侘び茶はギミック?
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
夕暮れはいづれの雲のなごりとてはなたちばなに風の吹くらむ
藤原定家の歌には、ある種の空しさとか侘しさのようなところが感じられると思うのだけれど、技巧的とか虚構とか評されています。
さて、あまり関連性がなく突拍子もないかもしれませんが、茶道の、いわゆる“侘び茶”は、わびさびとか禅と関連した精神性とか言われます。しかし、実際にやっていることを外形的に眺めれば、その手法は極めて技巧的で虚構を積み重ねるものです。どうして、両者の評が極端なほど異なるのだろうか、わたしには、とても不思議に思えます。例えば、わざわざ侘しい茶室という空間を手間をかけてつくるのを、わざとらしいと思いませんか。侘び茶の始祖である千利休は豊臣秀吉の黄金の茶室を嫌ったということですが、わざと簡素な茶室をつくるのと、わざとらしいという点で同類に見えます。それは見方によれば、ユイスマンスなどといった人々の19世紀ヨーロッパの象徴主義やベックフォードのゴシック主義の廃墟嗜好つまり頽廃趣味に通じるとこがあると言っても否定できないでしょうし、実用に不向きの畸形的な形態の茶碗を千利休が奇を衒うように珍重して値付けをするようなのは、20世紀にデュシャンが便器に泉というタイトルをつけて美術品として展覧会に出品して系術の価値が人工的に虚構されたものだということを暴露したのと同じことではないか、と思えるのです。つまり、虚構という、わざわざ価値の体系を人為的に作り出すという人工的な世界ということなのです。それは、千利休の一輪の朝顔の逸話つまり、“利休がその庭に咲き誇った朝顔が見事なので、秀吉を「朝顔を眺めながらの茶会」に誘い、秀吉は「利休が誘うほどだから、さぞかし見事な朝顔であろう」と期待する。しかし、秀吉が利休の屋敷を訪れると、朝顔は全てその花を切られ、一輪だけ、茶室に朝顔が飾られてい。一輪であるがゆえに、侘びの茶室を見事に飾る。”
という話にもいえると思います。これは、ギミックではないでしょうか。わざとらしいとしか思えないのです。それを趣向というのでしょうか。実際に、茶会に出れば、亭主の趣向を察知し、誉めなければならない。ひねったような趣向を客は、むずかしいけど分かりましたってかなり嫌らしい、鼻につくようなスノビズムではないかと思いませんか。それが、どうして精神的とか、わびしさとか言われるのか。俗物の成金趣味、知ったかぶりとどこが違うのでしょうか。
また、「見立て」という千利休が茶碗や茶器などの道具類にたいして、自分の感覚を基準にした新しい価値基準を強引に押しつけてしまう(中傷かもしれません)のは、欠けた茶碗を珍重するとかいった奇矯なとこは悪趣味と言えなくもないのです。それと、禅とか精神性ということが言われるのは、どういう説明されているのか。天心の「茶の本」くらいしか読んでいないので、理論的なことは不案内で、もし侘び茶に造詣が深い方がいらっしゃれば、教えていただきたいと思っています。
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