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2016年12月

2016年12月27日 (火)

スマップは話題だけで業績の評価がないのか?

 SMAPという“国民的”グループが終わりを迎えるということで、色々なイベントやら騒動やらが度重なるように起こって、ニュース報道までされたり、いわゆる“芸能ジャーナリズム”では連日扇情的になっているようです。何か、ご隠居さんの繰り言のような言い方になってしまっていますが、とくに、私はそのグループのことはテレビ等で目にしたことはあるかもしれませんが、よく知らないし、騒動には興味がないのですが(これって、ご隠居さんの繰り言そのものですね)、私は、こういうことに寡聞なほうなのですが、このグループの評価というのは、全くなされていないのが、不思議かつ、この人たちがかわいそうな気がします。
 SMAPというのは一応ボーカルグループでヒット曲もあるそうですが、そうであれば、実績があるわけですから、彼らの音楽性はどうだったのかということは、きちんと分析されて、評価されてしかるべきなのではないでしょうか。そういう評価があった上で、このような音楽は彼らにしか作れないものだからこそ、解散してしまうのは大きな損失であるという客観的な議論ができる。つまり、失われてしまうものが、客観的、かつ具体的に明確化されるみことになると思うわけです。
 それがなされていない、もしくはできないということは、彼らの音楽的な業績は評価するほどものでないということなのでしょうか。そうであれば、現在の大騒動というのは単なる空騒ぎでしかない、話題づくりとかそういわれでも反論できないことになります。また、そういう評価できる人がいないということであれば、いわゆる“芸能ジャーナリズム”って何のためにあるのか、ということになるのではないかと思います。少なくとも、私のような門外漢に対して、SMAPの音楽的な特徴はどうだということを明確に言語化してくれる人がいないと、彼らの音楽と他の音楽とを、私は区別することができなくて、別に解散したとしても、同じような音楽グループと取替えがきくとしか思えないわけで。それは彼らもアーティストを自称している(音楽グループや歌手の人たちはみんな自称しているようです)わけですから、当然コンセプト(現代のアートではコンセプトは必須のはずです)を明らかにしているはずですから、そのコンセプトを分かり易く説明してもらって、それがどのような方法論で具体化されているのかということくらいはプレゼンできるのは、アーティストとしての最低条件になっているはずですから、それを“芸能ジャーナリズム”あたりが再確認して、提示してくれるだけで十分ではないかと思います。それすら為されていないでいて、騒いでいるというのは、ジャーナリズムといえないのではないか。当のSMAPの人たちも活動期間が短くはないはずなので、その活動の評価もしてもらえないのは、繰り返すようですが、かわいそうではないか思えるわけです。後の時代になって、かつてSMAPというグループがあって人気があったということくらいしか語られない羽目になってしまうおそれが十分あります。
やっぱり隠居の繰り言になってしまった・・・

2016年12月24日 (土)

標準化とマニュアルの雑感

 メソッド、つまり手順という姿勢。ビジネスにすれば、仕事の手順を明確化、標準化し、それをマニュアルというかたちに残すということになるでしょう。仕事の手順を明確化、標準化するということは、属人的な特殊技能とか熟練といったもの、Aさんにしかできなくて、その仕事をBさんが替わって同じようにできないようなことを排して、AさんでもBさんでも、誰でもできるようにする。一般化すること。それは、言い換えれば共通部分をピックアップすること。それは、少し言い過ぎのところはあるかもしれませんが、本質を抽出するということに近いと思います。
 以前ある人に言われたことですが、哲学というのはHOWという問いを突き詰めたものだというのです。近代ヨーロッパに始まる学問というものは基本的にはすべて方法論です。哲学はその究極というわけですから、首肯できるものと言えます。したがって、仕事の手順を明確化、標準化し、それをマニュアルにするということと、西欧発の学問もベースは同じで、現象を抽象化、概念化してロジカルに記述するという操作と言うことができます。つまり、マニュアルに記された手順というのは、その仕事の本質ということになります。普遍化した本質を各個人が実行するというのは、普遍に対する個別、本質に対する実存、こうなると、まるで哲学と同じではないかと思います。
 実際に仕事の手順を明確化、標準化し、マニュアルを作るという作業は、客観的であること─例えば、その仕事の現場の当事者だけでなく外部の者、新入社員のような予備知識を持たない人やISOの監査官のような社外者のような人にも理解できるようなこと─が求められます。そのためには、客観的に仕事の手順を見ることから始めなければなりません。それは、その仕事の渦中から一歩退いて、冷静に観察することが最低限必要となるものです。それは、こじつけると反省的意識(認識)ということになり、その反省的意識によって、マニュアルという体系を論理的に組み立てるということは、反省的意識を出発点にして、実際の存在を括弧にいれて、概念を論理で組み立てて理念的な世界を構築するということになります。まさにカントの純粋理性にちかいものではないかと愚考するのです。そこでは、その理念が人の行為の理想ということで、それを目指すということが善ということになります。つまり、カントの倫理学でいうと善意志ということになるでしょうか。つまり、マニュアルに示されたものが本質的な理想であるとして、それを目指すことが善とされます。そこでは、実際に実存している個人の個性のようなものは本質的な理想に対するノイズとみなされます。さらに、機械であれば、人とは違って個性はないからノイズは抑えられるという発想に進んでしまう可能性が高いということになり、機械化に対する親和性が極めて高いということになります。
 その結果、マニュアルは、極言すれば、反省的意識で仕事の本質を抽出したあるべき姿をロジックで構築した理念的な世界だということになります。例えば、Aさんという人がAさんであらしめているのが本質。その本質をとりだして、例えばDNAでもいい、それを完全にコピーして再現することができたとすると、そこで再現したAさんの本質は、しかし、片Aさんである私ではない。完全にコピーしたはずなのに何が違うのかというと、難しいことでなく、単に、私ではないからということになります。私はわたしであることは、それだけでコピーも置き換えもできません。その私ではないということだけをピックアップしたのが実存ということができます。それは、マニュアルにとってはノイズとなるものです。なぜなら、Aさんのやっている仕事の本質を他の人が完全に再現しなければいけないから、それができてはじめて、Aさんの仕事を他の人が替わってできるから。そうでないと効率的な、正確にいうと生産性の高い仕事の体系がつくれないから。それは、難しげな言い方をすれば、理想である本質の体系とか世界をつくって、存在をそれに適合させるように改造していく。いってみれば世界を操作するという人工的な世界に作り変えてしまものです。それは、理念にもとづいて構想した理想世界に現実を変えていこうというもの。それは、マルクスが夢想し、ソ連が実現させようとした共産主義社会もその例だろう。マニュアルの目指すものは、形こそ違え、目指すという点では同一だということになります。

