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2016年12月17日 (土)

小津安二郎監督『麦秋』の感想

B0b49703c131af1cbbdc7094f1b97278_2  小津安二郎の映画というと、戦後に制作された諸作での固定カメラのローアングルポジションで初老の父親が婚期の遅れた娘を嫁に出すホームドラマというイメージが強い。この「麦秋」もそのパターンで、両親と長男夫婦に二人の子ども、そして子どもたちの叔母にあたる長女が同居した三世代の家族で、婚期の遅れた長女の結婚を巡って話があって、最後に長女の結婚を機に両親が田舎に引っ込み、嫁入りの長女と三つに分割してしまうという話で、必ずしもハッピーエンドというわけでもない。かといって「秋刀魚の歌」のような寂しい終わりになるのでもない。「麦秋」のラストシーンは故郷の大和に移った菅井一郎と東山千栄子の老夫婦が並んで語り合い、菅井一郎は悟ったような、諦めたような口調で、これでいいとか、幸せだったと語り、東山千栄子は、どこか釈然としないところを残しつつ諦めたように、これでよかったのかと応える。ふと、二人が見上げると、一面に麦の穂が実っている光景に切り返す。二人は室内にいて、視線を向けたところが麦畑というのは、チグハグな印象で、几帳面なほど論理的にショットをつなげる小津作品では珍しい(しかし、この作品では頻発していて、それがこの作品を際立たせている)が、この麦畑はパンフォーカスのスーパーショットで、麦畑の広がりと奥行きと、風に揺れるその麦の穂のひとつひとつにまでピントが合っているという現在では不可能な超絶技巧を見ているだけでも圧倒される凄いものだけれど。そこで作品は終わってしまう。二人の会話はこの作品のテーマを話し合っているかのような内容のものなのに、その結論はうやむやにして、麦畑を映して終わってしまう。そこでは、結論らしきものは語られない。このラストシーンは、この作品の性格を象徴していて、作品全体を通して、そういう姿勢は一貫していると思う。
 この作品を私が偏愛しているから、かなり偏った見方をしていて、他の人は必ずしもそう感じ取るとは限らないと思うが、この作品は、上述のラストシーンについて述べたところで触れたように、例えば長女の原節子が家族の全面的な賛成を得られない嫁入りで秋田に行ってしまって、家族が分解するように分かれてしまったことについて、よかったか、そうでなかったと、どちらかともいわず、どちらでもあるし、どちらでもないという、言葉や理屈にはならないこと、だから、それは言葉で説明できないし、映像で表すこともできない、そういうものを表そうとした作品といえる。しかし、表すことはできないということを小津監督は分かっていて、そういう作品を作った。そこが「麦秋」という作品の突出したところなのだけれど、ここで小津監督は、表すことができないのだから、表さないことで「麦秋」を制作した。何か、言葉遊びをしているように思われるかもしれない。作品の中で言えば、原節子演じる長女は、28歳という設定だけれど、妙に明るく(この場合は落ち着きがなく、わざと子どもっぽく振舞っているようで)まるで中学生か高校生のように無邪気にはしゃいでいる。職場の上司から縁談を紹介されても、曖昧な態度に終始し、挙句の果てに近所の子持ちのやもめの医師との結婚を勝手に決めてきてしまう。家族から、どうしてと理由を問われても答えない。多分自身でも分からないのかもしれない。そういう不可解というか、わからないことを、分からないとしてそのまま淡々と出している。すべてが決まった後で、原節子と兄嫁の三宅邦子が砂浜を歩くシーンがある(このシーンでは小津作品の中で唯一クレーン撮影をしている。そこでは大きな驚きを見る者に与える)。そこでは、家族が分断することになったのは自分のせいだと原節子は嘆いてみせ、結婚する幸福感でいっぱいというのではなく、対する三宅邦子はただ受け容れるという姿勢で、それがいいか悪いかラストシーンの老夫婦のどっちつかずをここで示している。それは単に表面的に言葉で語ってもしょうがないことなのだ。言葉にしてしまえば、決めつけてしまうことになる。少なくとも、そこで言わないということは、原節子が結婚することを否定することにはならない。制作している小津監督も、結婚を否定することはしない。だから、少なくとも、原節子が結婚することは否定しないことで認めている。これを見ている私の側に敷衍すれば、ある行為をするということについて、たとえよい結果を招くとは限らない、むしろ悪い結果を招くことがあっても、それを事前の段階でだからと言って駄目だと決め付けられないことは、人生の諸場面で沢山ある。私たちは、日々そのような場面に出くわしている。そこで敢えて行動を起こすことがあるし、その際にちゃんと考えて判断しているとは限らない。理由なく行動してしまうことだってたくさんある。「麦秋」には、そういうところが何件も出てくる。例えば、映画には登場しない次男省二は出征したまま。終戦後年月が経って、もう帰ってこないことはほぼ確かで、諦めてはいるのだけれど、東山千栄子は未だ待っている。それは未練ではない。未練というのは、戦死したのが明らかになって帰ってこないのが分かっても待ち続けること。ここでは、帰ってこないと、はっきりさせる、見切りをつけているわけではない。それは、省二を愛しているが故のことだ。だから希望を持っているのだ。傍から見れば、希望というより願望に近いのかもしれないが、当人は、はっきりしていないことは、一方で希望になる。だから、一見、ポジティブな明るさがある。日常生活の些細なことで、そういう曖昧であるからこそ、そこで前向きになれることが、実際にある。そのとき、原節子はわざとらしいほど朗らかだし、菅井一郎の父親は何もしないで、ただ今はいい時代で幸せだと受け容れてしまう。しかも、そういうところで、スタイリッシュで几帳面な演出が身上の小津監督が、画面のつなぎをチグハグにしたり、他の作品ではほとんどしない移動撮影を挿入したりするのだ。そこでは、意図的にストーリーの論理的な構成を崩している。現実の日常の日々なんて、ストーリーが進むようにトントン拍子で話が進まないのだ。それを、この作品では、きちっとした映画の進行を崩し、映画のストーリーを進めるのに必要な言わなければならないことを敢えて言わないことで、そういうところを作ろうとしているように思える。そこで見るにゆだねようとしているのだ。だからこそ、そこに余韻が生まれる。小津作品は叙情的と評されることが多いが、他の作品では叙情を表現しているのだけれど、この「麦秋」では叙情的に見る者に提示している。そこが「麦秋」という作品の特異なところではないかと思っている。

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