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2016年6月 9日 (木)

ジョルジョ・モランディ展 終わりなき変奏(4)~Ⅲ ひしめく器─都市のように

Morandicity モランディは様々な物体を密集させる配置を試みることが多く、隙間なく連なり光に照らされた器の集合体は、塔やドームが成す都市の姿を想起させるということです。ネットを検索していたら面白い画像があったので、ちょっとお借りしてきましたが、モランディの静物画と都市の風景を並べて比べたものです。たしかに、よく似ています。モランディは異なった大きさや形態の物体を密集させて、光と影の様々なパターンを創り出したといいます。このことによって、これらの物体が置かれている空間の奥行きや、それを照らす光をはかることができるからだそうです。同じテーブルの上の缶や瓶、水差しの配置を色々と試すことで、モランディは物体の大きさや形態だけでなく、それぞれの色彩や影の強弱、はてまたテーブルや背後の色との調和を実験するように、様々なパターンを試みています。それは、音楽家が少ない要素からでも永遠に異なる曲をつくるために音符をつかうように、モランディは、ここに展示されている作品では二つの金属製の水差しを、小さな瓶や箱と組み合わせて、音楽家の音符のように扱っている、と説明されていました。
Morandi1952  1952年制作の「静物」を見てみましょう。並べられた水差しや壺などが同じ高さに揃えられているようで、モランディの地元であるボローニャの古い町並みのようです。そこに左手前から光が当たり、影が一方向に延びています。この作品で面白いのは、真ん中奥の赤みを帯びた壺と、その右手の白い水差しです。この二つは重なっているようなのですが、赤い壺が前側にあるようなのに、その影が水差しに映っていません。また、この二つの間に空間がないように描かれていて、まるで水差しに壺が侵食しているようです。しかも、壺の下が描かれていなくて、まるで宙に浮いているように見えます。ということは、モランディは、アトリエでテーブルの上に水差しや壺や瓶を実際に置いて様々に配置を並び替えたりしても、それをそのまま写実的に描いたわけではないということではないでしょうか。そこに、ワン・クッションあるということです。また、この作品を見る限りでは、陶器や金属製の水差し、紙の箱といった物体の質感や感触の違いには、殆ど配慮がされていないように見えます。大きさや形態、光の当たり具合、色彩、互いの位置関係は描かれていますが、それ以外の要素は無視されるか、敢えて考えないということだったのか。それは、在る意味では、都市の町並みを描く時に必要不可欠な要素と言えるかもしれません。そのように見ていくと、モランディは静物画というジャンルの絵画を制作していながら、静物を描いていたのではなかったと考えることもできそうです。
Morandi1949  続いて1949年制作の「静物」を見ていきましょう。この時点では、1952年の作品に比べて、左後方の3つの物体の高さを几帳面に揃えられていません。また、描いている筆の跡が多く残っていて、たった3年の違いですが、1952年の作品がかなり洗練されていたことが分かります。その代わり、こちらには、粗さはあるものの、それぞれの物体の重量感のようなものが感じられるような気がします。つまり、モランディは洗練させることで、静物画の個々の静物の存在感を薄めていったと考えられるのではないかと思います。
 さらに遡って1940年制作の「静物」です。このように遡るにつれる粗さが目立ってくるのが分かります。モランディは技術を成熟させると共に筆触を画面からなくしていき、画家の手が入っている痕跡を消し去っていき、また、他方で静物の存在感とかリアリティを希薄化させていった、とこの3作品を見比べていて感じたことです。しかし、この作品で面白いのは、個々の物体の形態を、この作品が一番図式的に描いているように見えるということです。それは、未来派とかキュビスムの影響ではないかと思うのですが、何ものかの理念により捉えているという感じが強く、そのあとの作品からは、そのような枠が外されていったという感じがします。
