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2016年9月20日 (火)

パランリンピック考の蛇足

 昨日の投稿に蛇足をくわえることになりそうです。自分の中でモヤモヤしていたことを、いったん外に出したことと、コメントをいただいたことで、少し考えることの方向性の糸口が掴めそうな感じがしてきました。
 昨日の投稿で違和感という言葉をつかいましたが、これはハンディキャップを負った人の競技を見る事自体に対するものではなくて、それを報道したりしているやり方に対して感じたもので、昨日も感動ポルノと称したと思いますが、この人たちをモノ扱いして消費しようとしていることに対してのものです。例えば、パラリンピックの競技を終えた人へのインタビューの胡散臭さ(聞く前から答えは決まっていて、相手に期待通りの答えをさせるような押し付けがましさは、相手の人格を認めていない証拠で、インタビューを聞くスタジオのコメンテイターのような人々の判で押したような決まりきった大仰な反応のわざとらしさ。実際に、競技者に対して「すごい」という感嘆の言葉には、不自由な障害者が普通の人と同じように走ったり泳いだりすることに感心している。つまり、普通の人から見て、欠陥のある人が苦労して普通の人に追いつこうとしているのを、その普通の人から見ている。見おろしている言葉として「すごい」と言っている。そこに優越感が見え透いている)です。
 これは観念をいじりまわした机上の空論かもしれませんし、現実的にはそんなことはありえないかもしれませんが、こんな捉え方はできないでしょうか。例えばの話として、視力にハンディキャップを負っている人について、健常者に対して視力を欠いているという捉え方が、障害とかハンディキャップという言い方に表われていると思いますが、健常者とは異なる環境の捉え方をする異質な人たちという捉え方はできないでしょうか。ちょっと分かり難いかもしれません。話をちょっと換えて、子どもと話すときは子どもの目線で、という忠告をきくことがあります。それは、大人の私たちが通常みている世界と、小さな子どもの見えている世界にズレがあって、小さな子供の目の高さに視点を下げてみると、今まで見えていた世界が違って見える。そこを認識を共有する第一歩にするということだったと思います。そう、目の高さが違うだけで現われる世界が違うのです。実際、私たちは目で見るだけでなく、鼻で匂いを嗅いだり、手で触ったりして五感を駆使して感覚しているはずです。もし、そのうち、視覚が少し弱くなっていれば、その五感のバランスが異なってくることになるはずです。もしかしたら、五感以外の第六感のような感覚があるのかもしれないではないでしようか。そのような捉えられた世界というのは、私には想像すらできないものであるはずです。もしかしたら、視覚では三次元の世界を二次元に置き換えて認識していますが、視覚が弱いとかないということは、その規制が外れることでもあるわけで、生々しい三次元として世界を感覚できているかもしれません。そういう、異質な人として、捉えることは可能ではないか、ということです。
 それをスポーツということで考えてみれば、身体を動かすということは、世界に対して行為をするというアプローチでもあるわけです。人は、自らの身体を動かしてアクションをすることで世界にコミットします。その際の身体の形が違うということは、アプローチのやり方も違ってくる可能性があるのではないでしょうか。先ほど見た、世界の感覚の仕方、感覚して現われてくる世界が異質であるということが、身体を以って世界にコミットすることについても異質なところがあるのではないかということです。そうであれば、例えば下半身が不自由という人について、それを欠落して、それを克服する苦闘ということ(現実には、社会は健常者のためにつくられているのですから、その社会で生きていくための苦闘は避けられないのでしょうけれど)ではなくて、そういう人であるからこそ、健常者ではありえない世界へのコミットがあるのかもしれない。それは、例えば身体の使い方、身体全体ということもあれば、ある身体の部位のあり方が、健常者とは意味合いが違う場合があるかもしれない。その際に身体に対する意味づけが、健常者の場合は当然違ってくるはずです。そうなった時に、意味づけの異なる身体について美しいと感じる感じ方が異なってきてもいいはずです。それは、私などには想像すらできないかもしれません。そういう可能性を潜在的にパラリンピックにあると考えてもいいのではないか。まあ、それほど明瞭に期待しているわけではないのですが。
 これは、単に頭でこねくりまわした屁理屈かもしれません。
 実際のところ、このような異質なものを、すぐさま認めて尊重できるほどの、柔軟さとか寛容さを、私自身もっているか問われれば、自信をもって肯定できないでしょう。そういうことも試される場として、パラリンピックの映し出される映像を見ていると、自分自身、あるいはこの社会を実は問われていて、それに答えられているかを突きつけられているかもしれないと、思うところもあると思います。

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コメント

私もCZTさんの記事を複雑な気持ちで読んでいます。
パラリンピックでの放送を見た時間は、オリンピックに比べ極端に少なく、その見方もオリンピックに比べてやはり異なっていたなあと改めて感じています。
オリンピックでは、陸上や水泳、あるいは自分が行ったことのある球技などを行う選手の姿を見て、自分が行った時とのレベルの違いに圧倒され、まさに「美しい」と感嘆して見ていました。
それと比較して、パラリンピックで活躍している選手の姿を見てもいまいち感情移入ができないというか、どういう感情で見てよいのかわからず、またその違和感を放送側に押しつけていたようにも思います。CZTさんの言われるように、選手の視点にたって見ることの難しさを感じています。
視力を失った人の聴覚や臭覚が研ぎ澄まされるということは聞いたことがあります。
私自身も網膜はく離の手術を受けた数時間は全くの暗闇の中で、手術中の医師の声や周りの音を必死に聞いていた記憶があります。右目だけの手術だったので、万が一、手術が失敗でも左目の視力まで失われるわけではないのですが、やはり右目の視力を失うかもしれないという恐怖心が聴覚をフル活動させようという感覚になったのだと思います。幸い、手術も成功し、ほとんど手術前と変わらぬ生活を送れていますが、一つの感覚が弱れば、他の感覚が補償しバランスをとろうとする考え方は広い意味で重要な考え方だと思います。

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