2016年12月21日 (水)

歌舞伎とシェークスピアの違いはビジネスの違いに通じる?

 とりたてて大ファンというのでもないのですが歌舞伎の世界では役者が舞台で演じる際に『型』というものがあります。演目の筋やセリフは台本に書かれていますが、どのように役を演じるかはここでこういうポーズをとってとかパターンができていて、それを『型』というそうです。その『型』は一通りと限らず、同じ演目の同じ役柄でも複数の『型』あるといいます。例えば、「仮名手本忠臣蔵」のお軽勘平のエピソード、五段目の鉄砲渡しの段の勘平には菊五郎の型と羽左衛門の型があります。二つの型の大きな違いは、お軽の実家で猟師となった勘平が鉄砲を担いでひと休みしている際に、右手で火縄をくるくる回しているかどうかで見分けることができます。その違いが、勘平という役柄の性格の微妙な違いに結びつくので、そのどちらをとるかは役者の個性や共演者などの理由によるのだそうです。
同じ演劇の分野でも、ヨーロッパ演劇、例えばシェークスピア劇では、スタニスラフスキー・メソッドという演技の方法論に基づいて俳優は台本を土台として役柄の人物になりきって、ハムレットやオフィーリアといった人格を表現するのだそうです。
 日本のユニークさを際立たせるような極端な例を用いているのかもしれませんが、歌舞伎とシェークスピアという演劇の性格の違いをひとつのシンボルのようにして、違いを思いついたので、簡単に述べてみたいと思います。飽くまで思いつきなので、矛盾や無理はあると思いますので、そのことを先に断っておきます。シェークスピアを演じる場合はメソッドつまり方法を固めてその方法に則る。これに対して、歌舞伎を演じる場合は『型』という演じた結果このようになるというお手本が決まっていて、その型にどのように行き着くかは役者の各自の経験や工夫に任されています。シェークスピアの場合のメソッドを簡易にしたものはマニュアルと言えます。これに対して歌舞伎の『型』はお手本ということです。
 この話をビジネスの方に転じて考えてみます。この辺で無理があると思われるかもしれません。企業の品質とか効率とかいった標準的な規格、欧米がリードするISOとかCEとかCOSOとかいろいろあるのですが、そこに共通しているように思えるのは方法論、メソッドといったものです。例えばISOの品質規格では、生産工程のひとつひとつの手順を明確にしてマニュアルをつくり、誰でも同じように作れるように整備することを原則的に求めています。シェークスピアの演劇の場合と同じように方法をしっかり固めることを重視します。これに対して日本企業ですが、私の経験しているのは一中小企業のものづくりの現場を見ているだけだけれども、発想が方法から少しズレていると感じています。今はズレは少なくなってきているとは思います。しかし、以前ではマニュアルのようにメソッドを明確化して固定化するという発想はあまりなかったです。では何が明確であったかというと、方法ではなくて、その工程によって出来上がった結果、例えば熟練した職人が作るのはこういうものだという出来上がった製品、つまりお手本です。それがはっきりしていて、それをどのように作るかは各職人が各自工夫する、方法論はマニュアル化できるような一様の固定化したものではありません。このお手本というは、まさに歌舞伎の『型』に通じるものではないかと思うのです。
 この違いは生産された製品の品質に対するリスクの考え方の違いにも表われていると思います。マニュアル重視の場合には正しい方法で実行することが第一で品質は、その結果として現われることになります。しかし、偶然的な事態があるので、正しい方法であっても欠品がでる危険はある、という考え方です。これに対して日本の場合は、お手本という結果が決まっているから、偶然でも欠品がでないことが目指されます。しかも、熟練した職人であれば、偶然の事態にも柔軟に対応できます。そこでは正しい方法から逸脱することもあるのですが、欠品を出さないことが前提です。
 また、教育や訓練でも、その違いが反映していると思います。マニュアルが整備されている場合には、手順が明確で規格化されているので、トレーニングの方法も明確になっています。したがって、だれでも一定の段階を踏んでトレーニングによって方法を身につけることができます。さらに、手順が明確でパターン化されているため機械化することも難しいことではありません。これに対して、お手本がはっきりしていて、それをどのように作るかは各職人が各自工夫するという場合には、どのように作るかは各人に任されているコツとか身体的な感覚に近いものであるため、方法論はマニュアル化できるような一様の固定化したものではなく。だから、教えられないので、技術を盗んで身につけるなどと比喩的に言われることになります。

