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2016年6月23日 (木)

カラヴァッジョ展(6)~Ⅴ.光

Caravaggioemao 今回のカラヴァッジョ展は、「マクダラのマリア」などが話題となっていたようですが、私には、このコーナーで展示されていた「エマオの晩餐」が、一番印象に残りました。ルカ伝のなかで、復活したイエスが、エルサレム近郊のエマオという町に向かう二人の弟子の前に現れたものの、二人の弟子は師の復活に気づかなかった。そこで、イエスはエマオに泊まり一緒に食事の席に着いて、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡すと、二人は気づいた。しかし、その時にはイエスの姿は見えなくなっていた。というエピソードの、まさにその食事の席を描いた作品です。
 キリストは、今、パンを祝福し終え、二人の使途に手渡したところで、パンはテーブルに置かれています。福音書によれは、二人の使徒は、まさにこの時はじめて、この男がキリストであったこと、キリストが復活したことを知った。まさに、その瞬間です。手前、テーブルの両側にいる二人の使徒は、キリストに視線を向けてフリーズしてしまっているかのようです。福音書の中でもクライマックスの瞬間ではないでしょうか。というのも、この瞬間、同時に二人の使徒の前からキリストの姿は消えてしまうわけですから。それまで、とくに意識もしていなかった(視野に入ってこなかった)男が、キリストであると分かって視野に入ってきた。つまり、見えてなかったキリストが、ある瞬間に突然見えた(二人の使途にとっては出現したというに等しいでしょう)。それも束の間、見えたと思った途端に、キリストの姿は消えてしまった。そういう瞬間です。
 これは、絵を見ている観者の立場では、このように冷静に述べることができますが、もし、この絵の中の人物、例えば、キリストを見た使徒の立場であったら、どうでしょうか。とても冷静ではいられないと思います。それまでの現実の男が師であるキリストだったと分かった、としても、それまで見慣れたキリストが分からなかった(死んだと思っていた)。どうして気づかなかったのか、気づかなかった現実の生活に対する疑いが生まれ。そう思った途端に、キリストの姿は消えてしまったわけですから、現実なのか、そうでないのか、ということにならないでしょうか。
 Moreausalome 例えば、全然、方向性は異なりますが、突然、目前に思いもよらぬものが出現した瞬間を描いた作品として、そのものズバリの題名の「出現」という近代フランス象徴主義のギュスターブ・モローの作品があります。幻想絵画に分類されるのでしょうが、サロメの前にヨハネの首が出現した瞬間を捉えたということです。この作品では、空中に出現したヨハネの首が光り輝いて神秘さと不気味さを際立たせています。そこで超常的な世界を作り出しているわけです。ここでは、出現した首自体が光り輝いています。舞台は古代世界ということもあって、現実のリアルさというより、全体として幻想的な世界になっている。そこで、絵を見る人は、現実ではない、幻想の世界として見ることになります。
 近代の象徴主義者モローは、出現を神秘的瞬間として幻想空間で、いわば絵空事として具現化しました。しかし、カラヴァッジョは17世紀の未だ世俗化が進んでいない宗教が日常に確固として存在していた時代の人です。言ってみれば出現を絵空事ではなく、現実のものとして受け取ることができた。そうしなければならなかった、それが当然であったという時代で、そういうものとして具現化することをカラヴァッジョは目指した、それ以外になかったと言うべきかもしれません。そこで、カラヴァッジョの採ったいき方はモローのような絵空事の画面を精緻に作り上げることではなくて、現実的な画面の中に、非現実が紛れ込んでしまったかのような、現実にあるものが一瞬にして非現実に転じてしまうような画面であったと思います。それは小道具、例えば真ん中手前の宿屋のテーブルや卓上の食器やパンは写実的に描かれて、目の前に実在しているかのように迫真のリアルさで描かれています。しかし、背景は暗闇になっていて、本来であれば宿屋の壁や家具が描写されるべきところは闇に紛れるように省略されてしまっています。例えばルネサンスの古典的な作品であれば、宿屋という空間や小道具がすべて明確に描かれていたでしょう。少なくとも暗闇に紛れてしまうことなく、あくまでも明澄で確固とした形態が描写され、現実の明確さが観る者に確信されるものであったと思います。このようにすべてが明確にみえてくるということは、すべてに遍く光が当てられ、すべてを見渡すことができるようになっているわけです。しかし、この作品では、背景が暗闇に紛れてしまい、どのような空間であるかが、まず分からなくなっています。つまり、宿屋ではあると思いますが、そのことは画面を見る限りでは保証されていません。暗闇があるということは、遍く光が当てられているわけではなく、光は偏在しているのです。画面左上から光が差し込んできていますが、この差し込む光によって、背後の闇から、人物や宿屋の小道具であるテーブルや食器、パンなどが照らし出されている、と言うわけです。ということは、もともと闇であったところに光が差すことによって、人物や小道具の存在が、浮かび上がってきたわけです。ここでは、しかも、はじめてキリストの存在が二人の使途に認識されたわけで、差し込む光に浮かび上がるキリストの姿は、闇に照らし出されて初めて存在が表れるというドラマでもあるわけです。ここで、写実的に描かれて小道具類と非現実のような闇との間に境界はありません。むしろ、闇の中から小道具が浮かび上がってくるように、現実の中に非現実が侵入している、あるいはその逆が画面の中でできているというわけです。だから、作品を観る者が、自分の日常に変わらないような、日常生活と連続しているようなところと、奇蹟が起こるような日現実が境目なく、画面にあるのです。
