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2016年7月28日 (木)

中原俊監督『櫻の園』の感想

51uofwhx4nl 原作は吉田秋生のまんがで、高校の文化祭で『櫻の園』を上演する高校生たちの人間模様を描いたもの。まんがでは、主な4人の登場人物がそれぞれ主人公となった4編の連作短編集で、4人の視点で、この文化祭の一日が語られます。これを映画化したものですが、原作の吉田秋生独自の世界とも言うべき微妙でセンシティブな世界を、例えば、ネームの微妙さ、ダイアローグとモノローグが複雑に絡み合い、ときに双方が一緒になってしまってどちらともいえない話者の心情が読者の前に披瀝されるというのは、内面のモノローグと会話を区別しなければならないなど映画ではおそらく実現不可能です。
 原作を一度でも読んだことのある人であれば、映像となったこと自体に戸惑いは必至で、それに輪をかけるように、最初のシーンは思わせぶりなクレーンを使った移動撮影の長回しなど、余計にしか見えなかったり、したがって印象は、やたらうるさい、喧しい、というものでした。演劇部の高校生たちというモブシーンを前面に出したかったからなのか、整理のしかたが下手なせいか。(下手でわざとらしい演技もその原因。)演劇部員をそれぞれ描き分けようという意図は推察できるのですが、ストーリーの中では意味のない人物を思わせぶりにクローズアップしたりと、中途半端と言うしかなく、そのため最初は、メインの出演者である中島ひろ子演ずる志水由布子や白鳥康代演じる倉田知世子(この映画での倉田はハッキリ言っておまけ)、そしてつみきみほの演じる杉山紀子がその他大勢の中に埋没してしまっていました。原作のように櫻の園の高校生群像を毎回一人の人間をピックアップさせつつ描くことは、この映画では失敗か放棄されていたようです。セットはチャチで、カメラのアングルも落ち着かず、最初の30分などは散漫で、何をやっているのだか。ただ女の子がワーワー騒いでいるのを、そのままフィルムに定着させましたとしかいえないものでした。
 しかし、中島演じる志水さんとつみき演じる杉山さんが同じ画面に登場するようになると、俄然停滞していた映像が動き出します。それは、誰もいない演劇部の部室で、白鳥演じる倉田さんの着る衣装を志水さんが抱き締めているところに、杉山さんが表からはいってきてしまうところ。志水さんが倉田さんに想いを寄せていることを、杉山さんに見つかってしまいます。これ以前の志水さんは、まるで糸の切れた凧のように、あっちへフラフラこっちへフラフラと、存在感が稀薄で、科白も自らを出すというのでなくて、受け身で便宜的な会話に終始していました。ところが、彼女は一線を踏み出したということでしょうか、このシーンで先に「御免なさい」と言った杉山さんをたしなめるということをします。そして、それ以降の彼女の行動には明確な意志が通りはじめるのです。進路指導室で、屋上でアップをする際、彼女は、杉山さんに自己を開け広げるかのように話しはじます。「私ね…」と。そして、人知れず部室で想う人の衣装を抱き締めるだけであった彼女が、本番前で緊張している想い人をあれこれと励ますことになります。こころなしか、ずっと俯き加減だった彼女の姿勢は、段々と胸を張り、まっすぐ前を向き始めるように変わって行きます。その意味で、クライマックスは彼女が倉田さんと二人で写真を撮るシーンです。ここで、はじめて志水さんは中島は隠すようだった表情を満面にあらわすのです。映像は写真を撮っているカメラとダブり、固定した画面に二人が近寄ってくるのです。普通の映画であればカメラが演技者に近寄るのですが、ここでは逆に演技者二人がカメラに近寄ってきます。二人がカメラに向かって「もっと近く…」と寄ってくる。二人のこちらへ近寄ってくる直線的な動き。二人がこちらに近付くにつれて、二人の距離が近寄ります。二人の顔が大きくアップになってくるにつれて、二人の顔がくっついていく、それに従って志水さんの表情がどんどん豊かになって生き生きとしてくる。(それに比べて、このときの倉田さんはずっと生気がなくて残念。)ごくありふれた、直線的で単純な動きだったのですが、私はカシャッとシャッターを押したところで映画が終わってもいいと思う。それくらい、このシーンでの志水さんはドラマチックでした。
 最初に、まんがの繊細な世界を映像で再現するのは不可能と言いましたが、このシーンを以て原作のまんがとは全く別の世界をつくることに成功したと思います。まんがにはない二人の直接的な動きの雄弁さというか、この動きの中に、原作のネームから引用した科白を超える雄弁さが感じられました。志水さんは、髪にパーマをかけた理由を「目覚めたの」と言いながら(映画の最初の方でパーマをかけたことに周囲が理由をたずねるシーンがあります)、実は彼女は目覚めきれなかった。その逡巡が最初の頃の存在感のなさだった、それがこの時に分かります。原作では、彼女がパーマをかけるかどうか葛藤が描かれていて、それが彼女が「目覚める」ために決心するプロセスと、しかしパーマをかけても逡巡していることが掘り下げられているのです。それを、映画ではパーマをかけてしまったところから始めているのです。つまり、彼女が一線を踏み越えるところに焦点を絞り、そこにドラマを集約させました。その結果、原作が抒情的なら、映画の方は劇的さらには叙事的なものとなっている。
 しかし、ものがたりは、ここで終わらず、さらに続きます。実は写真の二人を、中島を背中で見ていた人がいたのです。杉山さんです。そう、杉山さんは志水さんの陰画のような存在として、志水さんが倉田さんを想うように、杉山さんは志水さんを想っているのです。彼女も志水さんと同様にこの公演に期するところがあったはずです。彼女は、そのために禁煙をしました。また、友人に志水さんと同じ舞台を踏むことを「あこがれの人が…」と話していました。しかし、二人の行動は全く逆で、志水さんが杉山さんには「私って…」と話すのに対して、杉山さんは「志水さんて…」と話しているのです。おそらく杉山さんは、志水さんが目覚めたのと、逆な表れではあっても目覚めていたと思います。それが「好き」と倉田さんに告白した志水さんの背後にあって陰影を与えることになりました。この映画の深さはこんなところにあるのです。死水さんたちが写真を撮っている陰で杉山さんは禁煙していた煙草を吸っている、ということなのです。そして、これ以降のシーンは杉山さんのためにあると言っても過言ではありません。ここに至って志水さんは科白らしい科白がなくなっていき、杉山さんの目に映る存在となっていきます。そして、ラストシーンでは、舞台に出ていく志水さんを舞台袖の暗がりで杉山さんが見守っている、ということになるわけです。ということは、実は杉山さんが想う、志水さんを間接的には映していることになるわけです。もしかしたら、志水さんは倉田さんに対して、杉山さんのように見守るだけという決断をしていたかもしれなかった。それはそれで、もうひとつの目覚めと言えるでしょう。しかし、志水さんは「好きです」と言ってしまいました。そのことで、杉山さんは黙って志水さんを見ることにしたとも思えます。そして、志水さんは、杉山さんが見守る中「行きます」と自らにとも倉田さんにともなく言うところで映画は終わります。 