2016年12月20日 (火)

M・H・ニコルソン著『暗い山と栄光の山』

 今でこそ登山というものが一般的に認知され山岳風景は当たり前になっている。しかし、それはずっとそうだったのではない。むしろ17世紀以前では山は大地の疣や瘤であり、病的で醜い邪魔者だった。このベースには地球が完全な球でなければならないという考え方があった。それは神によって作られたものは、その美は均整と調和にあった。現在の不規則な地表の凸凹は人間の罪に対する神の怒りと懲罰の表われだということだった。
それが17世紀の天文学の発達は宇宙空間の厖大な広がりを明らかにし、その中の地球の存在を取るに足らぬものにしたばかりでなく、月や惑星もまた完全な球でないことが明らかになり、宇宙や世界の完全な球体の観念は否定された。
 空間の厖大さに驚嘆した人間は、同じように時間の厖大さにも気がつく。そして長いときを経て大地が徐々に変化して現在の大地の姿になったことに思い至る。大地は神によって作られたものだが、自然の力によって変化を経てきたものと見方が変化する。そして、人間の醜い罪の表われであった山々が、自然の雄大な力の顕現として捉えられるようになって、自然の偉大さと驚異に目覚めていく。そして均衡と調和が美であったことから、新たな美が生まれた。広大な自然が喚起した畏怖と歓喜は“崇高”という新たな美の基準を生み出した。
 ヨーロッパにおける山というものの見方が大きく変化した軌跡を、その表現である詩の変遷から丹念に追いかけたもの。それはまた、古代のお手本をもとに詩をよむことから、詩人が個人として自立し自身のオリジナルな表現を創出していくという新しい創作のありかたの変化と同時期的に変化しているようにも思う。そこで例として引用されている詩のフレーズの多彩さに驚かされる。著名な詩人の作品に限らず、エポックメイキングなものを現代では忘れられた人を掘り起こしているようなのだ。山に関しての詩的表現の変遷を丹念に掘り起こしたものでもある。思うに、登山というのは、圧倒的に個によって為されるものである点で、他のレジャーやスポーツと決定的に区分されると思うからだ。

2016年12月19日 (月)

先日の日本とロシアのトップ会談への妄言

 日本とロシアの交渉について、テレビニュースや新聞でしか情報は得られないけれど、その限りではいわゆる北方四島の領土問題が目的で、その目ぼしい進展がなかったと専ら報道され、議論されている。日本とロシアという世界の中での経済でも政治でも規模の影響の大きな国のトップがわざわざ会談し交渉するのは、それだけのためなのだろうか。日本で言えば、元島民のひとには切実かもしれないが、日本全体にとっては1%にも満たない人々で、領土問題のメリットは限定される。現在、多くの懸案とか課題があって日本とロシアの関係もそのいくつもにも関係している。そこでの交渉すべき課題はいくつもあり、そのプライオリティを全体として見て、その中での領土問題の意味はどこにあるのかのロジカルな議論。例えば、ロシアとの経済協力はロシアという未開拓の市場へ進出による経済効果はオリンピックなどとは規模が違うだろうし、資源開発での協力によって高額でLNGを購入させられてきた中東への牽制になるとともに、南シナ海のシーレーン防衛のリスクヘッジの可能性もある。とすれば、防衛政策や中国との関係もかかわるのではないか。現代で生活する日本人として、領土問題とそのようなこととで、どちらにプライオリティを置くかといえば、後者で、そう考える方が自然ではないかと思う。他の人々やマスコミはそうではないのだろうか。

 そもそも、政策の方針というのか、日本の国策のなかで、ロシアとの関係のプライオリティはどの程度で、その理由とか意味があって、その進展は、日本の国益でどのようなメリットがあって、そのメリットの中でのプライオリティはどのようなのか。それこそが政策論議ではないかと思うのだけれど、与野党の議論とか報道されている話題には、そのことの説明がなくて、それは国民みんなそのことをちゃんと知っているから話す必要がないということなのだろうか。

2016年12月17日 (土)

