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2016年6月11日 (土)

ジョルジョ・モランディ展 終わりなき変奏(5)~Ⅳ 逆さのじょうご

Morandi1948mirano ここで展示されている作品には、“ずんぐりして頑丈そうな外見をしたやや変わった器(解説より)”が繰り返し登場します。これは、金属製の円筒の上にじょうごを逆さまにしたものを溶接して作った容器だそうです。モランディが自身で作ったらしい。他にも奇妙な形で目を引くと説明されているのが銅製のソースパンです。1948年の「静物」で、ミラノ市立美術館所蔵の作品では、逆さじょうごの背後で壁に立てかけるようにして円形のなべ底と柄が描かれているので、それと分かります。これに対して1955年制作の「静物」では、ほとんどそのソースパンの機能を隠そうとするかのように裏返しに置いて、パンの底の白い部分が“ある種の光るクレーター”のように際立たせられている、と説明されています。このように、このコーナーでは同じ素材を用いた変奏の典型例で、変化しているのは、器の配置、そこに落ちる光の質、離れたり近づいたりするそれらの距離、そしてテーブル上に器が投じる影や色彩の戯れであると解説されています。 
Morandi1955_2  とはいっても、ここまでモランディの静物画は個々の作品がひとつの独立した完結世界として鑑賞するのではなくて、この展覧会のように作品群として作品に囲まれた世界を全体として体験することに意味がある、というようなことを書いてきて、ひとつひとつの作品の差異を、展覧会での説明からの引用とはいえ、ここで述べていることに矛盾を覚える向きもあると思います。モランディの静物画は、例えば現実の物が“在る”というのを作品に表わすというものではなくて、“在るかもしれない”という現実も含めた可能性を様々に追求して、その全体を世界として作品群という形にして作り出そうとした、という私の捉え方を前回までに述べました。そうであるとすれば、“在るかもしれない”可能性は、モランディが描いたものの他にもあるはずです。つまりモランディが描いた作品の背後には、描かれていない可能性が無数にあり得るわけです。これは、モランディの作品の楽しみ方として逸脱なのかもしれませんが、彼の作品を眺めていて、様々な作品の差異と戯れているだけでなく、それを便として彼が描かなかった作品を想像してみるということもできるのではないか、ということを考えたわけです。そう考えると、実はモランディの静物画の世界というのは、そういう描かれていない、いわば闇の部分を包含した豊穣ともいえる世界もっていると言うことができるわけです。それだけでなく、このようなモランディが描かなかった可能性を想像することは、その背後にある全体としての世界そのものを見出していく、更にいえば、それをつくり上げていくことに加担していくこともできるのです。結果的に、モランディの世界は、そうであるなら、モランディ自身がすでに亡くなって、新たな作品を制作することがなくても、成長し続け、豊かになっている可能性を秘めていると考えられるのではないかと思うのです。つまり、唯一絶対の現実とか“在る”ということに疑いを抱いてしまい、信じることができなくなってしまったという背後には、神に象徴されるような絶対的なものを失ってしまったというニヒリズムがあると思います。そこで、モランディは背後の神のような絶対に目を向けることなく、目前の手に触れることのできる静物をひたすら描いた。そのような目先の静物を描いていくうちに、静物画の小さな画面は自分で創ることが出来ることに気づいていく。そこでは、自分が神になり得るわけです。次第に、画家はその行為に没頭し始めることになる。現実の世界とは違って、自分が思うようにつくり上げることができるわけです。所詮それは小さな画面という限定された範囲でのことだけれど、気がつくと、いや、本人もそんなことは考えていないかもしれません(そっちの可能性の方が大きい)そこに、未開の豊かな世界が広がっていた。そんなストーリーを、私は妄想します。しかし、そのような世界が広がっていくためには、細部が、つまりは、個々の作品が、世界を広げていくようなリアリティ(この場合現実性と言うことではありません、リアルを実感できるという程度の意味です)や可能性を持つようなものでなくてはなりません。それは、別の分野であれば、日本の芸能の世界で歌舞伎や浄瑠璃において『曾我兄弟』とか『小栗判官』などいった誰もが知っている物語を「世界」と呼んで、その「世界」の中で一つ一つ戯曲が生まれ、これを「趣向」というのですが、通常は「世界」の約束事に従って「趣向」が生み出されるのですが、時に「趣向」が暴走して「世界」の枠を飛び出してしまう、例えば、源平の合戦で平家の大将が死ななかったなどと「世界」とは逆の戯曲ができしまうと、逆に「世界」を変えてしまって、そのあとでは「世界」は平家の大将が死ななかったということになり、その枠の中で新たな「趣向」が作られていく。それが歌舞伎や浄瑠璃の豊かな広がりを作り出していったのです。
Morandi1948boro   同じように、モランディの個々の作品は作品群を作り出す可能性、つまり、作品群という世界の意味を書き換えてしまう可能性があるということになります。そういう意味で、個々の作品を見ていこうとしているわけです。
 1948年制作のボローニャのモランディ美術館所蔵の「静物」は逆さじょうご以外の物の配置が(特に画面の左半分)、前のコーナーでみた1952年の「静物」とよく似ています。しかし、こちらのように右側に逆さじょうごを置いたことによって、画面右側の余白の空間が大きくなり、風通しがよくなったような、ちょっとした解放感が生まれます。
 また、同じ物がほとんど同じように配置されている1948年制作のトリノ市立近現代美術館所蔵の「静物」を見てみましょう。左側の脚のある円筒の器と背後の赤い壺と水差しの配置がちょっと違うので、さらに風通しがよくなった印象があります。また、その三つの物の画面上の高さが揃っていないことによって、壺と水差しが、もっと奥のほうに位置しているような印象から、奥行きを感じさせます。それがまた、物相互の位置の空隙が広く取られている印象を受けます。そして、全体として近景に描かれて画面上の余白が相対的に狭くなっていることは、ボローニャ所蔵の作品が、ちょっと離れ気味で背景の物がない部分が相対的に広く取られているのが圧迫感を生んで、物が真ん中に押し詰められた印象がちょっとあります。しかし、それは、その分落ち着かなさとともに動きの感じを生んでいるともいえます。逆にトリノ所蔵の方はねスタティックで落ち着いた印象です。これは、あくまでも両者を比べて相対的に、ということで、他の作品と比べると印象は違ってくると思います。その辺りが、作品群として見るということの影響と言えます。

Morandi1948torino

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