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2016年6月20日 (月)

カラヴァッジョ展(3)~Ⅱ.風俗画:五感

この展示コーナーについて、その意図を解説の説明から引用してみましょう。“対象に近づき自然主義的に描く、劇的なほどに感覚に訴える見せ方によって、カラヴァッジョの絵画は同時代人の視覚に極めて強い刺激を与えた。この若き画家は類稀な観察眼と、劇的な光のもとに置かれた対象を写実的に描く抜きん出た能力を持ち、絵画史に革新をもたらしたばかりでなく、様々な作品において五感の象徴性とつよく結びついたテーマを描いて、注文者を驚かせた。古典的な五感の図像そのものを表わす主題を用いることはなかったとはいえ、カラヴァッジョが知覚というテーマに関して非常に敏感であったことは明らかであり、そして認識論的な観点よりも感覚的な観点においてそうだった。一方、概してイタリア絵画では、五感のような寓意的含意を内包する絵画的主題をとりわけ好んでは扱ってこなかったことは、述べておく必要がある。”ということで、ここでは五感の隠喩があるとみなされる作品が列挙されているということです。ただし、ここで、それがカラヴァッジョの絵画において、どのような意味があるのか、価値をもたらしているのか、とか、どうしてカラヴァッジョはこのようなことをしたのか、は分かりません。
Caravaggio2016tokage  カラヴァッジョの「トカゲに噛まれる少年」という作品です。作品解説の説明では、“「トカゲに噛まれる少年」は触覚を示唆すると考えられ、(中略)、トカゲに噛みつかれたことによる身体的な痛みの表現は、各別にドラマティックである。美しい顔はゆがめられ苦々しい表象となり、かみつかれた指先からもつれた髪の毛まで、画面全体が少年を狼狽させる激しい衝撃を伝える。劇的な光の使い方によって一瞬の動きが強調され、花瓶の中で光を反射させる水面ですら、この衝撃に巻き込まれている。その一方、乱れたシャツや耳の後ろの花は、おそらくエロティックな逢瀬が予定されていることを暗示し、淡い官能に浸った瞬間を台無しにする。予期せぬ出来事という着想をほのめかしている。これはほとんど「愛のドラマの暗喩」なのである。”ということです。一般的には、そういうことなのでしょう。ただ、私が、ここで、いつも展覧会や作品の感想を述べているのに際しては、私がそれらを見た際の、自分のストーリーを捏造して綴っているので、そのストーリーには、上記の説明はそぐわないので、勝手に独断と偏見のストーリーを綴ります。これは、史実とか解釈とかいったものとは別物なので、これを読んでいただいて方は、そのようなものとして繭に唾をつけつつ読んでいただければ幸いです。
 前のコーナーのところで「女占い師」という作品について、この作品には背景が描かれていなくて、客観的に空間とか場面を構築するというよりは、二人の人物に焦点をあてて主観的にコミットするような画面になっていると述べました。そして、主観的に人物に焦点を当てるということは、映画のクローズアップのように人物に視点を寄せていくことになる、それによって、人物の表情が大きな役割を果たすことになります。「女占い師」では、その女占い師のあざといとも言える表情は、それ以前のルネサンスの画家の描いた作品の人物のような静謐で穏やかな表情とは全く異なるものとなっていた、ということです。そのような見方で、この「トカゲに噛まれる少年」を見てみると、トカゲに噛まれて痛さに顔を歪めるとか、驚くといった表情は、それ以前では絵画の様式として画面の中心で描かれるようなことはなかったと思います。カラヴァッジョはそこで、新たな表情に挑戦する必要があった。それは、主観的に観る者にコミットしてもらうような画面をつくるためには、喜怒哀楽のリアルさを観る者に感じさせ、感情移入させることが必要だからです。人間というものは、表情をコミュニケーションに活用しています。痛いときにそのような表情をすれば、他人は痛がっていることを理解してくれます。さらにいえば、痛そうな表情をしてさえいれば、たとえその原因であるはずの苦痛がなくても、他人は痛がっていると誤解してくれます。嘘をつくとは、そのようなことでしょう。カラヴァッジョの絵画では、そのような効果を観る者に生じさせることで、共感を喚起させるという性格があると思います。そのために、観る者を騙すことができる画面を作る必要があるというわけです。この「トカゲに噛まれる少年」という作品は、そのような位置づけで、カラヴァッジョが苦痛を観る者に想い起こさせる表情の表現をつくり上げていこうとした作品と、見ることもできるのではないか、むしろ、私は、そのように見ました。