小津安二郎監督『麦秋』の感想

B0b49703c131af1cbbdc7094f1b97278_2  小津安二郎の映画というと、戦後に制作された諸作での固定カメラのローアングルポジションで初老の父親が婚期の遅れた娘を嫁に出すホームドラマというイメージが強い。この「麦秋」もそのパターンで、両親と長男夫婦に二人の子ども、そして子どもたちの叔母にあたる長女が同居した三世代の家族で、婚期の遅れた長女の結婚を巡って話があって、最後に長女の結婚を機に両親が田舎に引っ込み、嫁入りの長女と三つに分割してしまうという話で、必ずしもハッピーエンドというわけでもない。かといって「秋刀魚の歌」のような寂しい終わりになるのでもない。「麦秋」のラストシーンは故郷の大和に移った菅井一郎と東山千栄子の老夫婦が並んで語り合い、菅井一郎は悟ったような、諦めたような口調で、これでいいとか、幸せだったと語り、東山千栄子は、どこか釈然としないところを残しつつ諦めたように、これでよかったのかと応える。ふと、二人が見上げると、一面に麦の穂が実っている光景に切り返す。二人は室内にいて、視線を向けたところが麦畑というのは、チグハグな印象で、几帳面なほど論理的にショットをつなげる小津作品では珍しい(しかし、この作品では頻発していて、それがこの作品を際立たせている)が、この麦畑はパンフォーカスのスーパーショットで、麦畑の広がりと奥行きと、風に揺れるその麦の穂のひとつひとつにまでピントが合っているという現在では不可能な超絶技巧を見ているだけでも圧倒される凄いものだけれど。そこで作品は終わってしまう。二人の会話はこの作品のテーマを話し合っているかのような内容のものなのに、その結論はうやむやにして、麦畑を映して終わってしまう。そこでは、結論らしきものは語られない。このラストシーンは、この作品の性格を象徴していて、作品全体を通して、そういう姿勢は一貫していると思う。
 この作品を私が偏愛しているから、かなり偏った見方をしていて、他の人は必ずしもそう感じ取るとは限らないと思うが、この作品は、上述のラストシーンについて述べたところで触れたように、例えば長女の原節子が家族の全面的な賛成を得られない嫁入りで秋田に行ってしまって、家族が分解するように分かれてしまったことについて、よかったか、そうでなかったと、どちらかともいわず、どちらでもあるし、どちらでもないという、言葉や理屈にはならないこと、だから、それは言葉で説明できないし、映像で表すこともできない、そういうものを表そうとした作品といえる。しかし、表すことはできないということを小津監督は分かっていて、そういう作品を作った。そこが「麦秋」という作品の突出したところなのだけれど、ここで小津監督は、表すことができないのだから、表さないことで「麦秋」を制作した。何か、言葉遊びをしているように思われるかもしれない。作品の中で言えば、原節子演じる長女は、28歳という設定だけれど、妙に明るく(この場合は落ち着きがなく、わざと子どもっぽく振舞っているようで)まるで中学生か高校生のように無邪気にはしゃいでいる。職場の上司から縁談を紹介されても、曖昧な態度に終始し、挙句の果てに近所の子持ちのやもめの医師との結婚を勝手に決めてきてしまう。家族から、どうしてと理由を問われても答えない。多分自身でも分からないのかもしれない。そういう不可解というか、わからないことを、分からないとしてそのまま淡々と出している。すべてが決まった後で、原節子と兄嫁の三宅邦子が砂浜を歩くシーンがある(このシーンでは小津作品の中で唯一クレーン撮影をしている。そこでは大きな驚きを見る者に与える)。そこでは、家族が分断することになったのは自分のせいだと原節子は嘆いてみせ、結婚する幸福感でいっぱいというのではなく、対する三宅邦子はただ受け容れるという姿勢で、それがいいか悪いかラストシーンの老夫婦のどっちつかずをここで示している。それは単に表面的に言葉で語ってもしょうがないことなのだ。言葉にしてしまえば、決めつけてしまうことになる。少なくとも、そこで言わないということは、原節子が結婚することを否定することにはならない。制作している小津監督も、結婚を否定することはしない。だから、少なくとも、原節子が結婚することは否定しないことで認めている。これを見ている私の側に敷衍すれば、ある行為をするということについて、たとえよい結果を招くとは限らない、むしろ悪い結果を招くことがあっても、それを事前の段階でだからと言って駄目だと決め付けられないことは、人生の諸場面で沢山ある。私たちは、日々そのような場面に出くわしている。そこで敢えて行動を起こすことがあるし、その際にちゃんと考えて判断しているとは限らない。理由なく行動してしまうことだってたくさんある。「麦秋」には、そういうところが何件も出てくる。例えば、映画には登場しない次男省二は出征したまま。終戦後年月が経って、もう帰ってこないことはほぼ確かで、諦めてはいるのだけれど、東山千栄子は未だ待っている。それは未練ではない。未練というのは、戦死したのが明らかになって帰ってこないのが分かっても待ち続けること。ここでは、帰ってこないと、はっきりさせる、見切りをつけているわけではない。それは、省二を愛しているが故のことだ。だから希望を持っているのだ。傍から見れば、希望というより願望に近いのかもしれないが、当人は、はっきりしていないことは、一方で希望になる。だから、一見、ポジティブな明るさがある。日常生活の些細なことで、そういう曖昧であるからこそ、そこで前向きになれることが、実際にある。そのとき、原節子はわざとらしいほど朗らかだし、菅井一郎の父親は何もしないで、ただ今はいい時代で幸せだと受け容れてしまう。しかも、そういうところで、スタイリッシュで几帳面な演出が身上の小津監督が、画面のつなぎをチグハグにしたり、他の作品ではほとんどしない移動撮影を挿入したりするのだ。そこでは、意図的にストーリーの論理的な構成を崩している。現実の日常の日々なんて、ストーリーが進むようにトントン拍子で話が進まないのだ。それを、この作品では、きちっとした映画の進行を崩し、映画のストーリーを進めるのに必要な言わなければならないことを敢えて言わないことで、そういうところを作ろうとしているように思える。そこで見るにゆだねようとしているのだ。だからこそ、そこに余韻が生まれる。小津作品は叙情的と評されることが多いが、他の作品では叙情を表現しているのだけれど、この「麦秋」では叙情的に見る者に提示している。そこが「麦秋」という作品の特異なところではないかと思っている。

2016年12月15日 (木)

