無料ブログはココログ

« 高島野十郎展~光と闇、魂の軌跡(9)~第4章 静物 小さな宇宙(3) | トップページ | 正しいということと責任が持てるということ »

2016年9月11日 (日)

高島野十郎展~光と闇、魂の軌跡(10)~第5章 光と闇 太陽 月 蝋燭

高島が、連作のように同じ題材を取り上げて、飽くことなく制作し続けたものとして、太陽、月、蝋燭を描いた大量の作品があるといいます。ここでは、それを集中的に展示されていました。
Takashimasun37_2  高島に対して悪意があるわけではなく、揶揄するつもりも中傷する気もありませんが、前の章で少し触れた、自らを創造主として宇宙を創造するという欲望を抱くとすると、神様は光とともにあるわけですから、光を発するものとして、この地上にいる限りでは、太陽と月を押さえるのは当然ということになるでしょう。また、身近なところで光を発するものとして、火、その火を題材とできるものとして蝋燭。短絡的な連想かもしれませんが作品の中で、その光を創り出すという妄念というのか、そういう過剰さが象徴的にあらわれている連作であると思います。それだけに、これまで見てきた高島の特徴的な手法が集約的に注ぎ込まれていると思います。
Takashimasun50_2  「太陽」というそのものズバリの題名の昭和37年制作の作品です。ビックバンなどというと言いすぎですが、まるで爆発したかのように太陽の中心部は絵の具を塊のように盛って、そこから四方へ無数の細い線を放射状に描き重ねています。それが、光の源から、周辺にむけて光が行き渡る様を象徴的に描いているようで、太陽なのでしようが、それは光が爆発的に全体を照らしている様です。そこで、高島はその行き渡る光を細い線になぞらえて、その一本一本を精緻に、まるでそれぞれが独立しているかのように描いていきます。その一本一本の線は、中心から周辺に行くに従って光は徐々に弱まっていきます。その変化を色彩を塗り分けて一本の線として、それぞれの線に変化をつけて描いています。それは、以前に高島が風景画において点描の手法で光が物体に届いた点を色彩が混ざらないように猫点を重ねることで描き分けていたことを、光の源では混ざらない線で描いている、ということだろうと思います。とくに、この光の線が、画面下の松の木に降り注ぐように届いて、木の葉を透っていく様子、木の葉が照らされる様子が細かに描かれている。
 同じ「太陽」という題名の昭和50年制作の作品です。昭和37年の作品と同じ傾向の作品ですが、光源である太陽の色彩の多彩さの点で、こちらは後退し、昭和37年の作品では、プリズムで見るように多くの色がそこに含まれていたのに対して、こちらの作品では中心を白にして、黄色の広がりというシンプルなものに転換しています。その代わりに、太陽の光が松の木に届いた末端のところの描写が、昭和37年の作品に比べて重きを置いているように見えます。
Takashimafulmoon  こんどは、月を描いた作品を少し見てみましょう。「満月」という作品。高野は同じタイトルの作品を何点も描いているようですが、これはその中の一点です。夜空に満月が浮かんでいるという非常にシンプルなものですが、満月の光が夜空の波及するようにひろがっていくさまは、とくに月のまわりの光の反映するさまなどは非常に細かく、それこそ光の粒子を一粒ずつ描くように描いています。おそらく昼の太陽を描いても光が強すぎて、光が徐々にひろがり、それとともに徐々に弱まっていく段階のようなものは描くことができないでしょう。夜の暗い影が基調となっていることで、コントラストをつけ易いという都合のよさがあったと思います。それでは、もっと月を大きくえがいて、光と影のコントラストを大きな月をベースにもっと精緻に描くこともできたであろうに、高野はそうしていません。むしろ、影となった木の葉を挿入して月の光と影の描写を邪魔するようなことを敢えて行なっています。たぶん、この作品の構図とか構成は日本画でよくとられる月を題材としたものでは一般的といえるものです。それが、高野のこの作品では違和感を覚えるのです。
 Takashimamoon これに対して「月」という作品は、夜空の月だけを取り上げた作品です。「満月」よりさらにシンプルです。「満月」もそうなのですが、そのような一見シンプルで、日本画でも一般的となっているような構成で、わびさびとか光と影とかいった風情とは別のところに、高野作品の特徴があらわれていると思います。それは、月明かりの風景にシンボライズするように何らかの風情とか味わいを仮託して表現しようとすることではなくて、もっと過剰なもの、夜の闇の世界もキャンバスのなかで自らが創造してしまおうという野心のようなものです。だからこそ、月の光の粒子を一粒ずつ点描するかのように、その光の一粒を画面の中で創造しようとするように見えるのです。それなら、月と月光だけをクローズアップして描けばよいのに、敢えてそうしていないのは、夜の闇を照らし出し、そこに見えるように現われるという世界を隅々まで、自らが創造してしまおうとしてのことではないかと思われるからです。
