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2016年6月19日 (日)

カラヴァッジョ展(2)~Ⅰ.風俗画:占い、酒場、音楽

Caravaggio2016uranai1 カラヴァッジョの作品で最初にお目にかかるのは「女占い師(ジプシー女)」という作品です。主催者のあいさつに説明されているようなカラヴァッジョの特徴は、それほど明確に表われているとは見えません。光と影の巨匠にしては、それほど画面が暗くない印象です。後年の教会の壁面を飾るような宗教画ではなく、いわゆる世俗画ということになるでしょう。とはいっても、宗教的な教訓が含まれているようなのですが、それは他の人のブログや記事で書かれているでしょうから、そちらをご覧ください。
 実際の作品を観ていくと、奇妙な(特徴的な)ところに気づきます。その第一は、色が鈍く、あたかも汚れてしまっているようにみえることがあるという点です。これは、私の錯覚かもしれず、また、独りよがりかもしれません。先回りするようですが、ここで展示されているカラヴァッジョの作品を通してみると、カラヴァッジョの作品は、前面真っ黒で一部分に穴のような空白があって、そこに光が当たっているように見えるとか、全体に汚れてくすんだ画面になっているとか、この作品の色彩がもっとも鮮やかな部類に入ると思われるほどです。実際に、少し前のルネサンスの画家たちの明朗で、透明感のある色彩と比べると、鈍重でうす汚れた印象を受けます。これには、何かわけがあるのでしょうが、私には見当がつきません。この点については、別のところでお話したいと思います。
 そして、第二の奇妙な(特徴的な)ところは、背景がないということです。この作品では、二人の人物の背後は土壁のようになっていると見えなくもありませんが、確かなところは分かりません。つまり、この作品では2人の人物だけが登場し、その二人の動きと表情が前面に、あるいは全面に見えているといえます。そこで、言えることは、この作品において二人の人物しか描かれていないということです。なんか、同じようなことを繰り返して喋っているようですが。二人の人物が、どこにいるのかという空間が描かれていないということです。少しくどい言い方になりますが、この作品に画面には、ある空間、つまり場面があって、そこに(その空間に)二人の人物がいて、その二人の人物が何かしているといように描かれているのではなくて、ダイレクトに二人の人物だけが描かれているということです。二人の人物が、このような空間にいるという場面の客観的な面が省略されているということです。どういうことかというと、場面を描くということは、二人の人物のいる周囲をふくめて広く見ないといけない。そのためには、視点を二人から少し引いて遠目に見なければならないことになります。映画でいえばロングショットです。つまり遠景です。遠目に引いて見ることを突き詰めていけば鳥瞰的になり、最終的には神さまの視点に近づいていくことになるでしょう。そのような視点で背景が入った空間をきちんと描くことを試みたのが遠近法であり、その遠近法を駆使し洗練させていったルネサンスの画家だったといえると思います。しかし、この作品では、その空間を描くことを省略してしまっているように見えます。従って、私には、この作品はネルサンスの画家たちが追求していた客観的な視点に立っていないように見えるのです。では、この作品が客観的な視点に立っていないとすれば・・・、そうです、全面的には言い切れないでしょうが、主観的な視点に立とうとしていると、わたしには思えます。背景を省略しているということは、映画でいえばクローズアップです。人がものを見るとき、特に何かに注目する時、そのものに集中して、余計な情報を切り捨ててしまいます。そこでは、見ているようで見ていない。この作品では、背景を画家は見ているかもしれないが、目に入っていないのです。映画のクローズアップでは、背景とか空間は見えなくしてしまいますが、クローズアップした人物の表情はよく分かります。これに対して、ロングショットでは人物の表情までは細かく分かりません。その代わりに、画面全体の構成とか人物の配置とか、人物がどのようなポーズをとっているか、人物以外にどのようなものを画面に入れるかといった全体の設計で、表わすということになると思います。だから、スケッチを何枚も描いて、下絵の段階で画面がキッチリとキマるように作ることになるわけで、そのためには精確なデッサンが必要不可欠になるということでしょうか。例えば、映画ではロングショットの場面を中心とした作品では、人物の表情は見えてこないため、人のアクションとか、大きな動きが中心となって進みます。これに対して、テレビのドラマでは、映画のような大画面ができないため、小さい画面の限られた情報量でドラマを進めるためには、小さな枠にちょうど入るような人の顔や上半身が中心で進むため、顔の表情を映すことが多くなって、人の動きよりも表情の移り変わりを主に映し出すようになります。その場合、映画とテレビの違いということがよく言われますが、映画の場合は作品の完成度ということがいわれるのに対して、テレビの場合には見る人がコミットする共感といったことが言われる傾向にあります。それは、映し出される画面がクローズアップ中心で、見たいところに焦点を合わせて、それ以外のところは省略することになる主観的に近い画面になっているのが、ひとつの原因と考えられるからです。
 それと同じことが、この作品にも言えるのではないでしょうか。そして、この作品で描かれている二人の人物、とくに左側の女占い師のちょっとあざとく見えてしまうほど、わざとらしく描かれている表情は、ルネサンスの画家は、これほどまでには極端に表情を描かなかったのに対して、敢えて描き込んでいると言えるのではないでしょうか。カラヴァッジョのこの作品では、そうすることで、表情が画面にドラマを作り出しているように見えます。