文化財保護と経済原理とのあいだのつづき

 世界遺産ついでに、歴史的町並みといって中世とかルネサンス時代の建物がまとまって残っているものがあります。特にヨーロッパでは、文化的遺産として地元の人々や政府が誇りをもって保存に力を入れているものがあるといいます。例えば、イタリア北部のフィレンツェの街は15世紀のルネサンスのころの建物が街並みとして残っているそうです。それはそれで、結果として、それを現代の人々が物珍しいところもあって、他にはないものだからと誇る気持ちは分からないでもありません。でも、フィレンツェならば、なぜ15世紀のルネサンスなんでしょうか、それは私には疑問なのです。何故それが疑問なのか訝しく思う方もいらっしゃるでしょうか。それは、説明するとこういうことです。フィレンツェという町はイタリアの北部で古代ローマ時代からある古い町のはずです。もしかしたら、その前から集落はあったのかもしれません。つまり、ルネサンスのずっと以前から人々が集まり住んで、営みがあって、建物を建て替えたり、新築をしたりして、不断に町は様相を改めて、発展してきたと思います。古代ローマの時代にはルネサンス時代とは異なる風景が広がっていたはずです。そのようなリニューアルが何度もあって発展してきて、15世紀のルネサンス時代にいたったということだろうと思います。それは、15世紀に町を作ろうとして、その地をゼロから新たに計画して建物をたてて作られた町ではないということです。そして、そのルネサンス当時の町の姿が現代まで残ったということは、ルネサンスの後でリニューアルが行われなくなったということです。それは、15世紀の後の人々が、この姿に誇りを持って、リニューアルできるにもかかわらず、強い意志をもって敢えて15世紀のままの姿を残そうとしてきた結果なのでしょうか。むしろ、15世紀をピークにして町の発展が止まってしまって、リニューアルしたくてもできなかったというのが本当のところではなかったのかと思うのです。まあ、近代以降のある時点で、ノスタルジーとか観光資源とかいうことがあって、取り残されたような町に別の意味で付加価値がつけられたから、それで誇りを持たされたというところではないのかと思います。それは偶然のことで、別に悪いことと言いたいわけではありません。ただ、守り続けたとかいう世界遺産などでよく宣伝されるのは、後付けの作り話に近いもの(歴史とは得てして、そのようなところは多々ありますが)、というよりもそのもののように思います。つまりは、特定のひとの主観的な思い込みという点が否定できないということです。フィレンツェの町並みについて、機能性で劣るとか、古臭くて汚らしいという人がいても、価値観の違いとしか言えないわけです。別に、フィレンツェの悪口を言いたいわけではありません。
 これは、日本でも京都の町家を保存しようという考え方についても、その考えの根拠が明確に意識されているのだろうか、と思うのです。なぜ、江戸期なのでしょうか、どうして室町期ではないのでしょうか(応仁の乱の直後のまま、残っていても文化財として誇りを持てたのだろうか)、どうして平安期の庶民の粗末な街ではないのでしょうか。町並みを保存しようとして、保存したものは何なのか明確に意識されていないのではないかと思うのです。それは別の面からいえば、京都の町が経済的に発展しようとして、旧態依然の町を作り直そうとしたときに、それを止めるために作った話と言う面は否定できないのではないか。別に私は金儲けのことだけ考えて、文化とか歴史を知らない成金だからと言うわけではありません。発展と保存のどちらを選択するかというときの根拠をしっかり考えられて客観性をもたせた説明が可能であるかどうかということなのです。揶揄的な言い方をすれば、経済の発展には、どうしても少なからずイノベーションが伴うことになり、旧態のことを破壊して新しいことに置き換えなければなりません。それには勇気が必要です。そこでの勇気のない人は現状維持という反対勢力ということになります。その反対勢力にとって都合のいい理屈が文化を守れというものだからです。それは前例踏襲の現状に甘んじる姿勢を正当化してくれる都合のいい面が多分にあります。そして、そういう甘えを取り除いた上で、それでも古い町並みを保存すべきという論理を客観性をもって展開できるかというと、そういう例は聞いたことがありません。ただし、そういう古い町並みを見世物として、つまり観光資源として、それで金を稼ごうということであれば、そこに経済的な価値が生まれるわけで、それは尊重すべきことと思います。それは、人が生きていくことに直結しているわけですから。ただし、そこでもっともらしく文化的価値などと取り繕うのは、私には偽善に映ります。で、京都の歴史的町並みということであれば、なぜ町がつくられた平安時代ではないのでしょうか、そのほうが歴史的価値は高いと思うのですが、文化とか歴史とかで考えれば、納得性は高いでしょうが、原理的な議論として、そういう議論はなく、なしくずしに守ることに意義があるということになってしまっているようです。
 そこに、私は個人的に胡散臭さを感じてしまうことを止められないのです。それは、ナショナリズムについてまわる危うさとか胡散臭さと同質の匂いを感じてしまうのです。
昨日、今日と世界遺産に関連して、ネガティブなことを書いていますが、もともと、私はこのようなものには恣意性を強く感じていて、つまりは、中心となっている人々の個人的な好みの押し付けを大々的にやっているとしか見えないので、そこは、私の偏向が強く原因していると思います。

2016年12月14日 (水)

