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2016年11月 3日 (木)

歴史の流れということについての雑感(2)

 歴史小説というと、戦国武将とか天下統一とか幕末の志士といったような権力者やいわゆる歴史ヒーローの事績を追いかけたサクセス・ストーリーがほとんどすべてと言ってよいのではないかと思います。それはそれで面白いのだけれど、それが歴史というものへの誤解を生んでいるのではないかとも思うことがあります。それも、現代人の視線で振り返るように見ているというのか。例えば、戦国時代の武将であれば、現代の国家指導者とか軍隊の司令官を見るのと同じ視線でみていたり、企業経営者を当てはめるように見ているところがあります。しかし、当時、つまり戦国時代の戦国大名の統治システムと現代の国家の統治機構を同じに見ることはできないはずです。戦国時代といえば大名同士の戦争というのが目立ちますが、戦争をする単位としての国は、現代の国民国家のような境界線のはっきりした明確な区切りのなかで統合的にまとまった国民が、統率された組織で心をひとつにして戦略的に侵略したり、防衛したりというものとは考えられないと思います。そこで、有名な戦国武将が戦略的な領地拡大をしたかのように後知恵のものがたりを作っている。そのような物語は、身近さを感じられて、分かりやすいとは思います。それは、ものがたりとしては私も嫌いではありません。
 しかし、例えば、このような推測だって可能なはずですが、そういうことは考えないようです。
 戦国時代の武将で上杉謙信は時代小説のヒーローのなかでも人気の高い人です。毘沙門天の化身という天才的な戦術家とか、ライバルの武田信玄のような領土拡大のような侵略的な行動をとらなかったということから欲望を持たない清廉さとか、義を重んじるといったイメージから、正義の味方のような受け取られ方をしているヒーローです。
その上杉謙信が戦闘に勝利しながら征服することをしなかったということについて、例えば何度も関東地方に遠征しながら領地の征服をしなかったのは、当の関東の領民にとっては単に戦争をしに来るだけの迷惑な存在ということもできると思うのです。関東の地域の支配者である武将の領地に進出してきて、そこで戦争をしてその武将を敗走させたわけですから、支配者、つまり統治者がいなくなってしまったのに、そこを征服しないというのは統治者が空白のままほったらかしにするということで、戦争の後でその領民の面倒をみることから逃げてしまう無責任な武将ということになると考えることもできるのです。単に、戦争をしにきて領地を戦場にして人を殺して荒廃させてしまうだけということです。さらに、謙信が関東に進出してくるのは農閑期である冬の季節です。稲の収穫が終わって、越後の冬は雪が深く農業生産は不可能に時期で、そのまま越後に多数の人々がいれば、生産がないまま食物が多量に消費されることになります。しかし、関東に戦争に出かけると、現地である関東で食糧を調達することができることになります。つまり、兵士の食い扶持のために越後の作物を消費することなくて、越後の作物は大事にとっておくことができることになります。食糧の現地調達といえば、聞こえはいいのですが、要するに力ずくで奪う、つまり略奪です。これは、現地である関東の人々にとっては野盗と同じです。そのように考えてみると、はたして上杉謙信を義に篤い正義感溢れる武将ということができるでしょうか。
 歴史小説として、例えば深沢七郎の『笛吹川』のような戦国時代の領民の家族が代々虫けらのように死んでいくという話は、受け容れられることがあってもいいのではないかと思います。

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