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2017年1月20日 (金)

クラーナハ展−500年後の誘惑(5)~4.時を超えるアンビヴァレンス─裸体表現の諸相

Cranachvenus  ここからが核心部分です。主催者のあいさつやポスターの惹句に触れられているクラーナハの特徴、“特異なエロティシズム”とか“官能的”というのは、ここで展示されている裸体像から受けるイメージだろうと思います。
 「ヴィーナス」という作品です。“ニュートラルな黒い背景のなかに立つ、華奢な裸婦の魅惑、彼女は自身の恥部を、透きとおった布で覆っている。が、それは覆いとしての用をなさない。クラーナハはその布とともに、このヴィーナス像が観者に対して発するエロティックな刺激を強調してみせるのである。明るく照らされた肌は、暗い背景とコントラストを生み、優美な曲線の輪郭を浮かび上がらせる。それによって、品よくかたちづくられた柔らかな身体の動きが際立つのだ。これらと全く異質なかたちの戯れをなすのは、透明なドレイバリーが刻む繊細な襞である。それらは観者の視線を暗い背景から、本来であれば覆い隠されるべき身体の部位へと誘う。このように女性の刺激を攻撃的なまでに放つ表現は、美術史家たちが異口同音に語るところでは、ただひとつ、このヴィーナス像にのみ導入されているのである。”解説の説明を引用しましたが、そういうものだろうなという特徴をもれなく伝えていると思います。ただし、ここで説明されていることは、結果論としての議論と言えます。クラーナハの「ヴィーナス」が官能的であるであるという結果から、その要素を探し出しているという文章です。ここでは、クラーナハが官能であるとして、その官能の内容とか性格、つまり、どのようなものかは説明されていません。例えば、同じヴィーナスの裸体を描いたフィレンツェ・ルネサンスのボッティチェリとの違いは、恥部を隠しているかいないかだけではないはずです。というよりも、私にはクラーナハの作品に官能性を感じられるのか疑問が残るのです。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に官能性を感じた人がクラーナハの「ヴィーナス」に果たして官能性を感じるのでしょうか。疑問を感じます。私の個人的な好みかもしれませんが、ボッティチェリのヴィーナスの方が女体としてアピールする要素をひととおり備えているように見えます。これに対して、クラーナハのヴィーナスにはボッティチェリのヴィーナスのように女体としてアピールする要素を満遍なく備えてはいないのです。例えば、引用した解説が触れている肌の色について見れば、ボッティチェリのヴィーナスの方が仄かに赤らむ艶やかさがあります。むしろ、クラーナハの方は蒼白く、硬い磁器のような感じがします。そこには、生き生きと息づき、発散するような生気がないのです。おそらく、クラーナハのヴィーナスに官能性を感じるという人は、そのような不完全さのところこそが、大きく惹きつけられるものなのだろうと思います。もし、ボッティチェリもクラーナハの作品そのものの女性が現実に目の前に現れたとして、そのどちらに惹かれるでしょうか。偏見かもしれませんが、男性が対する場合に、たとえ作品ではクラーナハの作品の方を好む人であっても、それが現実の女性ということになれば、ボッティチェリの女性の方を抱きたいと思うのではないでしょうか。極論になりますが、単純化して言うと、ボッティチェリのヴィーナスの官能性というのは官能的な女性を描いたというものであるのに対して、クラーナハの場合には、描いたものが官能的に見えるというものになっていると思います。
Bottivenus  細かいところの話からになってしまいますが、さきに例示したヴィーナスの肌を例にとって、クラーナハの作品に対しての私の感じ方を説明し易いので、ここで少しこだわることにします。前のコーナー、クラーナハの肖像画のところで、クラーナハの作品の人物が規格化、記号化される傾向があると述べました。つまり、人物をありのままに描くのではなく、描かれたものが人物と分かればいいのです。しかも、それが分かり易いのであればなおいい。まどろっこしいと思われるかもしれません。この二つが分けられることなく、二つとも兼ね備えた作品もたくさんあります。しかし、クラーナハの作品はそうではない。そのことは肖像画のところで述べましたが、それは作品の作られ方が、芸術作品であると同時に工業製品のような作られ方もしているというところからです。しかし、そのような規格化された人物表現からどうして官能性を感じることができるのでしょうか。それは、実際の女性の魅力として滑らかで柔らかな肌の艶を、そのまま作品に定着させることができれば、そこに女性の魅力が表されているといえます。ところが、それをリアルに表現するということは並大抵のことでは、できないと言えます。それを表すために画家たちは工夫や修練を重ねて、巨匠と言われる人は独自の表現で、それぞれに行なっているわけです。しかし、それを工房で巨匠でない職人が同じレベルでやるのは不可能に近い。そうであれば、規格化された描かれた人物に官能性が感じられるような仕掛けを考えることになります。クラーナハのヴィーナスの肌が蒼白く硬い磁器のようなのは、そういう仕掛けのためではないかと思われるのです。それは、ヴィーナスの背景が黒く塗られた抽象的な背景で、暗闇のような雰囲気を作り出していることと関係しているのです。