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2017年1月16日 (月)

クラーナハ展−500年後の誘惑(2)~1.蛇の紋章とともに─宮廷画家としてのクラーナハ

 Cranachgeogea 展示の章立ては作品のジャンル別ということになるのでしょうが、クラーナハの時代にはジャンルによって様式が分けられることがありうるでしょうか。というのも、この展覧会のチラシやポスターにあるクラーナハの作品とは、全く異質の別人のような作品が、この章では展示されています。展示室に入って、最初のコーナーでポスターのイメージで官能的とかマニエリスムっぽいのとは、まったく異なる作品を提示されて、先入観を壊されるようなものでした。正直なところ、期待を裏切られた感じがしました。しかも、比較するように並べて展示されていたデューラーと比べると、正直いって負けている。優劣をここで言うのは適切ではないかもしれませんが、クラーナハの作品はデューラーの引き立て役のように見えてきてしまうのです。よく分かってしまうのは、ここに並べている騎馬像です。クラーナハの「馬上の聖ゲオルギウス」(左上図)は木版画であるために線を単純にせざるを得ないので、銅版画のデューラーの「騎士と死と悪魔」の線の多彩さと単純に比べることはできないかもしれない。馬のプロポーションや筋肉の厚みや陰影の描き方で、いかにも重量感を備えて、生き生きとした生命を感じさせるのは、リアルであるとかないとかという以前の圧倒的な迫力を感じざるを得ないと思います。この展覧会は、集めてきたクラーナハの作品数が少ないためなのか、比べてしまうと明らかにクラーナハを見劣りさせてしまうデューラーを並べて展示したり(展示の最後近くで、デューラーの有名な「メランコリア」を展示して、これだけで展覧会を見に来る価値があると思うほどだが、それにクラーナハの同名作品を並べて明らかに見劣りさせて、結果的に辱めることになってしまっている)、クラーナハの作品を味わうのに邪魔にしかならないテンションの低い現代絵画を引用して展覧会全体を薄味にしてしまっているのは、興ざめです。
Cranachsaxon  会場に入ってすぐに目に入ってくる作品がこの「ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公」という肖像画です。ここに画家の特徴的なものとか、突出したものが見て取れるか。これを見てクラーナハという画家はこうで、これはすごいと思うかとか、その徴候を見つけ出すことができるか。そういう作品として見ることはできませんでした。肖像画という性格から、そうものなのでしょうけれど。よくできた肖像画と言えるもので、商品としての肖像画の品質は高いといえると思います。ただし、その品質についても突出して高い(例えばデューラーの作品であれば、肖像画として求められた枠を超えてしまう部分が垣間見えて、それが興味深いわけです)ところまでは言っていません。敢えて言えば、作品としては凡庸と言えるのではないかと思ってしまいます(下手であっても、突出して下手であれば、その方向で突出する可能性があると思います)。しかし、だからこそ分かり易い。人物を生き生きと描くとか、人格が滲み出るように表現されるとか、理想を表すとかといった肖像画としての機能の脇目をすることなく、モデルとなった人物に似ていて(だろう)、その人物を豪華に飾り立てることを高い品質でまとめられている。しかも、それを類似作品が多かったのでしょうが、品質を維持して多量に生産する。そこが、宮廷画家として工房を率いてメジャーな画家として売れたのだろうと思います。そして、このような肖像画を一定品質で量産するというようなところが、クラーナハの絵画のベースとして通底しているのではないかと思うのです。それは、必ずしも当時のルネサンスには当てはまらないものがあるように思えるのです。ここでは、何かクラーナハを褒めているように読んでもらえないと思いますが、否定的に見ているわけではありません。
Cranachmaria  「聖母子」という作品を見ていくと、ルネサンス風の、ああスフマートみたいな、ドイツの田舎の封建領主にとっては品質が高いように見えてくるように作られていると思います。それを中心に作られているように思います。例えば、工房で制作されたものなのでしょうけれど、聖母の顔と胴体が繋がっているように思えません。ウェブ上で、例えば2チャンなどでよく見られるコラージュのようです。おそらく、背景や胴体は工房の画工に描かせて、聖母の顔の部分だけをクラーナハ本人が後か先に描いたのではないかと思います。クラーナハは顔を描く際に全体のバランスを考えてもよかったし、最終的に作品が完成したかは親方であるクラーナハが是非を判断するので、このズレをクラーナハは認めているのでしょう。つまり、このようなズレはクラーナハには気にならなかった。クラーナハにとって絵画とは、そういうズレを気にするような体のものではなかったと思うのです。それを比較的若いころの作品には、直接的に表われていると思うのです。それは、これから後で具体的に作品を見ていく中で考えていきたいと思います。
