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2016年6月21日 (火)

カラヴァッジョ展(4)~Ⅲ.静物

このコーナーは静物ということになっていますが、カラヴァッジョがいわゆる静物画を描いたということないらしく、彼の作品のなかで、静物が人物などと同じように丁寧に描かれているということから、このように独立したコーナーが設定されたようです。最初、静物というコーナーがあるので、スペインのバロックのボデコンのような特徴的な静物画が描かれたのでは、と期待したのでしたが、それはなくちょっと落胆しました。
Caravaggiosyounen2  「果物籠を持つ少年」という作品です。この作品も、以前の庭園美術館でのカラヴァッジョ展で観た作品です。以前の庭園美術館のカラヴァッジョ展のときには、入り口を入ってすぐ正面に展示されていたので、何年経っても強い印象が残っています。いわば、私にとってのファースト・インパクトの作品です。その最初の時に感じて、以後、カラヴァッジョの作品をみるにつけても拭うことができなかった、あるズレの感覚は、ここで、改めて感じました。それは、多分の私のカラヴァッジョの作品への個人的な感じ方なのでしょうが、それは、カラヴァッジョの作品が、キマッていないというか、収まるところにピタッと収まっていないという感じです。では、どのようなところがそうなのかと言えば、何か、この作品のあら捜しのようなことになりそうなのですが、反面では、そこにカラヴァッジョの特徴が表われて来ると思うので、述べていくことにします。その主要な点は、果物籠に盛られた果物と、それを持っている少年のバランスが不釣合いであるということです。
Caravaggio2016fruts  明らかに果物を描いているのと少年を描いている筆致が違うのです。この作品の主役は間違いなく果物籠で、果物の描き方は精緻といっていいほど丁寧で写実的です(以前に紹介したカラヴァッジョの同時代人の証言によれば、このように静物を人間と同等、またはそれ以上に重視して描くというとは、当時の絵画の世界では革命的だったことになるそうです)。これは、カラヴァッジョスキの作品として同時に展示されている、パンフィロ・ヌヴォローネの「果物籠」にも共通していると思いますが、対象である果物籠をすぐ近くから写真で言えば接写するように間近に迫って、果皮の絶妙な頃亜や質感の表現にかなり気を遣って描いています。それは、ネルサンスの画家たちが聖母を描く時の聖母の柔らかな皮膚を着衣の布地の質感や肌触りと対照させて描いたのと同じような注意ではないかと思えるほどです。カラヴァッジョは作品の中で果物籠に光を当てて映え、果物の鮮やかな色彩を「彩色」により際立たせています。そして、ルネサンスの画家たちが布地の質感やきらびやかな色合いを彩色によって表現したのに対して、カラヴァッジョは果物の果皮の質感だけでなく、物体としての立体性を陰影を「彩色」し、そして実在感を汚れなどを「彩色」することで表わしているように見えます。そこで、カラヴァッジョは鈍い色、鮮やかでない汚い色を効果的に遣っています。これが、私には、ルネサンスには見られなかった、カラヴァッジョの、あるいはバロック絵画の特徴であるように見えます。おっと、ここでは、「果物籠を持つ少年」の釣り合いの悪さを述べていたのでした。このことは、後で触れます。このような果物籠に対して、少年の描かれ方は影が薄いのです。少年そのものが歪んでいるように見えます。首が太すぎるように見えますし、首の傾げ方は不自然なほどで、頭と胴体が別物のようです。顔の筆遣いが雑で、筆の跡が粗く残って、まるで皺のように見えて見苦しくなっています。顔についても左右の目のバランスもとれていない気もします。しかも、少年は全体として、果物に比べて鈍い色で目立たないように描かれているように見えます。
 これをどう見るか。ちょっと、この展覧会のはじめのところに戻って考えみたいと思います。「女占い師」を見たときに、この「果物籠を持つ少年」と同じように背景が描かれていなくて、作品の画面に人物の居る空間が設定されていないことに思い至りました。そこには、神のように客観的に空間を構築するということから、個人が主観によって対象を限られたところで見るという、言ってみれば世界観の転換の萌芽があったのではなかったのでしょうか。その中で、ではそのような主観的な視点でつくられた画面の世界で、例えば人物などの個々の構成物はどのように描かれるのでしょうか。そのひとつとして、「トカゲに噛まれる少年」において、人が人を人格ある者としてみる場合、人間を間近にクローズアップさせてみて、そこに表情をみているということから、人の表情に重大な注意を払って、強調して描いているのを見ました。また、その表情をリアルにするために人間は静止しているのではなく動くもので、そのダイナミックさを描くために、敢えて形態を歪ませて描いてみせているのを指摘しました。
