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2016年6月26日 (日)

カラヴァッジョ展(8)~Ⅶ.聖母と聖人のための新たな図像

Caravaggiomaria 今回のカラヴァッジョ展で大きな話題となっている「法悦のマクダラのマリア」です。この作品は、以前に庭園美術館のカラヴァッジョ展においてもカラヴァッジョに帰属として展示されていたと覚えています。その時の感想はこちらに残しています。これから述べていくことは、そこで書かれていることと重複する内容となるかもしれませんが、同じ人が、同じ作品に対して、根本的な趣向性の転換でもない限り、違った印象を抱くことはないと思いますので、ある程度はお許しいただきたいと思います。ただし、全く同じであれば、ここで書く必要もないと思いますので、多少の変化はあると思います。
 今回は、同じ題材を他の画家が手がけた作品が並んで展示されていたのと、比べて見たことにより、カラヴァッジョの作品の特徴が改めて見えてきましたので、その点を中心に述べていきたいと思います。ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエリエーリの「悔悛のマグダラのマリア」と見比べてみましょう。カラヴァッジョの特徴として光と影のドラマということを散々述べてきましたが、光と影の対比が映えているという点で見れば、カラヴァッジョの「法悦のマクダラのマリア」よりも、むしろこちらのグエリエーリの「悔悛のマグダラのマリア」の方が目立ちます。画面左下から、つまり、俯くマグダラのマリアに向けて正面から光が当てられ、暗闇の中で、マリアの顔を中心とした正面が光り輝く、と描かれています。神々しさでは、カラヴァッジョの作品より、こちらの作品の方が印象が強いと思います。マリアの描き方についても、艶やか肌に豊かな金髪が流れるようで、そこに光が当たり光っています。顔の彫りは深く、ギリシャ彫刻の女神像のようです。そして、腕を交差して祈るように俯いているさまは、天使か聖人といった輝かさがあります。作者のグエリエーリはカラヴァッジョの手法を活用して輝かしい効果を生んでいると言えると思います。
 Caravaggio2016maria これに比べてカラヴァッジョの「法悦のマクダラのマリア」はどうでしょうか。グエリエーリと同じように光と影の効果が使われていて、暗闇の中でマリアの姿が浮かび上がっています。しかし、グエリエーリの作品にあるような輝かしさは、ここにありません。マリアの姿は闇の中から浮かび上がる程度で、光り輝いてはいません。いやむしろ、髪の毛などは闇にとけ込んで見えなくなってしまっているかのようです。それは、闇にとり込まれてしまいそうな雰囲気すら漂っています。それはまた、マリアの顔に精気が見えず、顔から首そして胸元まで露出している肌が土気色で、死体と区別できません。顔を見れば白目を剥いて、口は半開きになって締りがありません。そのマリアに対して、下の顎の方から見上げるように光が当てられ、下顎などの顔の下半分ははっきり見えますが、表情のポイントとなる目やその周辺がある上半分は影になって(暗闇に紛れて)しまっています。それだけに、明確に表情が読み取れず、しかも、半開きの口が目立ち、呆けているのか、意識がないのか、という感じがします。この画面にいる女性は、聖人には見えません。少なくとも、グエリエーリの作品を見れば、とくに説明されるまでもなく、マグダラのマリアとは気がつかなくても、聖なる人であることは、すぐに分かります。これに対して、カラヴァッジョの作品では、黙って見せられれば、到底、宗教画には見えません。このように、私が書き進めているのを読まれている方は、カラヴァッジョとグエリエーリを比べて、カラヴァッジョよりは、グエリエーリを称揚しているように思われるでしょう。
Caravaggio2016maria2  それについては、カラヴァッジョは、敢えてマグダラのマリアを、このように描いたはずで、グエリエーリのように描くこともできたのに、意識的にそうはせず、この作品を描いたのでしょう。そのことを考えてみたいと思います。その理由のひとつは、マグダラのマリアがもともと娼婦であったということから、リアルな描き方を追求しているカラヴァッジョとしては、リアルな娼婦を描く必要があったという考え方です。しかし、それはマリアの服装とか装身具とか小道具で表現することが可能です。顔色に精気がないのはリアルな娼婦を描くこととは一致しません。同時に展示されていた、アルミテジア・ジェンティレスキの「悔悛のマクダラのマリア」は、意識をなくしているように横たわった姿で描かれていますが、こちらは官能的であるほど艶々した肌で描かれています。しかし、カラヴァッジョはそうしません。むしろ、マグダラのマリアを題材とした作品が他にも多く描かれている中で、カラヴァッジョの描く作品は異彩を放っていると言えると思います。それは、どうしてなのか。私、個人の偏見による見解ですが、そもそもマグダラのマリアという題材は、イエスの死と復活を見届ける証人であったとともに、ローマ・カトリック教会では「悔悛した罪の女」として位置付けられたものです。福音書の記述では、七つの悪霊をイエスに追い出していただき、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたこと、復活したイエスに最初に立ち会い、復活の訪れを使徒たちに告げ知らされるために遣わされた。そのため、イエスの受難や復活を扱った絵画ではイエスのもとに描かれます。そしてまた、ローマ・カトリック教会では、彼女は金持ちの出身で、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに会い、悔悛したという。「悔悛した罪の女」ということから娼婦であったと解釈されているケースもあるといいます。カラヴァッジョは、その娼婦が悔悛したという点に注目して、これを突き詰めたのではないでしょうか。つまり、この作品の中にいるのは娼婦という罪深い人間です。いくら悔悛したと言っても、外見が変わってしまうわけではありません。マグダラのマリアが悔悛したのは、本人の問題で、それを傍から見ても、本人ではないので、娼婦以外の何ものでもありません。それをまず、キッチリ描いた。しかし、娼婦でずっといたのを、簡単に悔悛できるものではないでしょう。それは、今までの自分の行き方を否定することでもあるはずです。普通に過ごしていれば、そのようなことは考えもしないし、やらない。だから尋常ではないのです。それこそ、生まれ変わるようなことではないかと思います。悔悛などと言葉にするのは簡単ですが、これまでの自分を否定するということは、以前の自分を殺してしまうことと同じで、これまでの自分の死とそこから生まれ変わる、つまり再生ということ。これは、イエスがいちど、磔になって死んだあと、復活することとパラレルと見ることもできるのではないか。カラヴァッジョはピエタの画面を視野に入れながら、マグダラのマリアの画面を考えたのではないかと思うのです。そして、マリアの呆けたような顔の表情を法悦として、ここに生死の境目にいる脱自的な状態、ある意味では仮死状態のようなものです、で描いている。つまり、悔悛し、まさにマグダラのマリアが法悦状態にあって、今までの自分が死んで、新たに再生しようしている瞬間を、一人の娼婦の現実の姿として描いたのではないか、と思うのです。それは、作品を見る人にとっては、現実のこととして迫ってこられることになります。敏感な人であれば、のうのうと作品を眺めている自身に対して、マグダラのマリアですら、このようなのだから、「オマエの信仰はどうなのだ」と真摯な問いを突きつけられる、そのような衝撃を秘めた作品になっているのではないでしょうか。そこに、輝かしさといったものは必要ないと思います。むしろ邪魔になるのではないかと思います。
 これは、私の独断と偏見による見方なので、そのように受け取っていただきたいと思います。この展覧会では、私にとっては核心部は、この前の段階で、「果物籠を持つ少年」と「エマオの晩餐」が白眉で、これらを見ただけで満足でした。後の作品は、「法悦のマグダラのマリア」も含めてオマケというほど、私にとって格差は明白で圧倒的でした。

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