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2017年1月 7日 (土)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(4)~Ⅲ.クラシック音楽をもとに音楽の在り方を考える(2)

④音楽は対立を内包した体系
 音楽の音は音楽という体系によって意味付けされる、つまり価値を付与されることによって、物理的な音から[意味]をもつ音楽の音となります。これは、どういうことでしょうか。例えば、私が買物で、一冊の本を買うとします。私はその本に買うべき価値を見出だしたわけです。他に沢山の本がある中で、その本だけを特別のものとして、他から区別したのです。但し、この本の価値は、絶対的なものではなく、私という視点から見出だされた相対的なものにすぎません。げんに私以外の人は、その本を手に取ることもしないことだってあるのですから。つまり、私は自分の視点により、沢山の本の中から、一冊の本を他の本とは区別し、他とは違うということで、買うべき価値を与えたということになります。音楽という価値付けの体系も、これと同じ働きをします。
 音楽の中の音は、それが音である限りにおいて、皆同じです。まして、前章でものべたように、音それぞれの価値は、その音に固有のものではありません。ですから、個々の音を単独で取り出してみれば、その価値は同一なのです。この時、それぞれの音の価値は、私が沢山並んだ本の中から一冊の本を他とは違うと区別したことにより価値を見出だしたように、他の音とは違うということで決まるのです。[意味]付けとは、そういう働きです。音楽の音達は、相互に同一でありながら、他方でお互いの違いにより区別される、という相反するものの対立のなかにあります。音楽という体系は、このような対立を常に中にもっているのです。価値付けるということは、区別するということであり謂わば、差異を生み出すということで、この対立はこのような働きの前提となるものです。つまり、対立が価値を生み出すのと思うのです。
⑤関係とは何か
 音楽の音は、音楽という体系の中で価値付けられている、前章で述べました。それが、どういうしくみなのか、ここで少し考えてみたいと思います。前章で述べた通り、価値というものは固有の実体はないのです。あくまで、体系の関係の中で相対的にあたえられるのです。ということは、関係のしかたによって、価値というものの在り方もかわってくるわけです。音楽を私が聴くとき、ある音を美しいと思うか否かは、その音自体の絶対的な美しさというよりは、私の聴き方によって決まる、と思うのです。関係とは、この場合、私の聴き方に相当します。
⑥タテの関係とヨコの関係
A)タテの関係
 関係というものの現われ方で、まず考えられるのが顕在的なタテの関係です。ここでまた、少し脇道に逸れて、言語のことを考えてみましょう。たとえば[太郎が花子をなぐった]という出来事があったとします。現実に起こったことは、太郎の手が振り上げられ、それが空間を移動し、花子に到達したという過程です。これを図式的に捉えれば[太郎]から発した[なぐる]という行為が[花子]に到達したということになります。これをそのまま言語に置き換えてみると[太郎]─[なぐる]─[花子]という順番になります。ところが、この順番では日本語としては不自然に感じられます。つまり、[太郎]─[なぐる]─[花子]の過程という現実とは別に、言語は固有の規則のようなものを持っていると考えてよいのではないでしょうか。このように、単語では言葉が規則に従って配列され、それが文という関係を成し、そこに意味が表れてくると考えられます。ここでの、個々の単語の意味は、文での位置や他の単語との関わりによって生まれます。[なぐる]という単語が現実の[太郎]の行為と結びつくと聞き手に理解されるようになるわけです。このような表れ方をタテの関係と呼ぶことにします。但し、音楽と言語とは違います。音楽の場合は、言語ほど規則が厳しくはないと思います。音楽は単一の音の配列に収まりきるものではありません。主旋律のみならいざしらず、伴奏がつけば、そこに和声のつながりが生じ、また対位法的に複数の配列が並存したりします。しかし、聴き手の耳の前に表れて音の価値、関係を明らかに示すのがタテの関係であることは同じです。
B)ヨコの関係
 私が音楽を聴く場合、よく次の音を予想することがあります。ある旋律を途中まで聴いていて、次にはこんな風になりそうだ、この音がきそうだ、というようにです。それは、たいてい外れるのですが。これって結構楽しいものだったりして…。さて、旋律という中で、音は各々価値をもたされています。それを聴く私は、先の音を予想する中で、一つの視点で続くべき価値をもったある音を選択したわけです。ところが、実際は違う音が選択されていました。つまり、音楽として私の前に現われている音は、その背後に選択されてもいいのに選択されなかった音の群れを隠しているのです。この表れた音と、隠れた音群との並列的な関係をヨコの関係と呼びます。この関係はタテの関係と違って、音楽という体系の中で、音楽以外とは別の自立した規則ではありません。ひとつの音が選択されるには、選択する人の視点やイメージ、その他の理由によるからです。ある音の次にくる音は、必然的にこうなるというのは、選択する人にとっての必然性なのです。そこには音楽そのものに内在する規則の制約は希薄である、言うことができます。
C)タテの関係とヨコの関係
 この両者は、似た例でいうと、文法と辞書のようなものと言うことができます。両者は相互依存なのです。辞書から、いくつかの独立した語をもってきて文法に従って、語を並べるというのではありません。もともと辞書におさめられている語は、文の中で意味を与えられることを前提としているのです。また文法もまた、語の存在を前提としているわけです。私が音楽を聴く際、この両者によってあるパターンのようなものが頭にあって、それをよすがに、音楽を聴いているのだと思います。音楽の経験を積むとは、じつにこのパターンを色々積み重ねることに他ならないのではないでしょうか。ブラームスが分かると私がいう場合、このパターンを私がブラームスの音楽に見出だすということに他ならないのだと思います。

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