 これについて、関連がないような突飛なことを持ち出すように見えるかもしれませんが、私には、このようなカラヴァッジョの画面のつくりが、現代のアニメーションに似ているところがあると思うのです。どのようなところが似ているのか、ということについて簡単に述べてみましょう。アニメーションの空間とは、背景と、その手前で動くキャラクターが別々に描かれています。アニメーションのつくり方をみれば背景とキャラクターを別々のセルに描き、それらを重ね合わせて、背景のセル画はそのままにキャラクターのセル画を動かして全体としては背景の前でキャラクターが動いているような画面を作っています。このように、アニメーションのでは背景とキャラクターは最終的には同じ画面に収められることになるので、一見すると同じ空間のよう見えることはありますが、もともと違う目的で、別の人が別々に作成したものなのです。ですから、背景とキャラクターのセル画がルネサンス絵画に見られるように正確な一点透視図法によって統一的に作成されるということはありえないのです。したがって、同じ画面にある背景とキャラクターの間に統一した連続性は存在していないのです。これが何を意味するかというと、アニメーションの画面というのは、それ自体で完結した空間を形作っていないということなのです。だから、アニメーションを見ている私たちは、客観的に完結した空間として、その画面を見ているわけではないのです。この場合、実は、背景とキャラクターの二枚重ねの二重構造を私たちが見ているということは、背景とキャラクターに連続性がないということで、画面を見ている私たちとの距離の置き方が背景とキャラクターとに対するものが異なってくることになります。その結果、キャラクターは見ている私たちと背景の間の中間的な位置になるということなのです。それは、背景とキャラクターとの間に連続性がないというのは、画面を見ている私たちとキャラクターとの間に連続性がないという点で同じなのです。あとに残るのは、単なる程度の違いで、私たちと背景のどっちがキャラクターに近いかという距離の差と言うことになります。それが見るものにとって、どのようなことになるのかというとキャラクターは画面と見ている私たちの境界にいるということになります。そこに、キャラクターが橋渡しとなって、画面にコミットするかのような見方をすることができる。つまりは、画面を通じての共感とか感情移入を促す効果が生まれるといっていいでしょう。
 このようなことが、カラヴァッジョの「果物籠を持つ少年」においては、少年と果物籠の描かれ方の違いにも当てはまるのではないでしょうか。しかも、少年の描かれ方は、ちょうどアニメーションのキャラクターほどではないのですが動きがあるかのように、少なくとも見る者がそのように感じられるように描かれています。これと同じことは、「トカゲに噛まれる少年」で少年と右下の花瓶に差したバラの描き方が異なっていることにも当てはまると思います。
Caravaggio2016bacco  このことは、同じ会場に展示されていました「バッカス」にも言えると思います。続けて考えて行きましょう。このように画面に空間としての統一した連続性がない、空間を設定していない画面で人や物を描いていて、もともと二次元の平面である画面で、奥行きのある空間が想像できるように描かれていないとすると、画面が平面的になってしまうことになります。そのようなところで、画面に描かれている人物や物体を平面にしないで立体に見せるためにはどうすればいいのか。そのことを考えた時に、「果物籠を持つ少年」を見ると、少年や果物の彩色によって、立体性を持たせていることが分かります。つまり、奥行きのある空間に配置して、その立体の中にいるということで、奥行きのある立体であると示すやり方、これが遠近法によるものです。ただし、ここでは人物や物体そのものにも影をつけたりして立体であるように描かれてもいますが。これに対して、カラヴァッジョの作品では、人物そのものが自立した立体であることをまず描いている。同じように個々の物体が立体であるように、それぞれ描いているというわけです。つまり、画面全体を統一した秩序ある空間として、いわば画面に客観的に世界を構築するのではなくて、個々の人物や物がそれぞれに立体として存在しているという全体に対して個物を優先させるということです。それは、ある意味では客観である世界、つまりあるべき世界、ではなくて、個別の人、つまり個人が在る、つまりあるべきに対してあるということを描こうとしている、と言えるのではないでしょうか。バリオーネがカラヴァッジョに対して素描という形態を構築することを重視していないと批判しましたが、それは、アリストテレスが存在の本質を形相を一義として見ている伝統から素描という形態を描くことを重視していたことになるわけで、カラヴァッジョの描き方は、そういうアリストテレス以来の形相を本質としたあり方に対するアンチテーゼと言うこともできるかもしれません。その具体的なものが彩色という描き方です。
