株主総会の実務をIRやコーポレートガバナンスの面から考える(4)~序の序 株式会社はどこから生まれてきたのか(4)
④許可制の制限された株式会社~エイジェンシィ・コストの認識
この当時は株式会社の設立には勅許が必要という許可制がとられ、この形態は一般に普及しませんでした。
当時の企業形態観としては浩瀚なアダム・スミスの『国富論』で展開されている議論が引き合いにされます。アダム・スミスは富の源泉を労働に求め、個人の利己心の自由な展開が「神の見えざる手」に導かれて社会的な利益や調和をもたらす、として「レッセ・フェール(自由放任主義)」による経済を主張し産業革命の理論的土台というべきものを提供したと言われています。そこで、アダム・スミスは、株式会社のように資本と経営とが分離している企業形態は効率が悪いと指摘します。
アダム・スミスは資本と経営が分離していない場合と、分離している場合を比較します。まず、資本経営が分離していないということは、自分の財産を使って事業をしているということです。これに対して資本と経営が分離しているということは、他人の財産を使って事業をしているということです。ここでいう財産を使って事業をしているということは、その財産を管理しているということに他なりません。この場合、資本と経営が分離していない場合の経営者は自分の財産を管理しているのに対して、資本と経営が分離している場合の経営者は他人の財産を管理している、ということになります。そこで、アダム・スミスは他人の財産を管理する経営者には、自分の財産を管理する場合と同様の慎重さを期待することはできない。そこには怠慢や浪費などといったものが付きまとうことになる、と言うのです。このことをもって、アダム・スミスは資本と経営が一体となった形態を効率的な企業形態であると結論付けているのです。このことは、後々説明しますが、現代の会社法において、取締役の注意義務が善管注意義務といって、他人から資金を出資してもらった企業の経営に際しての注意義務は自己の財産と同様の注意義務という最高の注意義務ではない、善良な管理者であればこの程度はやらなくてはならんいという程度の注意義務であること(とはいっても、善管注意義務は決して軽いものではありません)に考え方として繋がっていると考えられます。
さて、このような意味での資本と経営の分離による非効率は、現代においても「代理理論」と言う見方、簡単に言えば「経営者は株主の代理人ではあっても、結局は自分のために行動する」という捉え方です。つまり、資本と経営の分離と言う状態を、本人と代理人という関係に置き換えてみると、エイジェンシィ・コストが発生するのです。財産の所有者本人が自分自身で財産の管理を行なっている場合には、自分のもうけを最大にする行動をとりますが、代理人がそれを行う場合、代理人にとって、その財産は自分のものではなく、代理人は代理人で自分のもうけを最大化しようという欲求を持っています。それは、財産の所有者のもうけの最大化よりも優先されることになります。そこでしょうじる差がエイジェンシィ・コストです。アダム・スミスの言う怠慢や浪費も、このエイジェンシィ・コストに含まれます。そして、このような企業観は産業革命を経て19世紀にいたるまでの実情と適合するものでした。
ただし、アダム・スミスは、銀行、保険、運河、水道のような社会性が高く、巨額の資本を必要とする事業については、一般の商工業とは違って株式会社の形態が適当であると言っています。
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