という概念は上位に位している。今日では人間を内的に拘束するものは何もないかもしれない、しかし各人がどこまでも自分自身に徹するのは最大限の要求である、という風に考えられている。何ものにも惑わされぬ真理への要請と事実性の称揚ということが、啓蒙された認識から倫理の分野に転用されて各人の同一性に対する要請となった”。つまり、宗教的な尺度が崩れ、その他の基準が形式化されたところで、妥協の許されない真実や実証論的事実さえ認識の問題ではなくなり、倫理の問題となる。その倫理の根底にあるのは一人一人の人間の「本物」である、というとでしょうか。神さまのような絶対的な基準がもはやなくて、人々は、それぞれに正しい主張をしていると、そのどれかを取り上げて、それだけを正しいということはできない、ということです。
Morandi1954  これは、展覧会場に並べられたモランディの作品群にも同じようなことがいえると思います。つまり、どれも正しいのです。セザンヌはひとつの作品を仕上げるために下絵やデッサンを繰り返し、そのプロセスでモランディが複数の作品にしたことを作品の下準備としてやっていると思います。その繰り返しの結果、最適と決められた結果が作品として結実することになるわけです。そこには、ひとつの作品にまとめあける絶対的な基準が存在します。その基準こそがセザンヌの個性であり、方法論ということになります。モランディの場合は、セザンヌの場合にあるような結実した作品を頂点とするヒエラルヒーはなく、様々な試みが平等に並んだフラットな状態になっていると思うのです。だからこと、作品同士が平等であるからこそ、それらの差異を楽しむことができるのです。
 だから、モランディの作品群のゲーム感覚で差異で戯れるという楽しさの裏面には、絶対的なものが消失してしまって、あらゆるものがフラットになってしまっている不安定さがあるとは言えないでしょうか。もしかしたら、モランディの作品の色調が、殆どの場合、陽気な明るさを基調としていなくて、重苦しくはないものの暗く渋めの色遣いを基調としているのは、そのせいなのかもしれません。

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