つまり、この青白い肌は、それ自身が官能的というよりも、黒く塗られた背景との関係で官能性を生んでいると思えるのです。肌の白さは背後の黒い世界の中で際立って浮かび上がってくるように目に映ります。もし、かりにボッティチェリのヴィーナスのような赤みを帯びたグラデーションのある肌色がここにあっても、なかなか、それと分からないと思います。ボッティチェリのヴィーナスは地中海の輝かしい陽光に照らし出されるもので、このような暗い世界の中では、視野が限られてしまって、折角の肌がみえにくくなってしまいます。これに対して、クラーナハの不健康なほどの蒼白さは暗闇の中では、印象的に目立つのです。しかも、暗いところでは微妙な陰影まで見分けることができません。だから白一色がベタ塗りのように一様に塗られているほうが識別し易いのです。そこでグラデーションは最小限に抑えるほうが効果的ということになります。そういう描き方であれば、何も巨匠の芸術家でなくても、それなりの技術のある職人で十分です。これは、日本人であれば理解できる美意識ではないかと思いますが、昔の日本女性の美人条件は瓜実顔で色白の肌というのがありました。それは暗い日本の室内では、白い顔が浮かび上がり、顔の輪郭がハッキリしているタマゴ形の輪郭で、鼻が低くて平面的なほうが白い顔をよく見えるので、印象的なのです。クラーナハのヴィーナスも同じような効果で印象的に見せているといえます。また、身体つきについても、乳房が小さいのも、身体の凹凸による陰影をつけるよりも平面のようにして白い身体の輪郭を暗闇から際立たせるために必要だったというわけです。逆に下腹部が大きくなっているのは、その部分は横の広がりがあるため、凸凹の陰影でなくて輪郭でそうとわかる強調ができるためで、そこで女性らしい身体の輪郭を強調しているためと考えられます。
Cranachdiana  そうであれば、恥部を隠さずに“透きとおった布で覆っている。が、それは覆いとしての用をなさない。”ことの説明もできると思います。それは、以前にも触れたような、画面について見る者の視線を誘導する効果を狙っての仕掛けと考えることができると思います。あるかないか分からないような、薄い透きとおった布で蔽われていれば、何かがあると見る人の視線は、却って引きつけられます。そのひきつけられた先は恥部なわけです。意図的に、人々の視線を集めるような構成になっているわけです。その動きにしたがって恥部に視線を導かれることにより、女性の官能性ということに見る者は導かれることになるというわけです。したがって、このような画面の作り方をすれば、その描く対象は何でもいいということになります。重要なのは、画面のつくり方、描き方です。従って、描く対象が異なり、作品タイトルが違うものの、同じパターンの作品が量産できることになるわけです。
 クラーナハ(子)「ディアナとアクタイオン」という作品は、上で述べたクラーナハの官能性についての、自己パロディのような作品になっています。ここで描かれている裸婦たちは、一様です。この群像の中で、誰が女神アルテミスであるか見分けがつきません。それぞれの女性は女性の官能性の記号のようになっていて、それぞれの女性の個性とか存在感は考慮されていません。
Cranachninfu  「泉のニンフ」という作品です。ここには、「ヴィーナス」に加えて、さらに手の込んだ仕掛けがあるようです。解説で説明されていることを拾うと、女性の身につけている装飾品や頭の下に敷いている赤いビロードの衣装は、描かれた当時の16世紀のもので、古代のニンフではなくて、同時代の女性であることを明らかにしていること。画面左には、ラテン語の銘文があって、そこには「われは聖なる泉のニンフ。われは憩う。わが眠りを妨げることなかれ(FONTIS NYMPHA SACRI SOMNVM NE RVMPE QUIESCO)」と書かれていて、見る者は自身の欲望を自覚させられる、というのも、見る者はニンフの穏やかな眠りを妨げぬように欲望を抑えることを要求されていることになっていること。画面右手の樹木には弓と矢筒が吊り下げられ、その下方にはヤマウズラのつがいがいるのは狩猟の女神ディアナの存在を暗示しているが、ディアナはニンフたちに、誰にも裸を見せてはいけないと命じた女神であること(前の作品である「ディアナとアクタイオン」は誤ってディアナの裸を見てしまったアクタイオンは、その報いで女神に嬲り殺される)。また、この作品のニンフのポーズはほぼ同時代のティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」に代表されるような恥じらいのヴィーナスのポーズです。両者を比べると生々しさの違いが分かります。それも含めて、私には、クラーナハの作品を見ていると、官能性にということについて、操作的である、つまり観念性を感じる、ということはメタレベルで官能性とは、どのようなことであるかを意図的に試して、その観念に従って人工的に作ろうとしているように思えてきます。そんな面倒なことは、クラーナハと同時代の人々は考えもしなかったと思います。しかし、現代の私にとって、クラーナハの作品を見る意味は、そのような屈折したところにあるのではないかと思われてくるのです。
Cranachvenus2

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