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2016年6月 7日 (火)

ジョルジョ・モランディ展 終わりなき変奏(2)~Ⅰ 変奏のはじまり

Morandi1919 比較的初期の作品を集めたコーナーから始まります。まず、私が不思議に思うのは、モランディという人がきわめて限られた範囲内の題材しか取り上げないとうは、最初からさうだったのか、ということです。それは、普通であれば、いろいろと興味がひろがって、いろいろと描きたくなるのではないか。もし、最初から、モランディという人の姿勢が一貫しているのであれば、相当の変人、ひきこもり、あるいは自閉症的な傾向の持ち主だったのではないかという疑問です。例えば、ここで解説されていたモランディに影響を与えた画家であるセザンヌの場合は、風景も人物も描いたうちのひとつが静物画です。モランディの場合も、最初は色々な傾向の作品を試みた結果、静物画に辿り着いたのではないのか。
 しかし、実際に展示されていた作品は静物画ばかり、上記の疑問に対する答えは棚上げされ、私にとって謎として残りました。
 1919年の「静物」という作品です。モランディの静物画は「静物」という同じタイトルの作品が多いので、制作年を入れて区別していこうと思います。この作品には、モランディが師と仰いだセザンヌの影響を見て取れると解説されていました。試しに、セザンヌの静物画をひとつ見てみましょう。どうでしょうか、モランディとセザンヌの間に影響関係が感じられるでしょうか、似たところはあるでしょうか。私には、あると言えばあるし、そうでないと言えばそうでない、結局のところ分からない、というのが正直な感想です。たしかに、元来人見知りをする性格のセザンヌは、故郷に戻ると、アトリエで、テーブルの上に果物や食器をとっかえひっかえ配置して、様々な静物画を試みるように描いたそうです。そうであれば、モランディを同じようなことをしていたわけです。その点で、モランディは影響を受けたということなのでしょうか。
Morandisezn  ここでちょっと寄り道して、セザンヌの静物画について考えてみましょう。セザンヌの静物画は、画像を見るとわかる通り、写真のように対象を性格に写したものではなくて、ひとつひとつの形が歪んで見えて、テーブルのある室内の奥行きの空間が感じられなかったり、と独特の特徴があります。それは、どうしてでしょうか。例えばセザンヌは“リンゴひとつでパリを征服する”ということを言ったとそうです。リンゴは言うまでなく、セザンヌが静物画で好んで描いた素材です。セザンヌはリンゴを描くとき、じっと見つめるのはもちろん、触れて肌触りや重みを確かめ、香りを嗅ぎ、食べて味わい、その音に耳を澄ませ……五官をフルに使ってリンゴを感じていた。その挙句に「匂いが見える」とさえ言ったそうです。リンゴは赤くて、丸くてということになるかもしれませんが、それは人が目で捉え脳で処理した情報です。たまたま、セザンヌがそう認識したもので、それを他の動物が見れば違って映るかもしれません。それは、リンゴの味や香もそうです。つまり、それは人、もっと言えばセザンヌ個人が生み出したイメージです。しかし、リンゴを表現しようとすれば、その色や形、肌触り、その他に味や香で表わすしかありません。でも、それではリンゴそのものを表現することにはならないのです。ところが、人は、セザンヌも私もリンゴの存在を知っているのです。だから、セザンヌが描いたのがリンゴと分かるのです。それを、人は当たり前のようにして生きています。くどいようですが、人が感じるリンゴとは、リンゴの色や形や肌触りや味や香のことではなく、それらの個別のどれがというのではなく、それにも一緒に渾然一体となって、人はリンゴを何となくイメージし、それとなく分かるのです。そこで、セザンヌは、言っています。“自然を円筒形、球形、円錐によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい。つまり対象や画の各側面がひとつの中心点に向かっていくようにしなさい。――地平線に平行な線は広がりを、つまり自然の一断面を与えます。あるいはお望みならば、全知全能にして永遠なる神が私たちの眼前に広げてみせる光景の一断面と言ってもかまいません”こう、して見ると、セザンヌにとってリンゴを描くというのは、本当のリンゴ、そしてそのリンゴを感じる本当の私にアクセスすることであり、それは感覚や認識では到達できない真実を直観する、さらに言えば神の領域にふれることだったと言えると思います。
 Morandi1920 だからこそ、セザンヌにとって存在を描くことは最も重大なことで、彼が抽象を描かなかったのは、具象というのは具体物を描くという背後の、ものが存在するということを描くということだったからです。それを具体的に、どのように描くかということについて、人が見えるとおりに描く、例えば遠近法とか、必要はないわけです。そこで、さっきのセザンヌ本人の言のように“自然を円筒形、球形、円錐によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい。つまり対象や画の各側面がひとつの中心点に向かっていくようにしなさい。”ということがありえます。そうやって試みたのが、ここにもある静物画でもあるわけです。
 たしかに、そのような目でみるとモランディの作品のボールの上に載せられている果物で、向かって左側の3つは影の方向が別々です。これは、3個の果物を別々の視線から見ていることであり、セザンヌが静物画でよく用いていた手法です。ひとつ考えられるのは、セザンヌが様々な試行錯誤を経て、彼自身の描くということ行為の意味に辿り着いたわけですが、モランディは、そのセザンヌを見て、そこから始めようとしたのかもしれません。セザンヌの描くに倣おうとして、その具体的な実践として、セザンヌが静物画でやっていることを追いかけようとした。これは、私が勝手に考えた妄想ストーリーですが、セザンヌの描くに倣おうとして静物画に手を染めたのがきっかけで、そこから抜けられなくなってしまった。静物画を描いているうちに、次第にセザンヌに倣うという目的から離れていって、そこにモランディ自身の描くを探す方向性を見出していったのではないか、そんなように見るのは、私の勝手な見方ですが、そうすると、私なりにモランディを見る糸口が見つかるかもしれません。
 Morandibodi 1920年制作の「静物」を見てみましょう。このようにストーリーを考えていくと、1919年のセザンヌに倣った静物画を描いたあとで、静物画に挑戦しはじめた。そのひとつの試みとして、この作品のようなこともやってみた、そんなストーリーを考えてみたくなります。暗色を背景に描かれたテーブルの上に、横一列に中央を高く、両脇を低くするという厳格な抽象性をもって並べるという構成です。スペイン・バロックの神秘的な静物画であるボデコン、スルバランの「4つの壺のあるボデコン」。静物画に本腰を入れて挑戦するとすれば、このような方向は一度はやってみようというものとみえてきます。しかし、スルバランに見られる、光と影の強烈な対照により、光が崇高なまでに輝かしく、その光が反射する壺の陶器の冷たい感触が厳しい雰囲気をつくりだしています。そこにある、宗教性につながる厳粛さ。このようなものはモランディにはありません。スルバランに比べると、どうしても微温さを感じざるを得ません。そこに、モランディの方向性、少なくとも、スルバランのような一途に髪に向かう厳しさは、別の視点からみればファナティックに陥る危険も秘めています。おそらく、モランディには、もっと多様な方向への志向があったと思います。それを二つの作品をみると違いがはっきりと現われ出てくる、そう私には見えます。
 このようなストーリーをでっち上げていくと、モランディが自閉症傾向の静物画オタクとして見なくても済みそうです。

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