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2017年1月17日 (火)

クラーナハ展−500年後の誘惑(3)~2.時代の相貌─肖像画家としてのクラーナハ

 Cranachport1 前のコーナーで量産の工業製品になぞらえたように述べましたが、いってみれば個々の作品はコピーに近いようなものなので、ひとつかふたつ見れば十分で、とりたてて個々の作品に向き合って鑑賞するということを要求していないものではないかと思います。展示の解説の中で“素速い画家”と称賛されていたと説明されていました。それは、“子どもや多数の弟子たちとの効率的な協働制作のシステムを確立して、速度ある絵画の大量生産を行なった。”そのためには、“モデルとなった人々を、決して過度に理想化したり象徴化したりはしない。クラーナハはむしろ、ザクセン選帝侯をはじめとする人物たちの、広く社会に流通し、後々まで長く記憶されうる「顔」の定型をつくりあげたのである。その一方、女性の肖像画には、少し違った意味での類型化、または抽象化が見られる。”と説明されています。これが分かるには、ひとつの作品を見るだけでは十分ではなく、この展示のように相当な作品数が並べなられていると、真相を暴き立てられるように分かると思います。ただし、ここに展示されている肖像画をひとつ取り出して鑑賞する、ということではもの足りなくなると思います。だから、このコーナーについて書いていく量と、展示されている個々の作品に対する評価とは必ずしも比例するとは限りません。
 「ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミール」についてです。最初に見た(前のコーナー)「ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公」と比べてみると、同じような帽子を被り、同じような毛皮の襟で、背景は色こそ違いますが一面に色を塗って人物のみを浮かび上がらせています。つまり、構成やパターンは同じです。そのパターンで描かれるモデルの人物の顔を当てはまることで、肖像画としての画面が出来上がることになります。まるで、工業製品の生産ラインでモジュールを組み立てて完成されるようなものです。例えば、自動車の生産ラインでは、一本のラインを自動車の車体が一体ずつ流れてきますが、プラットフォームという車体の土台がラインを流れてきて、そこにひとつひとつの部品ではなくて、部品をある程度まとめて部分となったものを車体に組み込んでいきます。その部分はある程度完結されていて、その中で調整がされていて、それを車体に組み込んで、他の部分と組み合わせて自動車の完成に導かれることになるわけです。また、このラインの中で、この組み込んでいく部品の種類を変えることによって、異なった種類の自動車を生産することができます。一本の同じラインで、ことなったブランドの自動車を同時に生産できるわけです。例えば、同じシャーシ、エンジンでも、別のギアサスペンションを組み込むことで、高速車体のスポーツ車体になったり、街中のストップと発車を頻繁に繰り返すファミリーカーになったりするわけです。話が肖像画から離れてしまいましたが、今、この二つの作品でみれば、単色を塗られた背景、帽子、毛皮の襟などの同じモジュールで共通化して生産ラインに流していて、顔のモジュールだけ変えて、別の完成品にするようになっているのではないかと思います。そこでは、肖像画の部品を組み合わせて顔という基幹部品を取り替えることによって、様々なひとの肖像画を効率よく生産することができる。それが、解説されていた“素速い画家”ということになるのではないかと思います。
Cranachwife  この場合、そういうクラーナハの肖像画の制作において顔が重要な部品ということになります。その顔を見てみましょう。同じ会場に展示されているデューラーの描く顔と比べると、クナーナハの特徴が浮かび上がると思います。デューラーの描く顔は、まるで解剖しているかのように骨格から筋肉の筋の一本一本が分かるくらいに陰影がつけられ、肉の厚みが彷彿できるように分厚く描かれています。これに対して、クラーナハの肖像画の顔は、ずっとあっさりとしていて、陰影の深さではデューラーには敵いません。例えば鼻の存在感はデューラーの場合には鼻梁に光が当たり、顔に影が生じる陰影が深く、鼻と頬のところの肌の色合いが微妙なグラデーションで塗り分けられています。デューラーに比べれば、クラーナハの場合には、陰影や塗りは薄っぺらになっていて鼻は顔で肉が盛り上がっている存在感は稀薄で、輪郭線が引かれて鼻のかたちが表わされているように見えます。これは、デューラーと比べた違いを際立たせるために極端に誇張した説明をしているので、実際のデューラーとクラーナハは上述の方向に寄っているくらいに受け取ってください。このようなクラーナハの顔の描き方について考えられることがあります。第一に、宮廷画家というお雇いの立場で、神聖ローマ帝国の諸侯や騎士といった身分の高い人々の肖像を描くのに、その身分の高い人々が肖像のモデルとなって画家の前に立ってくれる時間は僅かしかなかったでしょう。