 さて、この展示コーナーは、モランディの静物画の器の配置を都市の建築物が密集する様子に見立てて、比喩的に見ていこうという意図のものと思います。そこを、敢えて利用されてもらうと、モランディが器を並べて試す空間と、都市空間との大きな違いを考えてみましょう。サイズとかいうこともありますが、その在り方についてです。単純なことですが、都市の空間は、モランディのテーブルの上のように簡単に並び替えることはできないということです。都市は実際に“在る”のです。しかし、モランディがテーブルの上で物体を様々に並び替えるのは“在るかもしれない”ということになります。それは、“在る”ということは、ここにあるだけで、それが決定的で、唯一です。他にはないです。これに対して“在るかもしれない”は、実際にあってもなくてもいい、こうなるかもしれないという可能性のことです。可能性は、唯一つではなく、無限にあります。したがって、モランディが描いているのは、唯一無二の“在る”という存在物ではなくて、“在るかもしれない”という可能性ということになりそうです。そのためには、実は静物画という小さく限定された範囲は都合がいいのではないでしょうか。
Morandiboro  ちょっと脱線しますが、エドモンド・ハミルトンというアメリカのSF作家がいます。キャプテン・フューチャー・シリーズといったスター・ウォーズの元祖みたいな宇宙活劇を多数書いた小説家です。そのハミルトンの作品に「フェッセンデンの宇宙」という一風変わった作品があります。マッド・サイエンティストものの一種で、フェッセンデンという科学者は実験室内に人工の小宇宙を創造してしまうという話です。その小宇宙の中で惑星が生まれ、その惑星に生命を誕生させます。フェッセンデンはそれを実験材料とみて、天災地変を起こし、生命体の大量虐殺を繰り返します。最終的には宇宙を滅ぼしてしまう。それを何度も繰り返すのです。それは、創造主となり、創造したものを意のままにすることにも通じます。小さな実験室で、毎日のように繰り返されるのです。それを見た友人の天文学者は…というストーリーです。
 何で、このような脱線をしたのかというと、私はモランディのやっていることが、この話のマッド・サイエンティスト、フッセンデンに似ているように思えるのです。前のコーナーでモランディは作品ではなく作品群を制作したということを述べましたが、唯一無二の“在る”を作品に完結させるのではなくて、無限の“在るかもしれない”を作品としていこうとした、と言えるのではないかと思います。そこには、前回も申しましたように客観的な基準による唯一絶対の現実とか存在といったものが、もはや信じられなくなっている。そのかわりに、唯一絶対の“在る”が信じられないとすれば、その“在る”と、それ以外が同列の横並びになっている。それが“在るかもしれない”という可能性です。だからこそ、セザンヌを師と仰ぎながら、セザンヌが存在の唯一絶対性を信じることができたからこそ、存在感を画面に定着させることを追求して現代絵画への道を開いたことを、根本のところで、モランディは共感することができなかったのではないかと思うのです。その代わりに、モランディは、その可能性を様々に追求して、テーブルという小さな世界の上で水差しや瓶や物体を様々に並び替えて、“これもあり”“あれもあり”というように可能性のヴァリエーションの試みを重ねていきました。その結果が、この会場に並べられている作品群ということが言えるのではないでしょうか。
Morandi1940  それも、モランディという人は大学で版画の先生(ボローニャ美術アカデミー銅版画科教授)を務めていたそうで、絵を描きそれを売って日々の糧にするつもりは毛頭なかったそうです。だから、作品を売るために、どうこうということを考えずに、あくまでも自分の描きたいものを、描きたいように描くことが可能だった。だから、作品は売るために手放すことを、そもそも考えなかったといえるかもしれません。それは、ギュスターヴ・モローが自分の幻想的な世界を作品で実現し、自分のアトリエに飾り、他人をアトリエに容易に踏み込ませず、そのアトリエの中で制作した作品に囲まれて、その世界に沈潜したことを想わせます。モランディは、幻想の世界に浸るような人ではなかったかもしれませんが、小説のフェッセンデンが自ら創造した宇宙に病み付きになったように、モランディのアトリエは可能性を試み、それを定着させた作品群によって創られた世界となっていたのではないか思えるのです。モランディという人は旅行などの外出を好まず、アトリエに籠もるようにしていたという、傍らから見れば引き籠りのような生活をしていたのは、自らの想像した世界にいたということがいえるのではないでしょうか。

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