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2016年10月 2日 (日)

ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち(1)

 2016年7月 国立新美術館。梅雨後半の不安定な大気の状態で一瞬の集中豪雨に、ここ数日来見舞われている。こういうときの外出は傘の持参に迷う。折りたたみの傘は重宝なのだけれど、強い雨では大きい傘が欲しいし、一度使用して塗れてしまった折りたたみの大きさは中途半端で傘置き場で使えない不便さもある。とくに、国立新美術館は地下鉄乃木坂の駅から専用通路があるのに、建物のデザインの都合で一部傘をささなければならない、なんとも利用者の便宜を無視した通路がある。慣れないせいもあるかもしれないが、この美術館は使い勝手が悪いし、空間の無駄遣いが著しい(たとえば、こんなだだっ広い空間に空調を利かせていて、電気代と外気への温室効果を、どう考えているのだろう)、人が歩くことを考慮されていないようなフロアでかなり歩かされる。そんなこともあって、あまり行きたいとは思わない美術館、というのが私の中での位置づけ。今日、寄ったのは、他になかったから、という単純な理由。
Venicepos  地下鉄の出口を出て中途半端な屋外通路のところに特設のチケット売り場が作られていた。こっちは美術館の裏口にあたるのに、正面から入館した人は、わざわざ館内を通り過ぎて、ここまでチケットを買いにこなくてはならないのか、そう思うと、なんとも利用者のことを考えていない施設であることを思う。売られていたのは、同じ建物の別の展示室でやっていたルノワール展の入場券だけのようだった。それにしても、人通りが多く混雑していると思ったら、このルノワール展の人ごみだったのかと了解した。美術館のポスターや旗もルノワール一色で、その人気のほどがうかがい知れる。私には縁のない画家なので、入場者がみんなそっちへ行ってしまっているのはありがたい。その人気の違いを美術館もよく分かっているのだろう、この「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」という展覧会とルノワール展は明らかに扱いが違って、ルノワール展は入り口すぐのわかりやすいところでやっていて、沢山の係員が揃いの半被を着て、誘導していた。こっちの方は2階のフロアーの端っこで、エスカレータが遠かった。そんなでたどり着いた展示室は、会期最初ということもあって、閑散といっていいほどの人の少なさ。それが、大型倉庫のような展示室に比較的大きな作品がポツリポツリと展示されていて(その大きさと余裕のある展示のため、となりの作品まで数歩あるといっていいほど)、その即品の前に鑑賞者が一人ずつくらいしかいない。ほんとに静かで、その静けさの強制されたような不自然なものでなくて、それぞれの人がじっくりと鑑賞していて、自然と静かになったようなほどよい緊張があって、疲れを強制されるものではない。一応の目玉となっていたティントレットの「受胎告知」では、広い空間をこの一作のみのためにとって、高い天井と相俟って、まるで教会の大聖堂の中にいるような空間をつくっていた。現代建築の無愛想な壁で囲われているので、荘厳さとか神々しさはなかったが、広い空間で、祭壇にあるように大きな作品を見上げて、その上に高い天井があるという展示は、それだけで絵画の見方が変わると思う。
 そういう点で、内容とか、構成とかいったことは別にして、作品とじっくり向き合える、いい展覧会だと思う。展示作品も60点と、それほど多いとはいえないが、平均点は高いので、見ていると時間を忘れて、意外と時間が経ってしまう。
 それでは、内容を少し見て感想を綴っていこうと思う。
 いつもは主催者のあいさつを引用するのですが、今回はヴェネツィアのアカデミア美術館のコレクションから所蔵品の一部を展示するというものです。まあこんなものです。“テーマは、ルネサンス期のヴェネツィア絵画です。ルネサンス発祥の地であるフィレンツェの画家たちが、明快なデッサンに基づき丁寧に筆を重ねる着彩、整然とした構図を身上としたのに対して、ヴェネツィアの画家たちは、自由奔放な筆致による豊かな色彩表現、大胆かつ劇的な構図を持ち味とし、感情や感覚に直接訴えかける絵画表現の可能性を切り開いていきました。本展では、選りすぐられた約60点の名画によって、15世紀から17世紀初頭に至るまでヴェネツィア・ルネサンス開花の展開を一望します。ジョバンニ・ベッリーニからクリヴェッリ・カルパッチョ、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼまで、名だたる巨匠たちの傑作が一挙来日します。”
 私の個人の趣味では、ルネサンスの著名な絵画と16世紀フランスの古典主義からロココ、そして近代の印象派はどうしても苦手で、それらの画家の個性が見分けられないのです。私になりに総括すると、それらの作品は絵画表現の表層に特化しているように見えます。難しげな言い方をしましたが、絵画という画面だけを見ろという作品たちということです。その画面が、ものがたりをもっている(画家の伝記的事実のようなエピソードとは別です)とか、何らかの感情が秘められているということを切り捨てた上で、見えることだけで勝負しているというのが、これらに共通することです。いわゆる感覚重視ということでしょうか。悲しみに打ちひしがれていても、喜びに湧いていても、目の前にあるものは厳然とあるし、そういうように描かれている。その物体に光が当たって、それが視神経につたって、脳がそれを見る。そういう機械的な経路をたどって、いま、画面に在る、そういう絵画です。だから、その技法は、見えたものを、どのように、そのように画面に定着させるかというための方法と言えます。そこからは、だから抽象絵画などは生まれ得ないということができます。見えていませんから。ここで展示されているヴェネツィア絵画にも、そのような点もあります。しかし、フィレンチェの、どこまでも明快で、明るい太陽が隅々まで照らし出して、およそ陰などありえないような作品に比べると、多少の不純な要素が混じっているようで、私の場合は、その不純さにむしろ惹かれるところがあります。そのあたりを、主催者あいさつでヴェネツィア絵画の特徴を述べていましたが、その検証もしながら作品を見ていきたいと思います。
 なお、展示は次のような章立てでしたので、それに従って見ていきたいと思います。
 Ⅰ.ルネサンスの黎明─15世紀の画家たち
 Ⅱ.黄金時代の幕開け─ティツィアーノとその周辺
 Ⅲ.三人の巨匠たち─ティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノ
 Ⅳ.ヴェネツィアの肖像画
 Ⅴ.ネルサンスの終焉─巨匠たちの後継者

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