そこで、分厚く塗り込んで、詳細に描き込むことができるほど、モデルを十分に観察することはできなかったでしょう。そういう限られた条件で水準を満たす肖像画を完成させるためには、モデルの特徴を素早く把握して、その特徴をベースとなる肖像画のパターンにはめ込むことです。つまりは、標準的なベースモデルをカスタマイズすることに近いと思います。第二に、第一の点では限定された条件のもとで品質を落とさないで作品を制作するための方法を確立したことによって、今度は、当のクラーナハ自身の視覚にフCranachsibil ィードバックが起こったのではないか。第一の点と第二の点は、いわば卵が先か鶏が先かという循環した問題かもしれません。つまり、ベースモデルをカスタマイズするような制作方法を採るということ、そのような描き方をするということは、その前提としてそういう見方をしているということです。そして、そういう描き方を追求していくならば、その前提となる見方を進めていくことになります。それは、つまりデューラーのように物事を深く見極めるという方向ではなくて、物事の表面的な突出した特徴を瞬時に取り出す、そのためには類型的に物事を見て、その類型から飛び出してしまうものを特徴として見出せばいいわけです。そういう類型として物を見るということを突き詰めれば、記号に至るわけです。それは、デューラーのようにリアリズムとは異なる方向です。もともとクラーナハという人が、ルネサンスの画家たちのような写実的な見方をする人ではなかったのかもしれませんが、類型的、記号的な作品を描くということが、画家の見方に影響を与え、規制していった可能性は否定できないと思います。その結果として、クラーナハが描いている類型的、記号的な作品は、実はクラーナハに見えている世界を映し出しているものであった。ということは言えないでしょうか。クラーナハという人は、そのようなものの見方をする人だった。そして第三に、この辺りから私の個人的妄想の様相を呈してきますので、眉に唾をつけて備えてほしいと思います。前のコーナーのところでクラーナハの作品の画面構成力について触れましたが、見る者の視線を誘導して、画面を見ることによるストーリーを作り出していくことができるということでしたが、そういう画面作りをしていくためには、作品内の登場人物などは記号的な方が適しているわけです。記号的であれば、画面の中で人物を操作しやすくなります。また、見る人も視線も画面内の人物が生き生きとしていて存在感があれば、そこで止まってしまって、画面の構成から物語に引き込むことが難しくなってしまいます。これも、記号的な人物が先か、画面構成でものがたりを作る志向が先か、はっきりしたことは言えませんが、少なくとも、記号的な人物の描き方がなかったらクラーナハの作品のものがたりを感じさせる構成はできなかったはずです。そして、最後の第4点目として、そういう画面によってものがたりを作り出すということは、クラーナハは世界を、そのように見る視点を持っていたことを強く推測させることになります。つまり、世界が現実にあって、それを忠実に見て、画面に写すというリアリズムとは異質な、視線によって世界を自分で構成してしまおうという志向です。おそらく近現代の画家たちのように理論によって、そのようなことを方法論的を組み立てることなどなかったはずですから、クラーナハという画家の身体感覚で、眼で、そのように世界を感じていたのではないかと思えるのです。それが、この後で見ていく、およそリアリズムとはいえない作品は、クラーナハにとっては身体感覚や眼で感じ取ったままを描いているものになっている、と思えるのです。
Cranachsaxon_maria  作品から離れたお喋りが長くなってしまいました。最初のところで男性の肖像画を見たので、女性の肖像画を見てみましょう。「ザクセン公女マリア」という作品です。この作品と「ジビュレ・フォン・クレーフェ」という作品を並べて見てみてください。同じ人物を描いた作品のように見えてしまいます。しかも、人物のポーズも衣装の形も同じようなもので、まるでマンガのキャラクターのようです。両方とも顔の大きさと身体のバランスがとれていなくて、顔が大きすぎて、しかも身体かに浮いているように感じられます。このことは、顔というパーツが肖像の人物を分けて、特徴づけるためのツールであることを顕わにしていると思います。これらの作品のように全く同じと言うわけには行きませんが、「シュライニッツの夫婦」の1対の肖像の夫人のほうを見ると、ポーズ(手の組み方、顔を描く向き)や衣装、頭の被り物、背景などはパターンを踏んでいるのが分かります。
 最後に、息子のクラーナハの描いた「ザクセン選帝侯アウグスト」という夫婦の全身像になると、類型性よりもリアリズムの傾向が強くなってくるので、この肖像画のコーナーで展示されていた作品の中で、一番見易かった。それだけ、クラーナハの作品というのは、リアリズムに慣れた眼からは異質に感じられる、悪く言うと下手に見える作品なのです。
Cranachaugust

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