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2017年1月 6日 (金)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(3)~Ⅲ.クラシック音楽をもとに音楽の在り方を考える(1)

 前のところで、[音楽]全般の概念について考えてみました。ここまで読んで気づかれた人もいるのではないでしょうか。これまでのことは音楽に特有のことではなく、コミュニケイションの媒介全般に当てはまることではないか。音楽を表現の一種と位置付ければ同様のことは言語にだって言えるはずです。これまではたしかにそうかもしれません。しかし元々、音楽と言語は別のものです。それを同じに議論しようというのは、どこかで無理が生じるものです。例えば、「いぬ」という言葉を、ソプラノの澄んだ声で言おうが、口の中でモグモグさせて聞き取りにくく言おうが、「いぬ」に変わりはありません。しかし、音楽の場合は、この両者を同じとしてしまうことは、できない。と、ここまで言ってみて、これを同じとする音楽もあり得る、ということに気が付きました。しかし、できない、と言った言葉を引っ込めるわけにはいきません。私がこう言うことの、背後には、どうしても[音楽]を、現在自分が好んで聴いているものをもとに考えている、という事態があるようです。つまり、私が[音楽]を語ろうとしても、どうしても、私のよく聴くクラシック音楽を主に念頭にいれて、語ってしまうようです。だから、ここでは、[音楽]全般を考えようという無理はせず、クラシック音楽をもとに考えようと思います。ということは、前の所で考えた、三段階の[音楽]のうちの一般的な音楽を中心にして、考えてみようということです。
①音楽の音と日常の音
 日常生活の中で、人はさまざまな音に取り囲まれて生活しています。これを、音楽の音と分けて考えてみようと思います。日常生活の音は、常に、それが何から発せられたか、という聞かれ方をします。その何かとは、だいたい目に見えるものです。つまり、日常生活の音を聞くということは、見るということを補完するものだと言ってもよさそうです。それは、ヤカンの湯の沸騰の音だったり、硬貨を床に落としてたてる音だったり、親しい人の足音だったりするわけです。日常生活の音は、その音を発生させるものを指示する性質の音です。だから、日常生活の音を聞くために聞くということは、まずないだろうと思います。
 これに対して、音楽の音はどうでしょうか。音楽の音もたしかに物から発せられます。ピアノの音。ヴァイオリンの音。これらは、見るということを補完するだけで終わらないと思います。例えば目を閉じて、音楽を聴く人だっています。音楽の音は、見るということから、ある程度切り離されて、聴くために聴かれる音ではないでしょうか。
②音楽の音は意味をもつ音
 音楽の音と日常の音は違います。しかし、音楽の音もその音楽の脈絡から切り離されて単独に取り出された時には、音楽の音ではなくなってしまうと思います。それとは逆に、単独に鳴っているピアノの音は、それだけでは単なる物理的な音ですが、それがメロディやリズムの中で用いられた時、音楽の音になります。同じ音が、それに与えられた状況によって、単なる物理的な音ともなり、音楽の音ともなるのです。では、この時の音を、音楽の音たらしめるのは何なのでしょうか。
 ピアノでひとつのメロディを弾いたとします。このメロディは、単なる音の連続ではありません。それは、猫が鍵盤の上を歩いて作り出す音の連続とは違うものです。では、この両者の違いはどこにあるのでしょうか。ここで、脇道にそれますが、言語について少々考えてみましょう。例えば、単なる文字の連続である「お」「く」「ん」「が」と、ひとつの言葉「おんがく」との違いは、[意味]の有無にあります。言葉は[意味]を持つ文字の連続なのです。言葉と同様にメロディは[意味]を持った音の連続と考えられます。ということは、音楽の音は[意味]を持った音、と言うことができます。
 (注)[意味]と括弧書きにしたのは、後で出て来る意味という言葉との混同を避けるためです。
③音楽の音と音楽
 前の章で音楽の音はそれ自体が単独では音楽の音として成立しえない、ということを述べました。繰り返すようですが、音楽の音は、音楽の中に位置してはじめて音楽の音なのです。では、逆に音に対して、音楽はどうなのでしょう。音楽は音があって、はじめて私の耳に入ってくるものです。音楽は各個の音によって組み立てられているのでしょうか。私の答は、否です。音楽の音は、音楽があることを前提にしているのですから、音楽が音を前提にするというのは循環論理つまり矛盾していることになってしまいます。煉瓦を一個一個積み上げて家を建てるのとは違うのです。音楽は各個の音によってではなく、音と音とがおりなす関係から構成されていると考えられます。つまり、音楽とは関係という関わり合いが網の目のようになっている、その総体をイメージしてもらうと、分かり易いと思います。それを、体系という言葉で呼ぶことにします。
 念を押すようですが、ここでの音楽と音とは、全体と部分というようなものではないのです。前章の例を使えば、「おんがく」という言葉に[意味]があって、はじめて文字に[意味]があることになるのです。ここで、[意味]と括弧書きにした理由を明らかにします。通常、意味という語を用いる場合は、言葉の内容を指すことが多いのですが、時に「私がここにいても、[意味]がない」というような使い方をすることがあります。この[意味]は、私がここにいるのは価値がある、というような内容を指すものです。つまり価値を意味付けるのです、ですからここでの[意味]を価値と置き換えても、よいと思います。ですから全体として[意味]があって、その音に[意味]を付与する音楽というものを、価値の体系と言うことができます。音楽の音は、全体としての音楽との関係と、他の音との相互関係のなかで、はじめて、その存在価値が生じると思うのです。ドという音は、それだけでは音楽になれないのです、ほかにミとかソという音があって(あるいはドという音を土台づけるリズムがあって)初めて音楽になるのです。そのとき、ドという音は、音楽があるために必要になる、つまり存在価値が生じるわけです。これは、ドの音のみならず、ミやソの音もそうです。これら、ドミソの音は相互に価値を与え、求めているのです。それぞれの存在価値は互いの関係から生まれ、体系という関係の網の目から生まれる、と言うことができます。ですからここで、音が「在る」ということは「関係付けられて在る」という風に、言い換えることができるのです。
 この存在価値というものは、個々の音に固有ではないことは、もうおわかり頂けたかと思います。ということは、その価値の大小は関係の中で相対的に決定されるわけです。例えば、ピアノの音が美しいと言う時、そのピアノの一音一音が独立して美しいというよりは、全体の音楽を聴いた上で、その音楽との関わりの中で、他の音の兼ね合いながら、美しいと思うわけです。ドの音のみを聞いて美しいと思うのではなく、Aという曲を聴いて、きれいな曲だけど、とりわけ、ドミソの連なりのところが特に美しく、その音色がなんともいえない、というようになると思います。ということで、ひとつの音の固有の性質から、その価値は決まらないと言うことができます。

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