Caravaggio2016tokage2_2  この「トカゲに噛まれる少年」という作品は、キマっていないというのが率直な第一印象なのです。並べて展示されていた、カラヴァッジョスキの一人の「カニに指を挟まれる少年」がカラヴァッジョに比べて下手なのですが、それなりに安定した印象を受けるのに、なぜと思うのです。それは、ひとつには痛そうな表情を描くというパターンをカラヴァッジョが試行錯誤しているさまが見て取れるということがあると思います。それと、もう一点、「カニに指を挟まれる少年」が安定している印象と述べましたが、それは、それほど心動かされる、つまり衝撃を受けることなく、作品を見ていることができるということでもあります。つまり、カニに挟まれて痛そうと感情移入させられることなく、その場面をニヤニヤしながら、突き放して見ていることができるのです。しかし、それでは観る者が感情移入していないわけです。そこにとどまっていれば、カラヴァッジョの作品にあるような観る者を引きずり込み共感させてしまうことにはなりません。そのためには、単に痛そうな表情を上手に写したというだけでは不十分なのです。カラヴァッジョの「トカゲに噛まれる少年」は、そのための試みをしているため、画面がチグハグなものになっていると思うのです。例えば、画面右手前のガラスの花瓶と、それにさしたバラの花は精緻にはっきりと描かれているのに対して、少年の描き方は大雑把で、描きこみ方が違います。そして、少年のポーズは大袈裟すぎるところがあり、顔と身体の位置とかねじり方が不自然な感じで、バランスが悪い印象です。例えば、手前の肩が張り出して顔を隠すようにしている首のねじり方などは、現実にはありえないのではないかというほど極端です。顔の描き方にしても、左右のバランスが取れていないで、この角度であれば右側はもっと小さくなるのではないかと思います。それは、カラヴァッジョという画家のデッサン力という技量が原因しているのかも知れませんが、それだけではなくて、敢えて意図的に描いているのではないかと思います。それは、造形的には歪んでいるのかもしれませんが、そのように描くことによって動きを生み出そうとしているのではないか、と思うからです。そういう形態をわざと歪ませて、描かれたものにダイナミックな動きを与えることについては、日本のマンガによく見られるデフォルメ手法です。参考に、大友克洋の「アキラ」の一場面をみていただくと、ここでのバイクの前輪と後輪の関係が歪んでいるようですが、このことが却って、急発進で運転者にG(重圧)がかかってくることかせリアルに伝わってくるのです。同じように、表情というのは、実際には一瞬たりとも静止しているのではなく、絶えず動きます。だから、その一瞬を静止させ精緻に描いても、そこに迫真的なリアルを感じさせることは難しいのではないかと思います。それよりも、動いていることを観る者に想像させるようにする、そのためにカラヴァッジョは敢えて人物を歪んで描いているのではないかと思うのです。そしてさらに、左手前の花瓶とバラの花を静止したものとして精緻にはっきりと描くことで、静止した静物と動く人物の表情を対照的に描いているように思うのです。そのことで、人物の動いている感じが強調されて見えてくることになるわけです。
Caravaggio2016ohtomo  「トカゲに噛まれる少年」についての記述が長くなってしまいました。ここでは、これ以上展開しませんが、表情とは日本人の感覚にすれば陰影に繋がります。陰影、つまり光と影です。カラヴァッジョの大きな特徴とされている光と影の表現は、このようなことから出てきたのではないか。ひとつの試論です。おっと、結論を急ぎすぎました。このことについては、後で、別の、もっと光と影のドラマが感動的な作品についてのところで述べていきたいと思います。
