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2017年1月22日 (日)

クラーナハ展−500年後の誘惑(7)~6.宗教改革の「顔」たち─ルターを超えて

Cranachluther  宗教改革者マルティン・ルターの肖像をクラーナハが数多く描いたということで、とくにひとつのコーナーが設定されたというものでしょうか。歴史の教科書で見たことのあるルターの肖像はクラーナハによるものだったのでしょうか。私には単にその程度の展示で、クラーナハの作品の中で、とくにどういう特筆すべきものがあるようには思えません。単にモデルが歴史上の有名人というものでの話題性でしょうか。数点展示されているクラーナハによるルターの肖像画については、その程度のものとしか私には見えませんでした。
 そんなものよりも、このコーナーではデューラーの「メランコリアⅠ」を見ることができたのは、思わぬ収穫でした。この作品を見ることができただけでも、この展覧会にきた甲斐があったとおもいます。その他にも、デューラーでは「騎士と死と悪魔」も見ることができて、有名な2作をみることができました。しかし、デューラーには触れずに、クラーナハの感想を続けることにします。クラーナハの「メランコリア」を見ましょう。デューラーの作品と同じタイトルで、しかも、デューラーの作品にインスパイアされるようにして制作された作品らしいのですが、あまりに違うので驚いてしまいます。デューラーの場合は版画ではありますが、線描によって対象物を捉え尽くそうという姿勢が強くうかがわれて画面の幾何立体や方陣、コンパスや砂時計や秤や梯子など、どれだけ謎めいた細部、様々に解釈できそうな余地を備えていようと、ハッキリした輪郭線が個々の事物を際立たせています。これに対してクラーナハの線には、画面内の人物とその背景、あるいは描かれる対象物相互の境界を撹乱し、溶解させる傾向が見られます。場面上、複雑にうねり絡み合う膨大なCranachmelancholy 線の集積は、デューラーの輪郭を浮かび上がらせる線とは対照的にすべてを呑み込み沈み込ませる線です。「メランコリア」の室内で、唐突に現われる異界は線遠近法に基づく空間構成からは逸脱していて、それは世界を縁どり、正確に認識しようとする態度とは別の動機で描かれている。これは、ヨーゼフ・ボイスの意見の引用です。ボイスは、このように説明して、クラーナハの絵画においては、合理に非合理が勝っていると結論付けます。このようなボイスの意見から見えてくる“二元論的図式によって、合理に対して非合理を、形式に対して不定形を、秩序に対して渾沌を、明瞭性に対して不明瞭性を、またルネサンスに対して中世的なものを優位に置く、ともかくも破滅志向のものだった。もっとも、個々の作品を見れば明らかなように、その破滅は、ごくわずかにしか表われない。現実と見紛うほどでは決してないが、かといって似ても似つかぬわけでもない、そんな偽物らしすぎず、本物らしすぎない微妙な再現性ゆえ、人はその絵画に感情移入しつつ、同時に居心地の悪さも覚えるという、両義的な体験を強いられることになる。…そもそも、この二元論的図式において重要なのは、相対する二者の間に優劣をつけることではなく、むしろ両者の間を行ったり来たりする、絶えず往復することであった。”とそのボイスの意見の説明があります。大袈裟な言い方とは思いますが、クラーナハの「メランコリア」を見ていて、居心地の悪さを感じるのは確かです。デューラーの「メランコリア1」が様々な解釈を生んでいるそうで、謎のネタがたくさんあって、ミステリアスだなというところで、そういうものとして安定しているのは確かです。これに対して、クラーナハの作品は下手そうなのだけれど、どう位置付けていいのか曖昧で、見ていて宙ぶらりんにさせられた感があり、それがデューラーにある見る者の安定感がなくて居心地の悪さに繋がると思います。むしろ、そういうところは、見てきたクラーナハのすべての作品に共通しているところで、それが露骨に見えるのがこの「メランコリー」という作品かもしれないと思いました。
Cranachmelancholy1

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コメント

こんにちは、
私も「クラナッハ展」を見てきましたので、画像とレポートを拝見し、詳しい鑑賞レポートを読ませていただき、クラナッハの作品みたときの感動が甦って来ました。クラナッハの宗教改革に対する貢献の大きさを改めて知りました。クラナッハの裸体画しは非常に美しく顔は清純な少女のようでしたが、薄布などをまとっているのがかえってセクシーで、誘惑されてしまいそうな雰囲気を感じました。クラナッハの版画も多く展示されていましたが、デューラーの版画を比べると漫画を見ているような親しみやすさがありました。

私は展示されていたルーカス・クラナッハの描いた作品を通じて、ルーカス・クラナッハという画家の本質を掘り下げて、ルーカス・クラナッハの全貌を整理し本質を考察してみました。読んでいただけると嬉しいです。ご意見・ご感想などコメントをいただけると感謝いたします。

desireさん、コメントありがとうご゛いました。ご案内いただいた記事も拝見しました。

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