文化財と経済原則のあいだ

 世界遺産でもいいし文化財でもいいですが、文化を保存するということについて、ちょっと考えていることを画然と明確にすることができず、微妙な点もあるだろうと考えている点もあるので、読んで下さる方は分かり難いかもしれませんが、お許し願います。例えば、日本の伝統工芸なんかで無形文化財といって、織物とか染色とか陶芸などの分野で技能を継承しているケース。外国人の好きな人などからは芸術とか文化とかいわれているもので、今は後継者がいなくて悩んでいるといったことなど。よくある話だと思います。そういうものを保護して、伝統だからと保存することを目的にするといったことについてです。これ自体、文化の保存ということなので、否定するつもりはないのですが。
 一方で、このような伝統工芸は、もともとは、それが生まれた時には需要があって、それが商品として売れて、つまり、採算がとれて、それだから生産が増えて、普及して、職人が増えていったものです。それが、今は後継者に悩むということは、そういう商品としての成長がない、需要がないものになってしまっている。芸術であり、文化かもしれませんが、それに関わっても採算がとれないものになっているものです。したがって、芸術とか文化とかいうことがなければ、市場で淘汰されて消えて行ってしまうものです。私は会社員で、企業というのは経済の市場原理に従って生きているもので、そこで競争に負けてしまったら、死んだということになるという世界にいます。工芸品の商品としてみれば、その同じ世界に生きていると言えると思います。そこで、死んでしまったものが、文化財ということで保護されて残っている。つまり、私の生きている世界では、文化財としての工芸品とか技術というのはゾンビのようなものなのです。この市場と世界では、どんなに凄い技術や画期的な発想や美しいものであっても、市場での競争に負ければ退場を免れることはできません。私の長くはない会社員生活のなかで見聞きしたものでも、凄いものでも市場で負けて退場し消えたものは、数え切れないほどあります。それが一時的には一世を風靡したものであっても、現在、跡形もないものは沢山あります。そういうものの凄い技術は、商品が消えれば、当たり前のように廃れてしまいます。それは市場では当たり前のことです。むしろ、市場の原理では、そういう消えるべきものが居座るように居残っていては、新たな技術や商品が登場してくることの障害になってしまうという考え方が強いです。いわゆるイノベーションというのも、そういう考え方のひとつの形態であると思います。用無しになった旧体質に、新しいものが替わって入ってくるということになります。
 さて、そのような考え方にあって、一方で、文化であるからとゾンビが居残っている。そのために、言い方は悪いかもしれませんが、その関係の業界が寄りかかるようにして、市場に居座っている。もし、市場の立場で考えれば、同じように市場から退場したもので、一部が保護されて居座って、その他は消えてしまった。消えてしまった側の立場で考えると、文化かどうかというのは主観的なもので、それによって決められてしまう、かなり不条理なことになっているのではないかと思うことがあります。

2016年12月 6日 (火)

ジャズを聴く(42)~ハンク・ジョーンズ「ザ・グレート・ジャズ・トリオ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」

THE GREAT JAZZ TRIO AT THE VILLAGE VANGUARD    1977年2月14日、15日録音
Jazhank_great  Moose The Mooche
 Naima
 Favors
 12+12
 Confirmation
 Wind Flower
 Nardis 
 Lawra
 Hank Jones (p)
 Ron Carter (b)
 Tony Williams (ds)
 自分の息子より年下なんじゃないかと思われる元気いっぱいのドラマーとベーシストにあおられて、80歳になろうとしていたハンク・ジョーンズは、元気にドライブするピアノを弾いている。「サ・トリオ」でのプレイや、様々なプレイヤーのサイド・メンとしての録音から、元来が、端整で、控えめながらも、上質な味わいと芳香を放つピアノだということには異論はないとおもうが。そういうイメージをよい意味で裏切るエネルギッシュなプレイを聴くことができる。
 例えば、最初の「Moose The Mooche」はチャーリー・パーカーのオリジナルで、ビバップの定番中の定番だが、ピアノの溌剌としていること。トニー・ウイリアムスのシンプルなドラミングに導かれたテーマ部分から早いテンポで繰り広げられるモダンジャズの典型的なピアノトリオ演奏。「I Got Rhythm」のコード進行に基づく曲メロのフェイクや再構築から生み出される歌心満点のアドリブフレーズを優雅なタッチで披露するという、まさに匠の技。後半は、トニー・ウィリアムスのドラムソロは元気いっぱい。次の「Naima」はコルトレーンの有名なナンバーを、原曲のまったりとしたイメージを覆すような静謐なバラードから中盤の盛り上がりというドラマチックな曲調の変化がある。前半では、ピアノの音のひとつひとつが立っているのを際立たせるような、音数を絞って、ロン・カーターのベースが「ンボ、ンボ、ンボ、ンボ…」のルート弾きがリズミックな効果を増長し、中盤、盛り上げていく。「Favors」は、軽快でさわやかなメロディのテーマのあと、軽やかにスイングしていくように歌心溢れるアドリブを紡いでいくジョーンズ。続く、ベース・ソロが無機的なのは残念だが、ジョーンズのピアノはここでは、若い二人を音楽性で引っ張っている。「Nardis」はビル・エヴァンスの代表的なナンバーを、リズムが推進するような力強い曲になってしまう。とはいえ、メロディの美しさはジョーンズのピアノが一本筋を通すように、演奏していて、凛とした演奏になっている。このアルバム1枚で、ハンク・ジョーンズというピアニストの全貌が分かるわけではないし、慎み深い彼の本質が半減してしまっていることは否めないが、良い意味で彼のアグレッシヴな一面が引き出されていると思う。

2016年12月 5日 (月)

