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2017年1月10日 (火)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(6)~Ⅳ.独断と偏見によるクラシック音楽を聴く時の「意味」(3)

④音楽は自由だについて
 かなり前ですが①の最後のところで少し触れたことについて、ここで考えてみたいと思います。自由というと、勝手気儘に音楽を聴いていい、というように受け取られるかもしれません。それでは前章の最後で述べたことと矛盾します。しかしここではまず、二つの次元で考えてみます。
 第一の自由は表現の自由とも言えるもので、表現と意味の間にみられるものです。これは①のところで述べたことです。つまり、ある音形がある意味を分節し形成したとして、この意味の内容とその音形の間には、必然的なつながりはないということです。つまり、表現と意味は表裏一体といいながら両者の間には、論理的な必然性などないのです。ではどうして、表現と意味は表裏一体といったことと矛盾しないのでしょうか。自由というのは、個人の勝手気儘というのではなく、例えば自然法則のように所与の必然ではないということです。表現と意味の結びつきは、人間の社会的営みの中で積み重ねられた文化によるものなのです。ですから逆説的な言い方ですが、表現と意味の絆の必然は、それが自由であるがゆえなのです。
 これに対して、第二の自由は、価値の自由とでも言うべきものです。前のⅢのところで、音楽の個々の音あるいは音形の存在価値は全体としての音楽との関係や他の音や音形との関係から決定されることをお話しました。つまり、ある音形が深遠な思想を表わしているというような音楽以外のところに存在する価値が反映していたり、音形そのものに個別絶対の価値があると言ったことはないわけです。それは、ひとつの自立した閉じた体系の中での相対的なものです。ですから同じ音形を別の音楽作品の中で用いた場合、その音形の価値は全く違ってくると言えるのです。また、音楽というものは、それに関わる人間の視点に依存するということを前章で明らかにしましたが、価値を決定する体系自体も、最終的には視点に左右されるということになります。このように、音の存在価値について、自然法則のような必然的なルールはないのです。むしろ、聴き手である私の視点のほうが音楽という体系によって規制されていることも考えられ、私は音楽外の現実を音楽を通して捉えているとも言えるのです。これが、価値の自由です。
 ここでの二つの次元での自由についてです。表現と意味のむすびつきによって表わされたものは、元々音楽という体系の網をかけることによって現われたものなのです。そこで表現と意味というのは、あくまでも音楽という体系の中でのこととなります。それゆえ、表現の自由は価値の自由の結果的産物と言うことができます。この第二の自由が、価値の恣意性ということであるなら、価値を生ぜしめる関係としてのタテとヨコの関係のいずれともかかわっているということは、当然言えることです。
 ところで、ここでの自由というのは、個人の勝手気儘ではなく、謂わば人間のつくる社会でのルールみたいな人工的な、もっと端的に言えば便宜的なものだということは前に述べました。しかし、これがルールをつくった社会の中で、個人にとって、それがつくられたものではなく、元からあった絶対的必然的なものとして感じられる、という転倒した事態が起こります。ルールがつくられた当初の生き生きとしたところを失い、惰性と化して、個人には拘束としか感じられなくなる。個人の意識の中で、ある音や音形と、特定の感情やイメージが分かち難く結び付いてしまっている。本来相互的な、表現と意味がそれぞれ独立して実体を持って存在しているかのように受け取られてしまう。それだけならまだしも、音楽という体系が視点によりかたちづくられたものではなく、あたかも実体があるかのように受け取られてしまうということがあります。
 これは、本来なら個人の内発的な活動であるべきものが、押しつけられたもの、自分とは無縁な必然の世界にがんじがらめに閉じこめられたものとなってしまったことによると言えます。例えば、音楽を作曲家や演奏家の具体的な感情や思想を伝達する手段と見做してしまう立場などは、そう言えるのではないでしょうか。もっと卑近な例で言えば、解説書に書かれていることを、唯一無二金科玉条の如くみなして、その通りに音楽を聴こうとする。それ以外を間違いとするような立場があてはまると思います。
 このような転倒した事態においてさえ、それが如何に必然的に見えようとも、表現の自由のところで述べた通りで、表現と意味の必然性はそれが自由である限りにおいてなのです。つまり、個人が社会というものを形成する過程において、営々と積み上げられてきた共通の文化の中においてのみ必然のように見えるのです。必然などと言ってももとをただせば単なる約束事なのです。でなければ、音楽表現の進歩などということは、不可能になります。このような約束事は個人の活動の集積です。だから約束事を変えるのもまた個人の行為であるはずなのです。たしかに自由というのは、勝手気儘ではありません。しかし、だからと言って、音楽を教科書通りに聴く必要などないはずです。何と言っても、それは人間のつくったものなのですから。

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