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2016年9月23日 (金)

パラリンピック考え~しつこいのでここで一区切り

 古代ギリシャの理想は真善美で、それを体現した者を神々の前で称揚する祭典がオリンピアだったと聞いている。オリンピアの競技は勝つこと自体が目的ではなくて、真善美を体現しているからこそ他の者より秀でているという意味だったのではないか。真善美は別個に切り離されたものではなくて、相互に関連していて、例えば美というのは正しい真の姿だから美しいという具合。その正しいということは均衡という数学のような要素があって、音楽では均衡が調和すなわちハーモニーとされた。人体についても黄金比という均衡が理想とされた。例えば、身長は頭の8倍という比例といった具合。その伝統は近代スポーツでも体操とかフィギアスケートのような競技には残されている。よく言われる日本人は体型の点で不利とは、その伝統が関係している。
 1988年のカルガリーオリンピック。伊藤みどりというスケーターがフィギアスケートで4位に入賞した。彼女は典型的なモンゴロイドの体型で寸胴で手足が短い、黄金比の均衡とはかけ離れていて、競技以前に不利なのは明白だった。その伊藤みどりは4位だったにもかかわらず、競技翌日のエキジビションに出演し(普通はメダリストしか出ない)会場の大喝采を浴びていた。その前日のフリー競技、寸胴の体型の伊藤みどりがダブル・アクセルのジャンプを飛んだとき、会場が一気に盛り上がった。彼女としても会心のジャンプだったのだろう、すべりながら拳を振り上げてガッツポーズをしていた。フィギアスケートという優美さを競うような場で、それはあまりにも場違いなはずだった。しかし、それが妙に納得できてしまって会場もそれで乗ってしまって、異様に盛り上がったのを覚えている。それまでのフィギアスケートのジャンプは滑らかで優雅に舞うようなものだったのに反して、伊藤みどりのジャンプはパワフルと優雅さとはほど遠いものだった。しかし、そのスピードや切れ味は圧倒的で見ている者を興奮させる何かがあった。それが満員の観衆に伝わり、当時は破格であった彼女は、伝統的な黄金比の美ではない、全く新たな美を、その観衆の受け容れさせてしまったのだろうと思う。その時、寸胴で手足の短い体型の彼女は美そのものを体現していた。まさに、新しい美が生まれた瞬間で、後にも先にも、彼女のように観る者を圧倒し、強引に従来の伝統を変えてしまうような体験をさせてくれたスケーターは他に見たことがない。彼女は、その後のフィギアスケートを変えてしまった。(その時の金メダリストはカタリーナ・ビットという優雅に舞うスタイルを究極に突き詰めたスケーターだったが、彼女のようなスタイルのスケーターは今はあまりいなくなってしまった)私は、スポーツを観る感動とは、そういうところにあると思っている。
 多分、パラリンピックの選手たちにも、そういう人たちが沢山いるはずで、私が、それに気づいていないだけなのだろうと思う。しかし、それには未だ時間がかかりそうな気がする。

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