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2017年1月 9日 (月)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(5)~Ⅳ.独断と偏見によるクラシック音楽を聴く時の「意味」(2)

③かたちと実質
 表現と意味の表裏一体となった音楽とは、砂浜にひろげられた網のようなものです。この網次第で、砂浜には様々な模様が描かれることになります。そしてこの網自体は実体として存在するものではありません。この網をつくりひろげたのは人間ということができます。この網の目の織り成すのをかたちと呼び、かたちに対立するものとして実質というものを措くことにします。つまり、音楽の本質はかたちにあると言ってもよいと思います。 前の章で、音楽は感覚に訴えるものであるが故に、その表現が意味より優位に立つと言いました。例えば、ある音形をレガートで弾くか、スタカートで弾くかによって、その意味が変わってくるというわけです。そうなると、元の音形そのものはいったいどうなるのでしょうか。別々のものになってしまうのでしょうか。例えば、変奏曲において、聴き手は次々に変奏によって形を変えて現われるテーマを、形が変わっても同じものとして捉えます。この二つの例は一見矛盾するような様相を呈しています。しかし、これは同一性の問題なのです。
(注)同一性というと耳慣れないかもしれません。しかし、例えばアイデンテティの訳が自己(自我)同一性というと少しは身近に感じられるのではないでしょうか。ある人に対するのと、別の人に対するのでは、私は違う顔を示します。しかし、その私はひとつなので、それらの違う私に共通する同一のものがあるはずです。同一性をそういうものと受け取って下さい。かと言って、私は音楽を聴くことに、自分を見つけるということを重ねるような真摯な人間ではありません。
 同一性には、実は二種類考えられるのです。ひとつは実質のレヴェル、もう一つはかたちのレヴェルです。このことは、次のような例から説明することにします。A氏が昨日、東京駅午前九時発の「ひかり」を利用したという話を聞いたB氏が、「私も先月同じ列車を利用した」と答え、C氏が「私も昨日、Aさんと同じ列車に乗っていた」と言ったとします。ここで、B氏とC氏は、それぞれ「同じ列車」と言ったわけですが、この両者の内容は、その文脈から言って異なるものであることは、明らかだろうと思います。B氏の言う「同じ列車」は、列車の出発時刻、発着駅等の視点からみたもの、つまり時刻表上での同一性ということができます。これに対し、C氏の言う「同じ列車」は物理的な車輌、同じ乗務員という視点の同一性ということができます。この時、B氏の視点はかたちの視点C氏の視点は実質の視点と言うことができます。つまり「ひかり」という列車を構成しているのは、車輌の数とか素材、乗務員の構成や乗客の数といった実質ではなく発車時刻、発着駅、道程といった条件にほかならないのです。つまり、その「ひかり」を他の列車から区別する一切の差異、対立関係が「ひかり」の構成物なのです。
 音楽の表現とは、個々の音の物理的な鳴り響きといった実質ではないのです。もしそうならば、音楽と自動車のクラクションの音にかわりはないことになってしまいます。音楽は、一種の体系であると前のところで述べましたが、表現の面でもそれが当て嵌まるのです。音楽の表現において、かたちが本質的な構成をしているが、実質がそれを支えているわけです。
 次に、音楽の意味の面を見てみましょう。意味というものが、これまでの説明からかたちによって構成されていることは言うまでもないことだと思います。つまり、音楽の意味というものは実体として在るのではなく、ある視点によって切り取られ区分整理された一種の現象であるわけです。
