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2016年6月12日 (日)

ジョルジョ・モランディ展 終わりなき変奏(6)~Ⅴ 矩形の構成

Morandi1952s 4点しか作品展示のない小さなコーナーです。息抜きなのでしょうか。静物が画面中で矩形つまり長方形の枠の中に収まるように構成されて配置されているということでしょうか。それは、ここであえて特徴的にピックアップするような特徴的なことではなく、モランディの静物画に共通していることではないかと思います。
 1952年制作の「静物」では矩形の構成といいながら、テーブルに置かれた物に矩形のものはなく、円筒形の壺、長い首をもつ丸い瓶、茶碗といった丸い物ばかりです。その3つの白い丸い物体の間の空間をつないで隙間をふさぐ結び目のような役割を黄色い布が果たしているといいます。つまり、丸い3つ物体と黄色い布を一緒にすると外枠を矩形に線で描けるというわけです。
 1951年制作の「静物」では、ちょうど器や箱などの物体が大きさや高さを無理やりに揃えられて長方形を形成するように構成されているといいます。
 これらは、説明の中で“画家が下した画面構成上の決断とは、ある種の仮想の長方形の枠内に、描く対象を完全におさめるという構成を作り上げるものであった”と述べられていたので、モランディは意図的にやっていることだろうと思います。では、どのような意図を持ってやったのか。その理由や目的は何なのでしょうか。
 Morandi1951 そのことは、展覧会では何の説明もありませんでしたから、見る人が勝手に想像してくださいということなのでしょうか。まあ、ある種の秩序感のようなものが働いたのか、ということくらいでしょうか。モランディに比べると、シャルダンなどのほうが配置構成は大胆に見えると思います。もうちょっと、勝手な想像をふくらませていくと、モランディの作品は年齢を重ねていくにつれて、描かれている物体の質感とか重量感といったものの描写が減っていって、存在感が稀薄になっていきます。残るのは形態や色彩といった表面的な見た目です。つまり、描く物体の存在感がなくなっていって、そのもの外形が抽象化されて残ると、言ってみれば抽象化されて記号のようなものになって、言ってみれば抽象概念のようなものです。そうなると、机上の空論といいますか、その概念の論理がひとりあるきし始めることになります。その代表的なものが論理的整合性という一種の秩序です。そのひとつのあらわれが矩形の構成ではないか、考えることもできると思います。それは、前のところで、モランディは“在る”ものを描くのではなくて、“在るかもしれない”ものを描くようになっていったということを述べましたが、在る可能性を描くということは、現に在るという存在感はないわけです。それゆえに存在感を描くことを徐々にやめていって、その替わりに人為的な秩序が画面に入ってきたとは考えられないでしょうか。

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