パラリンピック考─蛇足の蛇足
しつこく、また書きます。このことについては考えがまとまっているわけではなく、書くことによって、考えていたりするので、コメントをいただいたりすると、それにちゃんと答えたいのですが、それよりも、そのことによって、また考えたりして、前に書いたことを打ち消してしまうようなことも、新たに考えたりして、煮え切らないしつこい性格がモロに出てしまっています。
話は変わって、笹井宏之という人の短歌を数首、下に引用します。
したいのに したいのに したいのに したいのに 散歩がどういうものかわからない
次々と涙のつぶを押し出してしまうまぶたのちから かなしい
生きようと考えなおす さわがにが沢を渡ってゆくのがみえて
最初の歌について、この作者が障害者であると聞けば、なんとなく納得してしまうかもしれませんが、次の歌では、そのような境遇であるかもしれないが、そうでなくても分かる共感できるものになっていて、三種目では作者の境遇などなくても関係ないほど分かるが、しかし、こんなことに心を向けることのできる一種の特異性に感動すら覚えてしまいす。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける
このユーモアと優しさ
スライスチーズ、スライスチーズになる前の話をぼくにきかせておくれ
切らないでおいたたくあんくるしそう ほんらいのすがたじゃないものね
たましいのやどらなかったことばにもきちんとおとむらいをだしてやる
これだけ考えさせられる高い集中度
これらの歌は、難解といったことは全くなくて、とても親しみやすい。現代短歌などと言われると閾が高いと思ってしまうがそんなことはなくて、かつての「サラダ記念日」のような感覚的すぎて内容を追いかけられないのでもない(むしろ中身が詰まっている)。
これらの作品は、作者の境遇ゆえに成立しているところもあるのかもしれませんが、そんなことは知らなくても、単に作品に触れるだけでも、惹き込まれてしまう普遍性があると思います。
これらの作品は、スポーツではなくて短歌ですが、こういうことがあるというのは、スポーツでも、パラリンピックにたいしても、このように感じることはできるのではないか、と糸口になるのではないか、と思います。
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