 カラヴァッジョの次の作品「ナルキッソス」を見ていきましょう。この作品は以前に庭園美術館でのカラヴァッジョ展でも見ましたし、その感想を別のところで書きました。今回は、展示の中での作品の位置づけが異なるようなので、その用に見ていくと、印象が異なってくるかもしれません。
Caravaggionarciso  ギリシャ神話のなかのナルキッソスのエピソードは、オウィディウスの『変身物語』で詩的な表現を与えられ、ナルキッソスを題材として取り上げた画家たちは、『変身物語』の記述に基づいて描いています。カラヴァッジョも例外ではありません。ここで描かれている場面について、解説では次のような解釈が説明されています。“画家が主題に選んだのはこの物語で最もドラマチックな場面、すなわち、若い狩人が水面にうつった自分の姿に抗しがたいほど魅せられ、口づけと抱擁を交わすために水面に体を近づける場面ではないだろろうか。細心の注意を払って描かれた青年の唇は、一見して明らかなように虚像に口づけするため半開きのままわずかに前に突き出している。また左手が水に触れているのは、彼が虚像を抱き寄せようとしているからにほかならない。本作は長きにわたって、のどの渇きを癒すために身をかがめたナルキッソスが自分の虚像を見つけて恋に落ちた場面を表わしているとされてきたが、実際は水面に近づき虚像に口づけと抱擁を交わそうとする、よりいっそう込み入った場面で表わされているのである。カラヴァッジョはここでナルキッソスの物語をたんに「語る」のではなく、最も情熱的かつ官能的な瞬間、すなわち自分の虚像を我が物にしたいという欲望が絶頂に達した瞬間─これはまた絵画として表現するのが最も難しい瞬間でもある─を描くことで鑑賞者の感情に強く訴えようとしている。”こうなると、神話の牧歌的な挿話におさまりきらない、狂おしいほどのドラマがそこにあるということでしょうか。
 私自身も、たしかに、以前の庭園美術館でのカラヴァッジョ展で「ナルキッソス」を見たときに、内面のドラマを感じて、そのことを感想として綴っていました。とは言っても、引用した説明は過剰ではないかと思います。以前の感想にも書きましたが、心理学などでつかうナルシシズムとか、鏡像段階による自己認識の概念を援用できるだのといったことを試みたくなるような画面が構成されていることはたしかではあると思います。他の多くの画家たちのような物語内容を暗示するモチーフ、例えば森の情景とか、ナルキッソスに恋焦がれるニンフのエコーや、猟師であるナルキッソスを象徴するような弓矢や猟犬、を描き入れることなく、泉に向かってかがんでいる青年の姿だけを捉え、その実像の姿と泉の水面に移った虚像を水面を境界として上下対称に、まるでトランプの絵札の図柄のように図案化させ、しかも、上下の像で着ている服についてはポジとネガのように光と影を逆にした色の使い方をして、実と虚の対称を明確に出したりと奇抜な構図で描かれているところはあります。それで、あれこれと尾鰭をつけて、語りたくなってしまうのでしょう。
 前置きが長くなってしまいました。私としては、この「ナルキッソス」がそのような解釈が加わってくるということは、この作品自体に、解釈の余地を生じさせる一種の弱さがある証拠ではないかと思っています。とどのつまりは、作品自体としては、その評判に比肩するほどのものではないのではないか、と思います。カラヴァッジョの作品として見ると中途半端なのです。たしかに、構図は奇抜で、カラヴァッジョの作品の中でも、図案のような構図の作品は他になく異彩を放っていますが、それは、いつものパターンの構図で描くことができなかったからと考えることもできるのではないでしょうか。つまり、このような抽象的、ということは客観的に構図ではなくて、観る者をコミットさせて、しまいには共感とか感情移入させてしまうことが、この題材では構想できなかったのではないか。かといって、客観的な他人事のような作品にはしたくない、それでやむなく奇抜な構図をとることになったという具合です。