ジャズを聴く(41)~ハンク・ジョーンズ「ハンク・ジョーンズ・カルテット-クインテット」

 ハンク・ジョーンズは、3人の有名なジョーンズ兄弟(サド、エルヴィンと彼)の年長者で、第二次世界大戦後に登場したデトロイト出身の偉大なピアニストたち(トミー・フラナガン、バリー・ハリス、ローランド・ハナ)の先駆者でもあった。実は、彼らは、そのずっと以前に街を出ていたのだけれど。ジョーンズはティーン・エイジャーの間はローカル・バンドで演奏していたが、1944年にトランペット奏者のホット・リップ・ページと演奏するためにニューヨークに出てきた。彼は、ジョン・カービー、ハワード・マギー、コールマン・ホーキンス、アンディ・カークそしてビリー・エクスタインとの演奏を行なった。ジョーンズの演奏スタイルは、テディ・ウィルソンやアート・テイタムの影響を受けたもので、ビバップの影響もまた受けていた。そして、彼の演奏の間口は広くて、多くのジャンルに適合できる柔軟さがあった。彼は、1947年に始まるジャズ・アット・フィルハーモニック・ツァーに参加し、1948年から53年にはエラ・フィッツジェラルドの伴奏を勤め、チャーリー・パーカーの録音にも参加している。1950年代には、ジョーンズはアーティー・ショー、ベニー・グッドマン、レスター・ヤング、キャノンボール・アダレイその他多くのミュージシャンと演奏している。彼は、1959年から1976年の間、CBSスタジオのスタッフ・ピアニストだったが、ジャズの世界でも活発に活動を続けていた。1970年代後半には、ブロードウェイ・ミュージカル「エイント・ミスビヘイブン」のピアニストをつとめ、グレート・ジャズ・トリオと称した一時的なトリオで録音を行なった。このトリオは、ベースのロン・カーター、バスター・ウィリアムス、エディ・ゴメスやドラムスのトニー・ウィリアムス、アル・フォスター、ジミー・コブが、その時々に参加するというものだった。ハンク・ジョーンズは様々なレコード会社でリーダーとしてアルバムを録音している。
Hank Jones QUARTET-QUINTET        1955年11月1日録音
Jazhank_quartet  Almost Like Being In Love
 An Evening At Papa Jone's 
 An' Then Some
 Summer's Gone
 Don't Blame Me
 Hank Jones (p)
 Donald Byrd (tp)
 Matty Dice (tp)
 Eddie Jones (b)
 Kenny Clarke (ds)
 ハンク・ジョーンズがリーダーとなったカルテットとクインテットといった2種類のフォーマットの演奏が収められている。ハンク・ジョーンズのピアノは地味で、リーダー作にもかかわらず、特にピアノのプレイをクローズアップするような見せ場は設けず、ひたすらメンバー全員が心地よくスイング出来ればそれでいいじゃないか、といった声が聞こえてきそうな、淡々と、そしてしっかりと“演奏の五分の一”あるいは、“四分の一”として溶け込んでいる。だから、派手なプレイや、ハッタリは一切していない。端正で、上品。しかし、控えめなプレイの中にも、耳をそばだてずにはいられない「力」がある。裏方に徹しながらも存在感を放っている。まあ、ハンク・ジョーンズの名盤として、ここで紹介しているから、どうしてもジョーンズのピアノを注目してしまうのだが、そのような先入観を持たなければ、このアルバムはトランペットを聴くべきものと思ったほうがよい。
 最初の「Almost Like Being In Love」ではイントロなしにトランペットで軽快なテーマが吹かれて、そのままトランペットのソロに入るが、ドナルド・バードの歌心に溢れたソロは聴き応えがある。ジョーンズのピアノ・ソロが続くのだけど、控えめで端正なピアノは、とても趣味がいいもので、むしろ、トランペットをうまく引き立てているといったものだ。後半、トランペットとドラムが絡んで白熱していくけれど、趣味のよさを失うことなく、ドナルド・バードの歌心あるプレイを生かしている。次の「An Evening At Papa Jone's」は、スローで気だるいブルージーなナンバー。ベースの短いイントロに続いて、2本のトランペットがユニゾンでアーシーなテーマを吹奏、すぐにハンク・ジーンズのピアノのソロに入る。曲が粘着質なブルースなだけに、ハンクの淡泊なスタイルが爽やかに感じられ、ケニー・クラークの控えめで上品なドラムも、そしてエディ・ジョーンズの堅実で一音一音地面に楔を打つような安定したベースも、ハンク・ジョーンズらの繰り出す、端正で穏やかな世界作りに貢献している。トランペットにソロが引き継がれ、ベース、さらにトランペットと続くが、ここでの2人のトランペット奏者の区別がつかないほど、メンバー全員がでしゃばらずに落ち着いたプレイをしているのは、ハンク・ジョーンズ効果とでも言うべきなのかもしれず。次の「An' Then Some」もブルース・ナンバー。ミディアム・テンポで進み、トランペットの歌心あるソロが味わい深い。

2016年12月 4日 (日)