 そのように考えていくと、展示の最後に一室まるごとずらーっと並べて展示されていた蝋燭を描いた作品は、太陽や月に比べて、光としては規模が小さくて、しかも光源それ自体を描くことができる。光が小さいので、それが及ぶ世界が小さく蝋燭の周囲に限定される。つまり、太陽や月に比べてほとんど全部を描ききることができるし、太陽や月を描くのに比べて労力の消費量が格段に少ない。そういう利点があると思います。
Takashimarousoku  「蝋燭」という一群の作品は高島野十郎という画家のトレードマークともいえると展示の中で説明されていました。蝋燭という題材はヨーロッパでもバロックの光と影の対比を巧みに描いた画家たちも良く取り上げています。例えばカラヴァッジョの影響を受けた画家たちやジョルジョ・ラ=トゥール、あるいはレンブラントなどもそうでしょう。しかし、このような画家たちは蝋燭は作品の中の一部で、中心は蝋燭ではなくて蝋燭によって照らし出された人物だったりするのです。これに対して、高島の場合には蝋燭そのものを、しかもそれ以外ものは画面から排除されているという点でユニークです。それは、ここまで縷々述べてきたように、そもそもバロック絵画の光と影のドラマとは違う発想で描かれているからです。このような高島の作品に対しては、見る側にはものがたりを増幅させた衣装を被ることになりがちです。例えば展示の説明では“蝋燭が一体何を照らしているのか、絵の中では明示されていないがゆえに、作品は象徴性を帯び、その神秘的で宗教的な雰囲気と相俟って、見る者の心を揺さぶるのである。また我々の心から、喜びや悲しみなど様々な感情を引き出し、穏やかな灯を点してくれるような浄化作用さえあると言える。言うまでもなく「蝋燭」こそは、交錯する光と闇の表現を探求し続けた野十郎の真骨頂である”という具合です。おそらく、高島自身も、そのようなことを自身で信じていたのかもしれません。私は高島という人が実際どうだったのかには、あまり興味がありませんが、そういうファナティックな性格はあったかもしれないということは、容易に想像がつきます。だから、見る者がそれに引きずられることには、とくに否定するつもりはありません。しかし、それは画面を見ているのかといえば、画面を見ていて、そこに見えていないものを敢えて見ようとしているのではないかと思います。画面の上に見えているのは蝋燭です。
Takashimarousoku2  「蝋燭」というタイトルの作品は数十点が一室に集められ並べられている光景は圧巻というほかなくて、展示されている作品を一点一点丁寧に鑑賞する気力は私にはありませんでした。どの作品も、同じような構図、色遣いで描かれているので、違いを識別しにくい、それを一点一点となれば。ひとつひとつの作品を特定できる鑑識眼は私にはありません。したがって、その中の任意の数点を出してきて、それで全体を語って(語れて)しまおうと思います。「蝋燭」で描かれているのは、蝋燭の炎の凄まじいばかりの微細な描きこみです。炎の中心から先端に向かっての光→画面上では色彩のミクロ単位の変化、しかもその光をスペクトル分析するように一様でない要素も交えて描きこまれています。そして、その炎が燃えている空気と炎の光がその空気に映って光が周囲に伝播する空気の変化、それは光だけでなく、蝋燭の炎によって熱が発生し空気の対流が起こり、空気が動き出すのを光の伝播への影響で表わしている。それを実際に見えている以上に、ということは当然画家のつくりごととしてフィクショナルに創造している。それは多分、写実であれば微細すぎて気がつかないことを顕微鏡で拡大して可視化するように、いわば針小棒大な誇張を施して造っているといえます。そこでは照らし出されたものを描かなかったがゆえに象徴性を帯びるというのではなくて、照らしている光をただ描いていたという見方があってもいのではないか、ということです。
Latourmaria3  この展覧会のところで、高野という画家が孤高の画家とかいう物語のなかにイメージが押し込まれてしまい、その物語が消費されることになり、高野の作品はその物語消費のためのいわば挿絵のようなことになってしまうことに抵抗を感じると述べました。まずは、作品そのものを見てみましょうと。私が見た高野の作品は、べつに孤高の画家という物語を知らなくても十分鑑賞に足る充実した、というより過剰な作品世界を展開して見せてくれたもので、そういうものとして、私はいつものとおり、作品をみた印象から自分なりの鑑賞ストーリーを捏造して楽しませてもらいました。

« 高島野十郎展~光と闇、魂の軌跡(9)~第4章 静物 小さな宇宙(3) | トップページ | 正しいということと責任が持てるということ »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/64190943

この記事へのトラックバック一覧です: 高島野十郎展~光と闇、魂の軌跡(10)~第5章 光と闇 太陽 月 蝋燭:

« 高島野十郎展~光と闇、魂の軌跡(9)~第4章 静物 小さな宇宙(3) | トップページ | 正しいということと責任が持てるということ »