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2016年9月28日 (水)

健常者もいろいろなのに一律で競うオリンピックは強引?

 近代スポーツというのは能力を競うものになっている。陸上競技の100m走という競技は速く“走る能力”を競うものといってよい。そのために、競技場という特殊な空間を人工的に作って、純粋にその能力だけを競うようになっている。仮に、街中で100mの駆けっこをするとすると、直線ではないし、障害物があったり、高低差があったりする。また、車が跳びだしてくるかもしれない。その場合には、“走る能力”だけでなく、障害をよけたり、緊急事態を回避したり、登り道の能力などが必要で、むしろ、そっちの能力で勝敗が決まることもある。(銀座通りの雑踏でウサイン・ボルトと地元のガキが競争した場合、ボルトが勝てると限らない)そういうノイズが混入することを避けている。
 断続的にパラリンピックに関連して、あれこれ考えているうちに、例えば、視覚を持たないということで、世界が異なってくる、その在り方というのか、世界-内-存在という存在のあり方についての考え方が視覚的な空間のイメージがベースになっているようで、もともと視覚をもたない人であれば、空間ということが分からない、そもそもそういうものがないので、世界-内-存在ということが成立しないということにもなると思う。その時に、能力ということが全く異なってくるのではないか。
 実際、100m走の競技が、純粋に走る能力だけで勝ち負けが決まっているのか。その場合の走る能力とは具体的に何を指すのか。というのも、人は自身の身体条件によって世界が異なってくるのであれば、その世界に対する姿勢が異なるわけで、姿勢がベースになって能力が求められるはずだからだ。パラリンピックを見ていれば障害という身体の条件によって、100m走を細分化している。それは、それぞれで求められる能力の方向が異なるからでもある。そうであれば、オリンピックの場合でも、健常者というだけでいっしょくたに一律にすることに問題がないと言えるのか。例えば、生まれつきの歩幅の大きさが全然違うのを走る能力に含めてしまっていいのか。能力というのは、先天性とは別に後天的な努力と工夫で獲得するものとすれば、生まれつき身体の差と能力の差を区別しないというのは、問題がないとはいえないか、と思う。例えば、100m走で、筋肉の基礎体力(蹴る力、歩幅その他)を測定して、階級分けして、その階級別で競争するとか、そうすれば、その副産物としてドーピングも無意味になるだろう。

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