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2016年9月 5日 (月)

高島野十郎展~光と闇、魂の軌跡(5)~第3章 風景 旅する画家(2)

Takashimayakusi 前のところで、私は高島にとって絵画はパフォーミング・アートのようなものではないかという仮説を述べました。高島にとって描くという行為のプロセス、パフォーマンスが出来上がった作品より重視されていたのではないか、と。それをジャズの即興演奏になぞらえました。そして、渡欧して現地で描いたことにより、自身とその作品制作を見直すことがあったのではないかと想像しました。そうして、今、数点の作品を見ていると、初期の即興的なパフォーマンスに対して、自己認識がされたことによって、自身の造形とか構想力の不足という欠点を自覚したことによって自分の即興の方向性を見出し、そこに焦点を絞り始めたように見えます。ジャズになぞらえれば、ジャム・セッションであてもなく即興的に演奏を続けることから、明確なテーマを素材にして、そこからアドリブを展開させていくことで、アドリブのキレを聴く者に分かり易くアピールしていく行き方です。しかも、その題材は、ジャズでいえばスタンダード・ナンバーのようなものです。つまり、絵画にもどれば、絵葉書になるような、風景について誰でも目にするような光景です。それを題材に描くということで、ジャズのアドリブが陳腐なポピュラー曲を、結果として不朽の名演奏にしてしまうような、そういう作品として残るようなパフォーマンスをしていくという方向性です。陳腐ともいえるが、人々に親しみ易い画面構成の細部を突出させたり、全体との関係の意味合いを変容させてしまうことで、見る者に陳腐なはずが、今までない新鮮な風景を呈示されてしまうという行き方です。
Takashimayakusi2  「寧楽の春」という作品。奈良県にある有名な薬師寺の東塔です。三層の屋根の下に裳階があって六重の塔に見える独特にシルエットを、そのまま描いているアングルは、いかにも「皆さんご存知」とでもいえるステレオタイプです。まるでビルの工事現場にあるような完成予想図のような、正確だが図式的な描き方です。しかし、高島は薬師寺の写真を見てお分かりと思いますが、「寧楽の春」は写真のように薬師寺の風景をそのまま描いているわけではなく、実際の塔がある伽藍には「寧楽の春」の画面のように草木は生えていません。だから、「寧楽の春」は高島が薬師寺東塔を使ってつくりだした架空の風景です。あえて薬師寺東塔に、現実にはない草木を描き加えたのは、高島は描きたかったからということでしょう。それは画面を見れば納得できるのではないかと思います。画面の前面に出ていて印象的なのは、まるで塔を隠すように満開に花開く枝垂桜であり、その下の印象的な赤のつつじの花です。そして、枝垂桜の左側には、高島の初期作品で御馴染みの“くねくね”が裸の若い松の木で登場しています。塔はバックの背景で、この姿がなかったとたら、前景の枝垂桜やつつじがあって松の木やその枝の繁茂が画面の外枠のようになっていて、全体に草木に覆いつくされている、まるでアンリ・ルソーの熱帯植物を描いた作品のようです。これは、私の偏見かもしれませんが、高島の筆は建築に対しては、直線で堅固に構成された構築物を描くのに、何かしら居心地の悪さのようなものがあって、それが崩壊した姿とか古民家のような人の生活のなかで手を加えられてそのプロポーションの均整が崩れたようなものを好んで描いていたように思えます。ここでも、東塔をシンメトリーには描かず、均整のとれたプロポーションを前面に出さず、草木の後景にして、一部を隠してしまいます。均整のとれた安定した姿は、それで止まってしまって、そこから動きは生まれてこないでしょう。そこに高島は躊躇させるところがあったところがあったのかもしれません。高島は、この他にも法隆寺の五重塔を描いたりしていますが、塔よりも雨が印象的だったりと、私には、あまりパッとしないように見えます。この「寧楽の春」でも、点描のような枝垂桜のピンク色の小さな花のひとつひとつが際立っているところです。
Takashimacosmos  「カンナとコスモス」という作品です。寺院からうってかわって花を描いたものですが、さきほど、アンリ・ルソーに触れたところで、ルソーの描く植物は写実とはちがってデフォルメされた姿になっていますが、植物の生命力が写実的なものよりも強調されて迫ってくるところがあります。高島の描く植物には、その生命力ある姿が、過剰となってグロテスク一歩手前の不気味な毒々しさに迫るところがあると思います。それがよく分かる作品です。高島がルソーと違うのは、ルソーのようなデフォルメをほとんど施していない点です。この作品で描かれているコスモスやカンナの花は細密に写実的に描かれています。しかし、その細密すぎる描写は、普通に人が植物を見る際に目に移る姿とはいささか違うようなのです。細密すぎるようなその姿は、普段は見ないか、見たくないような不気味さ、毒々しさの印象です。さらに画面全体を侵食するような、見る側に繁茂してくるような迫力があります。その植物の姿に見え隠れするのは、くねくねと屈曲する線なのです。それはコスモスの茎であったり、カンナの花弁であったり、その線が動きを与えているのです。それに加えて細密なスーパーリアルな植物が画面に充満し溢れてきそうな過剰なところが、迫力を増しているといえます。おそらく、アンリ・ルソーは画面構成を計算して制作しているので、画面を植物が覆いつくしていますが渾沌とした迫力はそれほどでもありませんが、高島の作品では構成を細部の個々の花や葉の描写が描いているうちに過剰に暴走しているようで、計算を凌駕してしまうように渾沌とした迫力を生んでいます。それが一種不気味さを見る者に印象づけていると思います。おなじように植物を描いた作品で「けし」という作品もありますが、こちらは、一見整理された画面になっていますが、異様な迫力が潜んでいるような、不気味さが仄見えてくるような雰囲気があります。これらを見ていると、音楽でいえば、楽譜とおりに演奏しているのに、音の出し方とかタッチとか、ほんの些細な細部で演奏が突出して、楽譜を超えた演奏になってしまい、結果として異様な迫力になったりする、そんな作品になっていると思います。
Takashimakeshi2 Takashimaruso

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