 それは、構図だけでなくナルキッソスの表情が描ききれていないように見える点にもあります。いままで見てきた作品では表情が観る者を画面に引き込む重要な魅力のひとつでしたが、その表情が、この作品では、はっきりしません。また、画面の中のナルキッソスの姿勢は、かなり無理をしている姿勢ですが、その姿勢に動きが感じ取れないで、ポーズをとっているように見えてしまっています。だから、わたしには、この「ナルキッソス」は最初に見た風俗画などの人物を近い距離感で描くという画面から、後の宗教画などのような画面に見る人を引き込むような主観的な視線の構図への過渡期を示す作品なのではないか、思えるのです。
Caravaggio2016hokusai  水面に映る虚像と実像の対照を図式的に扱い、虚と実を巧みに扱った作品であれば、葛飾北斎の富嶽三十六景から「甲州三坂水面」という作品があります。河口湖に映る富士が水面を境界に線対称ではなく点対称の姿で、しかも実景は夏富士で、水面には冠雪した冬の姿が映っています。これは空間だけでなく、時間軸においても季節を対称させているという、対称をいくつも重ねた機知を働かせた構図を愉しむことができます。こうなってしまうと、実像と虚像の境目はどうでもよくなり、実像と虚像とが対称して、互いに関係しあうことによって相対的に存在しているかのように見えてきます。夢うつつなどといいますが、それぞれが独立しているとか、現実があって、夢がそこにぶら下がって存在しているなどというのではなく、それぞれがもたれあうように、しかも、両者の境界も曖昧で、というような深読みの解釈も現代では可能と言えます。この作品の場合、視点は客観的な体裁をとっていて、画者が描かれている世界に属していないから、このように突き放して世界を相対的に見ることが可能となるわけです。ここには、描く対象を突き放した距離感があります。
Caravaggioparu  これに対して、カラヴァッジョの「ナルキッソス」は北斎の遠景を突き放して描いたのとは対照的に、ナルキッソスに視点を近接させて、つまり距離をおくことをしないで描いています。このため北斎のように構図の効果を最大限に活用して画面にユニークな世界を展開させることにはなっていません。つまり、せっかくの奇抜な構図を活かしきれていないと思います。むしろ、「ナルキッソス」の場合は、北斎のように遊戯的に構図を扱う意図はもっておらず、画面いっぱいに彼の姿を描いていることで、水面に映る姿を見入るナルキッソスに寄っていきたかったのではないかと、私は思います。そうであれば、水面に映る姿を実像と同じように描く必要が、どこにあったのかという疑問が残ります。私には、ナルキッソスが水面という鏡を通して自分の姿を見ている姿を描いているようにみえます。それは画家が自画像を描くことのシンボライズのようにも見えます。もし、この作品を90度回転させてみたら、水面を見る姿から立てたキャンバスに向かう姿のように見えてこないでしょうか。カラヴァッジョは作品の存在をしていたか分かりませんが、パルミジャニーノの「凸面鏡の自画像」というマニエリスム絵画の作品があります。これは画家が鏡に映っている自分を描いているという自画像ですが、いかにもマニエリスムらしい凝った趣向ですが、それを一般の人が見ても共感を呼ぶということにはならないでしょう。カラヴァッジョは北斎のような距離を置くことによる構図の遊びでもなく、パルミジャニーノの鏡面を主観的に見るという趣向の遊びでもなく、この両者の間で、観る者がコミットメントできるような描き方を探して試行錯誤して、この作品のような中途半端なものとなったのではないかと思います。カラヴァッジョの、この作品は水面を鏡に見立て、人か自分の姿を見る、自己認識するというプロセスに、作品を観る人々を巻き込もうとした作品、しかし、十分に目的を達成するに至らなかった作品として見ることができるのではないかと思います。

 

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