 そこで、作品を観る者は、自分の活きている世界と連続しているようなところで、画面にコミットしていながら、キリストの出現のような奇蹟に迫真をもって接することが可能になるわけです。それを可能にしているは、暗闇が画面を支配しているのと、そこに光がさして、存在が表われてくる、というこの作品の画面のつくりによるものであると思います。
 カラヴァッジョの特徴として、例えば、次のような評があるのは、具体的には、今言ったように現われているのではないかと思います。“カラヴァッジョの作品が我々に与える衝撃の一つ、それは何よりも、光と闇の強烈なまでの対照に違いない。スポットライトの光が交錯する劇場の舞台さながら、カラヴァッジョが描く場面は、闇を貫く強烈な光によって、我々の前に開示される。光は、すべてをくまなく照らし出すのではなく、むしろ対象をはじめて存在させるべく、闇の深淵から呼び起こす。光の強烈さゆえに、対象は、輪郭は明確に浮彫にするというよりは、むしろその皮膚、その表面を、剥き出しに露呈して我々に迫ってくる。”
 Caravaggio2016emao_2 実は、この「エマオの晩餐」という作品。カラヴァッジョはこの作品の5年前に同じタイトルで描いています。現在は、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにあるそうですが、そっちの方が有名らしいです。上で説明した光と影のドラマチックな対比は、このロンドン版の方が特徴的なので、むしろ展示されている作品よりも、ロンドン版の方が有名らしいです。同じタイトルの二つの作品を比べてみると、展示作品の特徴が、よりはっきりすると思います。例えば、ロンドン版に比べて人物たちはもはや画面を突き破るばかりの動きを抑え、というよりも、ロンドン版は演劇的と言えるほど、多少わざとらしく見えるほどオーバーなポーズをとっています。これに対して、展示されているものでは、人物のポーズは自然で、動きが少なく、内向的に見えます。ロンドン版ではキリスト出現に驚くというのであったのに対して、展示作品では人物たちは静かにキリストの声に耳を傾けているようにも見えます。だからこそ、内向的というのか、単に出現に驚くというのではなく、宗教的な奇蹟にあうという神秘性がある雰囲気を醸し出していると言えます。それ以外で大きな相違点は、ロンドン版と同じモデルが歳をとったような宿の主人の位置がキリストの左に移ったことと、ロンドン版にはいなかった老婆がその傍らに登場したことです。この老婆は、身振りが少なくなったため、空間に占める人物の比重が小さくなり、その結果、画面に空白が生じて挿入された考えることもできます。というより、キリストを覗き込み、じっと耳を傾ける給仕の男女は、キリストのヴィジョンを見ているのではないかと思われます。彼らはうらびれた食堂の主人とその母であり、質素な食事を運んだ時に、突如キリストと使徒たちが彼らの前に顕現した。ロンドンの作品では、キリスト以外の人物や事物が強い現実味を帯び、観る者のいる空間と時間を共有していて、つまり現実とヴィジョンとが混淆していたのに対し、ここでは給仕の二人のみが作品を観る者と同じ現在におり、彼らとともに観者はキリストと使徒の晩餐のヴィジョンを見ることになります。つまり、キリストの出現を二人の使途が見ています。これを宿屋の二人の男女がその模様を見ている、ただし、宿屋の二人もキリストが見えていたとすれば、使途と同じ対置にも立っています。そして、この画面を作品として鑑賞者が見ている、ただし、宿屋の二人とも同じ位置にも立っているというわけです。つまり、空間のヴィジョンの次元が重層的に重なって画面にあって、それぞれの次元で、二重の位置関係でヴィジョンを見ている者が、それぞれの次元で順繰りにいるわけです。それらの次元の越境がひいては、観る者の画面へのコミットを画面事態が促しているともいえます。また、二人の使途がキリストを見る、見えなくなるという二重性を脇で見ている宿屋の人物を配することで、客観性がでたと思います。それが次元の越境が順繰りに起こることで、見える-見えないがダイナミックに重層化することになりました。それが、この場面の一発の衝撃は弱めているものの、何度も同じ場面を見ても、刺激が減退しないで維持できている理由であると思います。
