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2016年10月27日 (木)

歴史の流れということについての雑感

 リュック・ベンソン監督の「ジャンヌ・ダルク」という作品を見た知り合いの人が他国に占領される悲劇を描いていると言っていたのを聞いて、不思議に思ったことがあります。ジャンヌ・ダルクの舞台となったのは、100年戦争というので世界史の教科書では14世紀から15世紀まで断続的に戦闘があった英仏の戦争ということになっているのではないかと思います。世界史では中世史に属しているのでサラッと通り過ぎてしまっているのが実状ではないかと思いますけれど。しかし、ヨーロッパ中世は封建制の社会で国家というのは、近代国家の境界の明確になっていて、ネイションという経済や社会のまとまった一体感があるシステムではなかったと思います。国というまとまりは実は存在していなくて、封土といわれる封建領主(貴族)が拠点である城とその周囲を支配していたというのあつまりで、その貴族の集まったのが国という便宜的な単位で、そのトップに王がいたという程度のものだった。そういう私の知識です。しかも、当時のフランス王はヴァロア家で、対するプンタジネット家はイギリス王家ととられているようですが、フランスの大貴族でイギリスも領土として持っていたというのが本筋ということです。そういう視点で両者の争いを見れば、実はフランス国内の紛争ということだったと思う。本当のところは、プランタジネット家がヴァロア家からフランスの王権を争って戦いになったというものだと思います。
 そこで、私の知り合いが、この戦争を近代以降の国家間の戦争の感覚で捉えて、日本が太平洋戦争で敗戦して国土が灰燼に帰してGHQの占領を受けて日本の国民が主権を失ったように捉えて、民衆の悲劇と言ったのが、だから不思議に思えたのでした。たしかに住んでいる地域が戦場となって焼け出されたり、戦闘に巻き込まれて生命の危険に晒されたのは災難と言うほかはないと思います。しかし、他国に占領されたとか主権を奪われたという事態は当時はありえず、あえて言えば民衆の側からは支配者が替わったという程度のものだった、たとえ支配者の好悪はあっかもしれないが、というものだったと思います。
そのように考えると、戦争とか国とか平和といったことは、現代の見方と違っていると思うので、例えば百年戦争の場面を自分の境遇に置き換えて感情移入するように感じてみるということは、それはあくまでも現代の日本に生きる者としての範囲内でしかできない。もし、それを直接的に理解したいと思うのならば、現代と異なる環境ということを弁えて、異文化の理解というように文化人類学的なアプローチで探っていくしかないのではないかと思うわけです。
 そこで、過去の歴史を見るということにおいて、国というものが過去に対して現代では変質してしまっているので、一貫した推移ということはありえないわけで、国の歴史という一本の線の流れというイメージは、ありえないのではないか。実際のところ、日本史というのは日本の歴史ということになっていますが、もともと日本と言うのは明治維新によって人工的につくられ、明治という40年間続いた期間を通じて徐々に形成されていったもので、それ以前には、日本というまとまった国とかシステムとか、そういう意識はなかったので、存在していなかったはずです。その存在していないものが、あたかも存在していたかのように過去に遡っていこうとする、いわゆる日本史というのは、歴史の流れとか、歴史書の記述の日本と言う国の過去を遡るという考え方とか方法論そのものがフィクション、つまりものがたりということになるのではないかと思います。そこには、当然のことながら、主観的なものにならざるを得ない。そうでなければ、歴史的な一貫性などということは説明できないことになるというわけです。歴史の発展という視点、例えば唯物史観などに代表されるものは、言わずもがです。

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