 実際に、色によって人物や物の立体性を表わさなければならないとすると、影をつけていくことによって、つまり陰影によって立体性を表わすことになります。立体に光を当てれば、光が当たるところと当たらないところが生じ、それによって陰影がうまれます。立体であるからこそ陰影が生まれる。これを逆に遡れば、陰影が生じるから立体であるということになるわけです。したがって、影をつけるということが重大な意味を持ってくることになります。この影というのは光が当たらないところですから暗くなります。そこで主に遣われる色は、灰色や黒といった暗く、鈍い色です。だから、私には、カラヴァッジョの色遣いは、暗く鈍い色を中心に考えられていたのではないかと思えるのです。そこで考えられるのは、カラヴァッジョの出てきたローマで活躍した偉大な先人です。
Caravaggio2016final  何か、思わせぶりな言い方をしましたが、その先人とはミケランジェロではないかと思うのです。ミケランジェロとは、カラヴァッジョにもミケランジェロという名がつけられていますが、なにか関係があるのでしょうか、ルネサンスの彫刻家であり画家でもあった、あのミケランジェロです。ミケランジェロはローマのサン=ピエトロ聖堂に「最後の審判」という大きな壁画を残しています。著名な作品なので、ご存知の方は多いと思いますが、裸の筋肉隆々の人々が画面に溢れんばかりの群像画の様相の作品です。この壁画は、実は、全体としてはノッペリして平面的な構成になっているのです。しかし、中央のキリストをはじめとして、その画面にいる人々の姿は、それぞれに存在感があって、それこそ画面から溢れんばかりです。その個々の人々は裸体で、みな筋肉隆々で強烈な存在感を放っています。その個々の人々の描き方を見ると、ミケランジェロは豊かな陰影を施しているのが分かります。その陰影を生み出すために、ミケランジェロは最初に黒色を彩色したと言います。つまり影から描いたらしいのです。その黒いところに光の当たる明るい色を重ねて塗っていくと、明るい色が際立つように目立って浮き上がるように見えます。それによって、立体性を強調したといいます。カラヴァッジョは、このことを知っていたのかどうかは分かりませんが、この先例に倣うようにして、描いたのではないか。だから、暗い色や鈍い色が、必要不可欠で、重要だったのではないかと思えるのです。
 17世紀のジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリの『芸術家列伝』の中で、このようなカラヴァッジョの様式の変化を初めて指摘したということらしいのですが、その中で次のように述べられています。“肉体に立体感を与えるために黒を多用し、強烈な暗色に支配されている。そして、このような制作方法に深く没頭したため、彼はいかなる人物像も、太陽の照る戸外にはけっして出さなかった。そして逆に、閉め切った室内の暗闇の中で人物像を描くための手法を見つけ出した。つまり、照明を高い位置にとって、光が肉体の主要な部分に垂直に下りてくるようにするとともに、残りの部分は陰影の中に残すことで、激しい明暗によって絵に力強さを与えるという手法である。” ここで見ている「果物籠を持つ少年」も「バッカス」も黒っぽい暗い背景をバックに少年の白い肌が浮き上がるような色彩構成になっています。まさに、ここで説明されている通りとは言えないでしょうか。
 そして、さらに考えていくと、カラヴァッジョの大きな特徴と言われている、光と影の強烈な対比的扱いによって生まれるドラマということも、このような暗い色調による影をベースに光の当たったところを際立たせるという色の遣い方から生まれたと言えるのではないでしょうか。また、ここでも先を急ぎすぎたようです。
 ここで、少し脱線して道草をしようと思います。この暗い色調について、ルネサンスの画家たちが明るく、透明な色遣いをしていたという印象が強かったのに対して、バロックの画家たちは、一転して暗い色や鈍い色、汚い色を多用しだしたように、私には見えます。ルネサンスからバロックの転換は、ひとつには色遣いの大きな転換があったと、私には感じられました。バロックに当てはまるかは微妙ですがエル・グレコの聖母を描いた作品などは背景は真っ暗ですし、ムリーリョは汚れた乞食の少年を写実的に描いたり、ベラスケスは真っ黒な衣装を着ていますし、レンブラントは夜を描いた作品が有名です。ここには、空間構成を崩しても、個人を独立したものとして描いていくという転換があったことにより、個人を立体的に空間から独立して存在するものとして描くという課題に、それぞれの画家たちが出した答えが、このようなことだったのではないか。そして、カラヴァッジョも、そのような画家たちの一人であったと、私には思えるのです。

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