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2016年6月13日 (月)

ジョルジョ・モランディ展 終わりなき変奏(7)~Ⅶ ペルシャの扁壺

Ⅵ 多様なハッチングのコーナーはエッチング(版画)が数点の小さなコーナーなので、すっ飛ばします。アンティークなペルシャの扁壺、つまり、方形の壺は、モランディの静物画によく登場するといいます。実物はペルシャ語の黒い銘文が書き込まれていたということですが、モランディは規則的で簡潔な四角形の幾何学的形態に単純化して描いていると説明されていました。
Morandi1941_2  1941年制作の「静物」です。その扁壺は画面前方左端の黄色く着色された下が長方形で上に首のついた壺です。ちょうど右側に並んでいる四角形の箱などと扁壺の下部の方形の部分が揃っていて、それらで矩形を構成しています。扁壺の首と隣の瓶の首の部分は、建築に喩えるとビルと、そこから屹立している煙突のようです。横に広がる矩形と縦に延びる首が水平と垂直の対照になっていて、画面構成では均衡した秩序を作り出しています。そこに、全体がくすんだ鈍い色調のなかで、扁壺の黄色がアクセントを与えています。
 1956年制作の「静物」です。こちらは、8個の物体が矩形に並べられていて、それを真正面からみて、四角形で構成されたような画面になっています。まるでデザインのようです。
 このように見てきて、私の個人的、主観的な感想として、モランディの制作する画面は一貫した方向性で、年齢を重ねるに従って、余計な要素を削ぎ落とすようにして洗練していき、その方向性を純化させていったように見えます。そして、私には、その方向性というのが、マイナスの志向があるように見えるのです。減点を重ねていって行き着いたという感じで、そこに加点の要素が見えてこないのです。この感想を述べる最初のところで、この展覧会について“それを並べられた作品を続けてみていくと、その画家のあれこれの試みを追体験していくことができるわけです。「こんなもの入れちゃうの?」とか「あっちからも見ている」とか呟いていく、今までない絵を見る遊びをすることができた”と書きましたが、モランディ本人は、それを果たして楽しんだのか、それが分からないのです。私が、ここで、展示されている作品を見ている限り、その痕跡を見つけることはできませんでした。展覧会の展示作品の鑑賞を進めていくうちに、最初はそうでもなかったのですが、だんだん進んでいくにつれて、モランディの作品の余裕のなさというのか、あそびの要素が見えないのが気になりだして、ちょっとした息が詰まるような感覚に囚われるような気がしました。逆に、そうであるからこそ、瞑想的とか哲学的とか、真面目に捉えられて、一部の芸術家とか文化人といった意識が高いと自認している人々に高い評価を受けたのではないか、と思ったりしました。モランディ本人は真面目で真摯なのでしょうけれど、そういうゲームとかあそびの要素があってもよさそうなはずなのに、そこに感じられるのは、真面目とか瞑想的とか、目で見えるもの以上のものを描いたとか、そういうことなのです。
Morandi1956  だから、というわけではないのですが、モランディが“ある”ものではなく“あるかもしれない”という可能性を描く対象としたというのについて、その理由とか目的を考えてみると、前向きに見えてこずに、むしろ、“ある”ものを描くことを放棄したがゆえに、そうでないものとして“あるかもしれない”に行き着いた、という気がしてくるのです。最初のところで、スルバランの作品と比べて、スルバランのボデコンの強さにはファナティックになってしまう危険があるが、モランディにはそれがないという印象も述べましたが、スルバランはポジティブだからこそ、暴走する危険も兼ね備えてしまっているといえるわけで、モランディには、そういうところがないのです。それが、独特の静謐さとか落ち着きの印象を見る者に与えるのでしょう。そこには、諦念のようなものがあったからこそ、なのではないか。私の主観的な思いから、あえていうと、諦念よりもっと進んで、絶望が秘められているのでないか。それが、モランディの作品全体の色調として暗いのは、底流に絶望があるのではないかと、思ったりしました。それは、彼の生きた時代とか、彼の個人の人生とか、伝記的なエピソードには興味がないので、詮索するつもりは全くなくて、そのような外的な事実が在ったとしても、なかったとしても、彼が切望していたとか、そのこと自体と何の関係もありません。それは、展示されている作品の表層から、そのようなことを私が感じたということ、それだけです。
 私にも、そういうところがあるので自戒しているのですが、モランディの作品については、作品に描かれているもの、そのものを見るということではなくて、それ以外のものを持ち込んで、画面そのものを蔑ろにしてしまうようなスノビズムにとって扱いやすいところがあるように見えます。モランディの作品に対する評価が必ずしも、それが大きいとは言えませんが、そこに見る楽しみとは違うところで持て囃されているような感じがしました。それは、絵画を見て、このように感想を綴って、その綴ったものを他人の目に触れさせている私自身にとっても、自戒を強く促される気がしました。
 このあと、風景画や花を描いた静物画の展示がありましたが、概してオマケのようなものだったので、とくに感想を述べることもないと思います。

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