ジャズを聴く(40)~ハンク・ジョーンズ「ザ・トリオ」

Jazhank  ハンク・ジョーンズはピアノ奏者。ニュー・ヨークやシカゴといった大都会に比べると地方都市ということになるデトロイトで、ローカルなジャズ・シーンを作っていた小規模な人の輪の中から、何人かのメジャーなミュージシャンが輩出された。その中心にいたのが、彼ハンク・ジョーンズを長兄とする兄弟で、他にも、サド・ジョーンズ、エルヴィン・ジョーンズは彼の弟に当たる。一方、ピアニストであるハンク・ジョーンズの周囲には、同じようにバド・パウエルのスタイルに影響を受けたピアニストが集まった。バリー・ハリス、トミー・フラナガンといった人々。彼らは、パウエル派ということで一緒くたにされて、これらのピアニストたちは、他のプレイヤーのサイドメンとして伴奏をつとめることが多かった等の事情があって似ている点が多い。これは、彼らの演奏そのものではないが、彼ら、3人のピアニストは、3人とも“玄人受けするミューしシャン”とみなされている点で共通している。つまり、彼らの魅力は、ある程度ジャズを聴き込まないと分からないものであり、ジャズのイロハを知っているくらいのリスナーには、演奏全体から放たれる雰囲気、ソロに特徴的なダイナミクスや、聴き手の想像力を掻き立てるスタイルの違いを味わうのは難しい、ということだ。彼ら3人とも、若いころは他人の伴奏で数多くのレコーディングに参加している点でも共通していて、そのせいか、バリバリ弾いて、自分の個性を強烈に主張するタイプでなく、共演者を引き立てながら全体の演奏を組み立てていくところも似ている。そういう演奏の性格から特徴的な個性、これといったものを、分かり易く呈示してくれていない。そういうところが“玄人受けするミューしシャン”と称されてしまう由縁だろうと思う。
 とはいえ、ハンク・ジョーンズというピアニストに個性がないということはない。そうでなければ、ジャズ・シーンで生き残ることはできなかったし、メジャーなピアニストとして称賛される存在にはならなかったはずだ。と言うこともあり、なかなか分かり易いとはいえない、彼の演奏の特徴について、バリー・ハリスやトミー・フラナガンと比べながら述べていくと、多少は分かり易いかもしれない。
 ハンク・ジョーンズは尊敬するピアニストとして、ファッツ・ウォーラー、アート・テイタム、バド・パウエル、アル・ヘイグの名前をあげているという。彼の演奏スタイルは、基本的には、1930年代末から40年代初頭にかけて流行したテディ・ウィルソンやナット・キング・コールのスタイルから派生したものと言われている。そこが単純にパウエル派と決めつけられない点だ。彼のハープのように軽快なタッチは、鍵盤を叩くのではなくピアノの弦を爪弾いているように聞こえる。また、優雅に抑制されたシングル・トーンのスタイルは、バド・パウエルの影響によりその美意識を再構築したものだ。これによって、彼は、どんなスタイルの演奏でも合わせることができだけでなく、アーティ・ショウからジャッキー・マクリーンまでどんなスタイルの器楽奏者をも、刺激し鼓舞することもできる柔軟性を備えることができた。例えば、キャノンボール・アダレイのアルバムでの「枯葉」の洗練された伴奏に、その典型的な演奏を聴くことができる。その控えめで繊細なところはトミー・フラナガンに似ているところもあるが、ソロの部分では上昇するフレーズと下降するフレーズをうまく結びつけて、アダレイのサックスに滋味を加えている一方で、器用にファンキーなタッチをまじえて、ビートを後押しするようにリズムを強調するといったアクセントを巧みに加えている。
 パウエル派といえば、ワイルドなサウンドを前面に出すようなイメージがあるが、ハンク・ジョーンズは穏やかで、無理に出しゃばることなく、共演者をうまくサポートしながらも、ときおりキラリと個性を光らせるタイプといえる。
The Trio    1955年8月4日録音
Jazhank_trio  When Hearts Are Young
 We Could Make Such Beautiful Music Together
 We're All Together
 Cyrano
 Odd Number
 There's a Small Hotel
 My Funny Valentine
 Now's the Time
 Hank Jones (p)
 Kenny Clarke's(ds)
 Wendell Marshal(b)
 ハンク・ジョーンズの脂の乗りきった頃の録音……と書くと、ガンガン弾くように思われるかもしれないが、しっとりとしていながらキラキラ光るタッチがたまらなく良い。ジョーンズのプレイは、迫力を大きな売り物にしていた当時の主流的なジャズとは一線を画するものだった。その主流というのは、バド・パウエルで代表されるように、勢いのあるタッチとスピーディーなフレーズをスタイルの特徴にしていた。その中で、ジョーンズのブレイはむしろ穏やかなサウンドに個性を表出するタイプのものだった。ハープのように軽快なタッチは、鍵盤を叩くのではなくピアノの弦を爪弾いているように聞こえる。そのようなタッチで弾かれるのは、優雅に抑制されたシングルトーンのスタイルだった。
 サヴォイ・レーベルのセッション録音で多くのソロ・プレイヤーをサポートしていたメンバーで構成されたハンク・ジョーンズのトリオは、息の合った演奏で穏やかなジョーンズのピアノを引き立てている。そのようなサポートを得て、ハンク・ジョーンズは絶妙なスイング感に加えてよく歌うフレーズを駆使し、ご機嫌なソロを繰り広げる─上品なサウンドであるが、ジャズの醍醐味やスリリングな展開も認められる。ミディアムテンポの曲では、滑らかなペースと完璧な手首をコントロールしたブラッシュがスキップしながら歩いているようだ。バラードでは、華麗で軽くかき鳴らすコードと鈴のようなオクターブを使ったピアノのメロディラインと絡み合って、クッションの効いた音楽を作り出している。

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