 この理由を少し考えてみましょう。それには、この作品が制作された1600年ごろの時代を考える必要があります。ひとつの契機として考えられるのは16世紀はじめにルターによって端緒が開かれた宗教改革の影響です。ルターによって始まり、各指導者によって様々な宗派が生まれましたがプロテスタントと一括された新しい主張する人々は、「神は人間一人一人と契約するのであって個人が直接接触する事が出来る。」という聖書の言葉に基づき、個人個人が直接神に向き合って信仰することを求めました。これは、カトリックの教会によって遣わされた神父を通じて神にという、神⇒神父⇒集団(一般大衆)という、集団ありきの組織的な信仰の筋道を批判したといえます。カトリックの、このような組織的なものでは、個人の内面より、集団の中での個人ということで進行は外形的なものに、例えば儀式への参加とか勤行とか外面的な行為に偏ることになります。これを批判したプロテスタントは集団ではなく、あくまでも個人を立脚点とした組織統合を目指し、これを根拠に個人個人の優劣も肯定しました。その結果、聖書中心主義や内面的な信仰という主張が自ら神と自己の内的な関係を結ぶという点を強調し、主体的な人間という西欧の個人主義の基礎を作り上げていくことになったのではないかと言えるわけです。この影響は、プロテスタントのみに留まらず、カトリックの側にも、似たような動きが生まれます。それが極端に進むと異端として断罪されてしまう人々も現われたというわけです。
 Caravaggio2016uranai2 歴史的には、カラヴァッジョが生まれたロンバルディア地方では、当時「新しい敬虔」という動きがあったそうです。それは、当時の聖職者たちの堕落を悲観し、過度ないしは頽廃に陥った知性重視の思弁主義的神秘思想、エリート向けの宗教に直面して無気力状態に陥っていた状況を批判し、反思弁的で反修道会的な反動を掲げた宗教運動と言われています。その運動が打ち出したのが、主観的で情緒的な瞑想の実践、「心の祈禱」という教会の典礼という儀式に頼るのではなく、自宅や志を同じくする同志との共同生活で体系化された瞑想や祈りを行なうほうが、神との神秘的合一に到達できるという主張です。これでは、プロテスタントの姿勢とどこが違うのかと言いたくなります。少なくとも、カラヴァッジョの耳にも、このような主張は聞こえていただろうし、周囲には、そのような空気が漂っていたことは否定できないと思います。
 そのときに、この作品に限るわけではありませんが、作品の視点として客観的なものから、主観的なものの萌芽があったのではないかと思われるのです。この「女占い師」という作品にも、それが現われていると思います。それが、カラヴァッジョの作品の特徴を生み出す要因の一つになっているのではないか、と私には思えます。
Vallootnpoker2  この展覧会では、カラヴァッジョニスタというカラヴァッジョのフォロワーたちの作品も並べて展示されていました。シモン・ヴーエの「女占い師」という作品です。カラヴァッジョと同じ主題で、似たような画面になっていますが、この作品は、それほどでもありませんが、カラヴァッジョとカラヴァッジョニスタとを画するのは、ひとつには技量の差であることが分かります。カラヴァッジョのレベルで見ると、カラヴァッジョニスタの作品は描けていないのです。この作品では、二人の女性が男性のカモを騙そうとしていますが、表情がカラヴァッジョに比べると描けていません。表情が語りかけてこないのです。そのため、背景を省略して、人物に視線を集めても、その人物が観る者を引き付けてくれないのです。だから、作品を観る者は、画面にコミットできないので、共感といったような感情的な反応に至らないのです。似たような作品であれば、むしろラ=トゥールの「いかさま師」(展示作品ではありません)の方が、デフォルメがきついのでカラヴァッジョの画風とは言えないでしょうか、その表情のあざとさは雄弁で、カラヴァッジョの「女占い師」に近い印象を持つことができるのではないかと思います。
 カラヴァッジョと同時代の医師で、画家と面識もあったとされるマンチーニは、この作品を描いた当時のカラヴァッジョの生活や作品の意義について証言を残しているそうです。それによれば、当時のカラヴァッジョは、ローマで天涯孤独で困窮した生活をおくり、画家の工房で作品の一部の頭部や半身像などを描く賃仕事で糊口をしのいでいたそうです。このような、実際のモデルに基づいて少数の「頭部」や「半身像」をクローズアップで描くという仕事を通じて、カラヴァッジョは自身の手法としていったことが分かります、マンチーニは次のように書いています。“カラヴァッジョが単身像や頭部、そして彩色によって、偉大な成果をもたらしたということ、さらに、今世紀の職業が、彼に多くを負っていることは否定できない。”マンチーニの言う「彩色」は、当時の現実のモデルや自然の事物を再現するということのために用いられていた意味があるといいます。それは、マンチーニがカラヴァッジョの作品のなかで最も高く評価したのは、聖堂に設置された大型の歴史画ではなく、まさにこの「女占い師」だったからです。このことは、逆にカラヴァッジョを批判した保守的な画家が、この作品に対して欠点として指摘した言から知ることが出来ると思います。その典型がバリオーネという画家の次のような証言です。“彼が絵画を破壊したのだと考える者もいる。というのは、多くの若者たちがカラヴァッジョの例に倣い、実際のモデルからひとつの頭部を写生することにかまけ、素描の基本や芸術の奥義を学ぶことをせず、ただ彩色だけに満足しているからである。そのため彼らは、二つの人物像を一緒に配置することもできなければ、歴史画を組み立てることも全くできない、かくも高貴な芸術の美点を理解していないがゆえに”、つまり、事物の表層を模倣する表面的な「彩色」ばかりを追い求めていては、彩色と対をなし、それに先行すべき「素描」、つまり精神の中にイメージを形成し、それを表現するという芸術の奥義の探求が疎かになってしまう。このバリオーネの言説の後半は、いままで述べてきたことに通じると思いますが、前半の彩色に関することは、私も感じていることでもあるので、別の作品のところで私なりの位置づけと説明を試みたいと思っています。

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