蛇足かもしれませんが、細かいことで、火のメタファーについて。この映画で火というものが象徴的に使われていると思います。演劇部員の彼氏が忘れた煙草とライターを。まず、志水さんが拾います。彼女は火を点けることができませんでした。これは、「目覚めた」といいながら未だ目覚めきれていない彼女を象徴していると思います。そして、進路指導室で再度試みようとして、杉山さんに取り上げられてしまいます。その杉山さんも、登場前に喫煙で補導されて大騒ぎとなった事情があります。彼女はすでに火を点けていたわけです。そして、倉田さん。開演前の緊張を克服できない彼女は、公演が中止になればいいとうそぶき、火を点けるとは反対に、消防のベルを鳴らしてしまいます。彼女は結局最後まで、受け身の存在で終わってしまいます。一方、志水さんのパーマを見て気が付いてしまった杉山さんは、一度はライターを取り出す。しかし、実際に火を点けたのは、表で志水さんと倉田さんが二人で写真を撮っているときでした。火が付いていたのは、杉山さんと表にいた志水さん。映画の最後で舞台に出た志水さんは、火を点けるのではなく、ローソクの火を消すのです。最初、火をつけることすらできなかった彼女は、最後で易々と火を消してしまえたわけです。ここに至って火にシンボライズされたものを彼女は超越しえたと思います。杉山さんは、同様に火を自由にしえた、というわけです。

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