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2017年1月 8日 (日)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(4)~Ⅳ.独断と偏見によるクラシック音楽を聴く時の「意味」(1)

 前章では、クラシック音楽全般を念頭に置いて、音楽というものの表れ方にについて考えてきました。そしてここからは、私が個々の演奏等を聴く時のことを主に、音楽の現われについて考えてみたいと思います。ですから、前章では音楽能力と対比の上での一般的な音楽を扱ったのに対し、この章では具体的な音楽と対比の上での一般的な音楽を扱うことになります。
 これまでの文章で散々[意味]とか価値とか意味などという言葉を濫用してきました。読んでいるうちに、おそらく頭が混乱してしまっているのではないかと思いますが、もう少し我慢して下さい。ここでは表現との関係で意味について考えてみたいと思います。
①音楽はものごとの伝達手段か
 作曲家や演奏家と聴き手の間に、ある程度の共通のルールの存在を音楽は前提にしているということは前章でのべました。その際、言葉というものの構造と比較しながら、それを参照しつつ議論をすすめてきました。しかし、私が音楽を聴くということと、言葉を聞いたり話したりということは、根本的に違うもののはずのように思います。音楽は言葉と似たような点が多々ありますが、言葉のような流通のしかたはしません。言葉は、それが事物であれ感情であれ概念であれ何かを指し示すように見えます。例えば、「いぬ」という言葉で、私は、現実の隣のポチだったり、動物図鑑の犬という種だったりのある生き物を連想します。一見それらは不可分にむすびついているようにも見えます。
(注)この言葉についての議論は、言葉というものがそういうものだ、ということではなく、一見そう見えるということです。言葉は決してある動物を犬と名付けるだけのものではありません。
 音楽には、こういうことは考えられないと思います。ある音形があるものを指す、ということが厳然とルールになっている、などということは聞いたことがありません。しかし音楽は言葉では表わせないもの、例えば感情等を伝えるではないかという反論がおこりそうです。たしかに、この音楽は深い悲哀の情に充ちているとか、あるいは生命を躍動させるような歓喜を謳いあげている、などという形容を用い、一定の特殊化された感情を音楽が表わし聴き手に伝えていると見做されているように見受けられます。また、短音階や短調は何か悲しい感情を表わすものと受け取られてもいるようです。しかしだからと言って音楽が「悲しい」という感情を表わし伝えるものだ、つまりは伝達の手段、コミュニケイションの道具だ、と言ってしまってよいものでしょうか。「悲しい」を伝えるのなら、何もまわりくどい音楽などというものに頼ったりせず、直接「私は悲しい」と言えば、それで終わりだと思うのですが。それ以上に、現実の日常生活で感じる喜怒哀楽というような個別に区分整理された感情は、あくまで言葉という関係の世界の中でのものだと思うのです。つまり、元々「悲しい」という感情があって、それを言葉で「悲しい」と名付けたのではなく、「悲しい」ということばが、ある種の感情か気分を「悲しい」という視点で異質に思われる感情か気分から区別したものです。「悲しい」というのは、書店の本棚という感情気分から言葉という私の好みで取り出した数冊の本というわけなのです。ですから「悲しい」はあくまでも言葉であってその以外ではないのです。日常の言葉の中で生活している私にとっては個別の感情は言葉の関係の中で区分されているものです。ですから私が音楽を聴いて、ある個々の感情を感じるのは、音楽がそれを表わし伝えているからではなく、音楽が聴き手である私に働きかける一種の効果・作用であると考えられます。つまり、音楽に「悲しい」感情を感じるというのは、あくまでも音楽を聴く際の随伴現象なのだと言うことができると思います。
 音楽の意味とは、音楽という閉じた体系の中での関係において成立するものだと思います。つまり、音楽外のあるもの(言葉によってあらわされたもの)を指し示すために、ある音形が存在するというのではないのです。その反対に、ある音形があって、それにより表わされるものが初めて生まれるのです。つまり、音楽自体が意味であって、また音のあらわれでもあるのです。この両者が表裏一体となって初めて音楽は成立するものと思います。ことば、ある感情気分の中から「悲しい」という言葉のあらわれをもって「悲しい」にあらわされる意味を分節区別したように、音楽もある音形をもって分節区分をすることにより意味を生じさせるのです。但し、だからち言って、聴き手である私がその音形と分節区分された気分感情を必然的なものとして結び付けなければならないか、というとそんな必然性はないはずです。つまり、ある音形とそれが分節区分したものの間に、両者を結びつける必然性はない、自由であるはずだと思うのです。これについては、後の章で詳しく議論したいと思います。
②表現と意味
 前章の内容から音楽が表現と意味を同時に有する二重の存在であることがわかっていただけたかと思います。音楽を一枚の紙に例えれば、表現と意味はその表と裏と言うことができます。もしこの紙の表に鋏を入れたとすると、表のみならず裏も切れてしまいます。 音楽において、表現と意味は相互依存の関係にあります。両者それぞれがお互いの存在を前提としているのです。前のところで、ピアニストがピアノを弾いたのと、猫が鍵盤の上を駆け回ったものとの違いを意味の有無で考えました。つまりこの両者が音の響きにおいて、全く同じだったとして、ピアニストの演奏を音楽と見做すのは、その響きに意味があると見做すからです。そしてその限りにおいてピアノの響きは音楽の表現であるわけです。ですから、表現の成立には意味の存在が前提されていると考えられます。また他方、音楽の意味は表現によって区分整理され、音楽という体系に位置付けられたものなのですから、意味は表現なしには成立しえませせん。但し、だからと言って、表現と意味が対称的とはかぎりません。音楽では意味に対し表現が優位に立つと考えられます。これは音楽というものが感覚に訴えるものであると考えるからです。つまり、一つの音形をピアノで弾く場合、もしこの音形とその意味が不可分で両者が対等なら、音形の意味がひとつなのだからそれをレガートで弾いてもスタカートでも同じことになはずです。ところが、レガートで弾くか、スタカートで弾くかでは、音楽では全然違うものになってしまうのです。 そして当面、表現と意味は不分離です。
 最後に、表現は単なる物理的な音ではないし、意味は音楽とは別個に存在する音楽外の現実を指すのではないということです。これを「うつわ」と「なかみ」に言い換えれば、表現は既成の「なかみ」を盛る「うつわ」ではなく、意味にしても「うつわ」という鋳型に流し込む「なかみ」に終わるものではありません。

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