Caravaggio2016catch  このようなカラヴァッジョの劇的な光と影の扱いという特長について、“世界を覆う暗闇は絵画の世界における行為、仕草、精神状態、表情を増幅し、その結果として描かれた場面に活力を与え、物語における「時と場所」を確固としたものにする。カラヴァッジョの光は、現代の写真技術において「斜光」や「サイド光」と呼ばれる照明方法に対応する。順光と逆光の中間、撮影方向に対して0度から90度の間の角度に光源を設定する方法である。この照明方法は効果的に陰影を作り出し、彫刻のような造形的な明確さで対象を表現することが可能になる。写真という平面上に立体感を表現するのに効果的な光の扱いである。画布もまた平面であり、その平面上に三次元的存在感を生み出すカラヴァッジョの絵画は、幾世紀も後になって開発される写真技術を先取りしていると言える。”と説明されています。この画家を再発見したロンギは、これを特定の角度と効果をもった「個別的な光」を創出した、といいます。これは、画家の出身地であるロンバルディア地方の当時の絵画の傾向から、次のように説明しています。“遍在する光のもと、対象を輪郭線素描において限界づけ、捉え、その形を確定するトスカーナ芸術。それに対してヴェネツィア芸術は、色面の並置として対象を捉え、輪郭線よりも彩色の統一を重視し、半音階的に濃淡をつけてぼかしながら対象の質を模倣する。これらルネサンス以来の主要な芸術的潮流に対して、ロンバルディア美術は別の道へと向かった。そこでは光はもはや遍在することはない。むしろ、闇を照らす光の一瞬の通過によってはじめて物の存在は浮かび上がると同時に、表面をかすめ遮る影の投射によって、劇的な存在感が対象に醸し出される。光の充満する面は、存在の表層、皮膚を、生々しいまでに露呈し、色彩さえも、対象に含まれる光の量や価値に依存する。ロンギのいう「ルミニスム」の芸術である。場面がたとえ遠近法的に構築されていようとも、この光と闇の弁証法にかかるや、鑑賞者と絵画の距離は消失し、絵画内世界は直接的に我々の眼前に開示される。ルネサンス的遠近法が前提とする視覚の円錐形の「断面」、開かれた「窓」、あるいは「鏡」としての絵画、そうした境界面は稀薄となり、観賞者と絵画空間との敷居はいわば解消へと向かう。一つの定点に固定された観賞者の「眼」と絵画面との距離はもはや数学的に確定されず、むしろ光と闇の戯れのなか、観賞者は画中空間へと埋没する。虚構と現実を無媒介的つなぐこうした手法こそは、カラヴァッジョの強烈な光と闇が照らし出す場面へと結実するものである。”たしかに美術史としてはそうなのでしょうが、わたし的には、少しくどくなるかもしれませんが、画面に空間としての統一した連続性がない、空間を設定していない画面で人や物を描いていて、もともと二次元の平面である画面で、奥行きのある空間が想像できるように描かれていないとすると、画面が平面的になってしまうことになります。そのようなところで、画面に描かれている人物や物体を平面にしないで立体に見せるためにはどうすればいいのか。これに対して、人物そのものが自立した立体であることをまず描いている。同じように個々の物体が立体であるように、それぞれ描くということをしています。つまり、画面全体を統一した秩序ある空間として、いわば画面に客観的に世界を構築するのではなくて、個々の人物や物がそれぞれに立体として存在しているという全体に対して個物を優先させるということです。その人物や物を立体的にするためにカラヴァッジョは彩色を活用します。色によって人物や物の立体性を表わさなければならないとすると、影をつけていくことによって、つまり陰影によって立体性を表わすことになります。立体に光を当てれば、光が当たるところと当たらないところが生じ、それによって陰影がうまれます。立体であるからこそ陰影が生まれる。これを逆に遡れば、陰影が生じるから立体であるということになるわけです。この場合、さらに、陰影が効果的に活用されるためには影を基調とすれば、光が当たったところが映える、つまり、際立つことになります。これによって、陰影が深くなり、人物の物の立体感や奥行きが強調されることになるわけです。これが、カラヴァッジョの作品の光と影を対比について、私の読みのストーリーです。しかし、これだけならカラヴァッジョニスタたちも同じです。
Caravaggio2016spnet  カラヴァッジョとカラヴァッジョニスタたちの光と影の違いは何か。カラヴァッジョニスタたちの作品、例えば、バルトロメオ・マンフレーディの「キリストの捕縛」という作品を試しに見てみましょう。夜の暗い空間で限られた光の中で、人物たちが見えています。夜の闇から光があたって人々が浮かび上がっているという図です。この場合の光で特定されているというよりは、光が弱くて届かない、昼の陽光と違ってすべてに行き渡っていない状態です。ロンギの言う「個別的な光」ではないのです。意図的に暗闇が作られているわけではなく、そこに特に意味があるわけではありません。これと比べて、カラヴァッジョの「エマオの晩餐」に戻ると、暗闇に理由はないのです。だから、画家がわざと暗くしていると思えます。ではカラヴァッジョはなぜ敢えて暗闇をつくったかというと、その暗闇が観る者の想像力を喚起する効果を生んでいると言えます。マンフレーディの方は、夜の闇という当たり前なので、とくに想像力を掻き立てるものとなってはいません。これは、オラツィオ・ジェンティレスキの「スピネットを弾く聖サエキリア」でも、ラトゥールの「煙草を吸う男」なども優れた作品ではあるのですが、暗闇に、それなりの理由があって、敢えて暗闇にして、観る者の想像力を喚起するものではないのです。その想像力の差が作品の画面の深さを感じさせるものとなっているのではないかと思うのです。

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