 とすれば、意味の面での実質はどういうものと考えられるのでしょうか。比喩的にいえば、音楽の外に存在する人間によって体験可能なあらゆるものとでも言ったらよいでしょうか。これまで、音楽とは音楽以外のものを表わし、伝える手段ではない、と繰り返し述べてきました。それと矛盾するようなことがここに出て来てしまいました。これは、音楽以前にその対象となる現実が存在するのか、そして、その存在するとはどのようなことなのか、ということです。意味というからには、その指し示す対象を当然想定してしまいます。例えば、聴き手は音楽に、それが何を表わしているのか聴き取ろうとします。この対象は音楽外の現実と言ってもいいのでしょうか。これに対して、私は「否」と答える立場にあるのは、これまでの文章から明白です。仮に、作曲者や演奏家の「思い」とか「メッセージ」とか「感情」等を伝えようとするなら、言葉というより直接的なものがあるわけです。ウィアーザワールドのメッセージは専ら言葉、即ち歌詞のみによるものです。このメッセージの意味は言葉によって分節整理された言語の現実ということができます。音楽は、この言語と同じように、言語とは別個に音楽の現実を分節整理するのです。つまり、音楽以前に存在する現実とは、音楽というかたちの網の目をかけられる前の砂浜のようなものです。私の前のテーブルの上に、一つのコップがあるとします。このコップを私は、一杯の水を飲む道具としてみなす、つまり意味を与えることによって、はじめて単なるガラスの塊がコップとして私との間に関係が生じるわけです。私がコップを認識するのはその限りにおいてです。ここで、新たにかたちに対立する実質の性格が問題となってきました。表現や意味が、幾分かの留保を含むとはいえ、本質的にかたちであると言う場合にしても、現実に音楽が生ずる時には必ず、それぞれの実質に支えられていなければならないはずです。実際の個別の演奏なり作品なりが存在しているのは、実際の鳴り響きですし、それは音楽という関係において意味づけられた実質です。とすれば、実質というのは、表現や意味というかたちによって分節、区分整理されたものなりか、あるいはまた、音楽以前に存在する現実のことなのか。実質というものが両義的な性格を有していることになります。
 ここで、実質をかたちの対立概念とするならば、当然前者の性格のみをとることになるはずです。そこで、とり残された後者を、取りあえず仮に素材とよぶことにします。
 これまで議論はちょっと煩雑で、読んでいて混乱してしまったかもしれません。そこでここで整理してモデルを考えましょう。表現と意味には、かたちと実質という二項対立が実は、かたちと実質、そしてそれらと素材という二重の二項対立があったのです。表現の素材とは、かたちとは無関係の、音楽とは別個の単なる物質としての音です。これに対して、表現の実質は表現のかたちがあってはじめて存在する音楽の音、と対比的に言うことができます。これと同様に、意味の素材は、さきほども言ったように、音楽以前に存在する現実です。そして、これに対し意味の実質とは素材がかたちという網の目によって分節整理された、つまり意味付けされたものです。ここでの三者の関係は、素材はかたちによって分節整理される以前の、謂わば混沌として捉えられるものです。この素材を表現と意味というかたちを通して分節整理したものが実質です。音楽の聴き手にとって、聴き取られるのは、表現と意味が一枚の紙の裏表のように不分離一体の状態のもの、即ち表現イコール意味が、聴き手の心の中に残す刻印としてなのです。
 こう考えると、実質というのは聴き手がある視点で素材から切り取ったものだと言うことができます。ここでいう視点とは、かたちの網の目をかたちづくるものに他なりません。つまり音楽という体系(差異の関係)は、私という聴き手との関係によって意味を付与されて、はじめて存在しうるわけです。この意味で、音楽は聴き手である人間がつくる関係に先立っては存在しえないのです。音楽というものは、聴き手である私にとって、意味が付与されない限り、ただの音でしかないのです。聴き手である私は、素材である音に働きかけて、これに意味を付与する、つまりは素材を実質化する、それが音楽を聴くという行為の一環でもあるわけです。ここで、聴き手が素材に意味を付与すると言っても、それは勝手気ままに行なわれるというのではありません。その行為は他方で、意味を持つ音楽に規制されるものでもあるわけで。聴き手である私の意識もまた、一種の意味を与えられることになります。こうモデル化してみると、かたちというのは、音楽という閉じた体系の中での表現と意味との相互依存関係を形成するばかりでなく、聴き手が音楽を聴くという関係をも形成することがわかります。

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