 「天使に囲まれた聖家族」と「聖母の教育」という2枚組みセットの板絵作品です。祭壇の両翼のためのもので、祭壇の左右に置かれるように描かれていると言えます。この作品を見て分かるのは画家の画面構成力ではないかと思います。観る者の視線を誘導するように画面上の天使や聖母子が配置されている。デューラーの場合には、画面の人物が生き生きとした存在感があるために、却ってそれを盤上のコマのように配置して使うことが難しくなっているのではないか。そこが、デューラーとクラーナハの大きな違いなのではないかと思います。そういう視点で、この一対の作品を見ると、極論で誤解を招いてしまうかもしれないのかもませんが、2枚の絵画を一連のようで、まんがのコマ割りのように機能している、そういう性格があると思います。実際に作品を見てみましょう。「天使に囲まれた聖家族」では、画面上に多数いる天使たちは画面左手の聖母マリアに視線を向いています。そのため、この画面を観る者は天使の視線を追いかけるように画面左手の木の下の聖母マリアに導かれます。マリアは右側を向いているので、観る者は視線をそこに導かれる。その視線の先にあったのは、ここでは展示されていないのですが、本来、この作品が置かれていたはずの祭壇に視線が導かれることになると思います。もうちょっと細かいところを取り上げてみると、画面上手の空を飛んでいる天使たちは左下がりの斜めに並んで左手に向けて飛んでいるようで、そこでの天使たちは飛んでいる方向に視線を向けていて、空を飛ぶということは身体の姿勢は横たわっていてる姿勢なので、下方向に見下ろしているようで、その天使の並びを追いかけていくと、左方に立っている樹の幹に導かれ、太い樹の幹の縦の線に導かれるように樹の下にいる聖母マリアに届いていきます。また、この天使たちが並んで飛んでいる上下には樹の枝が左側の幹から伸びています。そこで、樹の枝から幹へ、そして幹の下の聖母マリアに導かれることになります。それは、またその視線のスタート地点はどこかというと、天使たちが右上がりに並んで飛んでいる、その並びの先は画面が切れてしまっていますが、この画面の右側は祭壇で、その祭壇の上部は、祭壇が捧げられているはずの神ということになるだろうと思います。つまり、画面には入ってこない祭壇からスタートして、観る者の視線はこの画面を通じて祭壇に還っていくという循環をするように導かれていく、ということになります。
Cranacheducation  Cranachafamily しかし、その反面、この一対の作品の左右に描かれた聖母マリア(赤いドレスを着た女性)は人間として生きていないし、フィレンツェのルネサンスの画家たちの描く聖母たちのように理想化された女性にもなっていません。祭壇を飾る絵画の画面の中に、必要な登場人物として聖母を入れなくてはならなくて、そのような条件を満たす部分としてあればいい。言わば記号のようなものとして、聖母を表す約束事を載せたものとして(例えば赤いドレスとか)画面の中に入れ込んだというように見えます。それは、上で見てもらった「聖母子」でもそうですが、輝かしい存在を、そういうものとして描こうとはしていないのです。だから、同時期のフィレンツェのルネサンスの画家たちのようなリアルとか、画家がこれを描きたいとか、こんな描き方をした作品をつくりたいとか、そのような姿勢では描かれていないのではないかと思います。一般化すれば、画家が主体を持った者として作品を制作して、作品を見る者の前に呈示する。クラーナハには、そういうところよりも、作品というのは見る者に提出する手段で、こういうものとして表すというよりは、それを見た人々の受ける印象、画家の側から見れば見る者に及ぼす効果の方に心が向かっているのではないかと思えてくるのです。だから、最初に比較したデューラーやその背後にあるルネサンスの画家たちが求めた表現とか理想とか方法論とは方向が異なっている画家ではないか。ただし、人々、とくに軽薄に流行を追いかけているような敏感な人々に受け容れられるために、道具としてデューラーなんかの作品に倣うように描いていた。ただし、手段として利用していただけで、クラーナハ自身の重心は別のところにあったので、そこに払う注意もそこそこだったということではないかと思います。しかも、器用さとか、天性の技量がある人でもなかったので、限られた力のなかでベストを尽くしたと思えるのです。

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