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2017年1月21日 (土)

クラーナハ展−500年後の誘惑(6)~5.誘惑する絵─「女のちから」というテーマ系

Cranachunmatch  おそらく、この美術展独自のテーマなのだろうかと思います。主催者あいさつで“特異なエロティシズム”とか“官能的”という要素でクラーナハの特徴を述べられていましたが、その代表的な表われとして、よく分かるのが前のコーナーの裸体画でしょうか。そして、隠れたテーマ系として美術展のキュレーターがピックアップしたのかと想像します。“絵はひとを誘い、また惑わせる、クラーナハはそうした「誘惑」の作用を、誰よりもよく知っていたはずである、この画家が描き残した、じつに多様な作品群をあらためて眺め渡してみるとき、いくつもの絵が、それとなく共鳴しあっていることに気がつく。互いに無関係であるかに思えていた複数の作品が、ある種の集合的な「誘惑」のイメージとなって立ち現れてくるのである。つまり「女のちから」、また「女のたくらみ」と呼ばれるテーマ系を、クラーナハは、さまざまな異なる主題の絵画を通じて織り上げていたのだ。”そして、“クラーナハは、こうした「女のちから」というテーマ系を、おそらくは自身の芸術の根幹をなすものとみなし、何度となく、くりかえし描いた、そこにはもちろん、教訓的なメッセージが込められていた。まさに「女のちから」には気をつけよ、という男性に対する警告である。だが、問題なのは絵のなかの男たちが「女のちから」に負け、身を滅ぼすということだけではない。重要なのはあくまでも、クラーナハの絵そのものが、それを見つめるわたしたちを誘惑するということだ。ゆえに、ここでの「女のちから」とは、絵画が放つ「イメージのちから」のことでもある。後世の少なくないアーチストたちが、クラーナハによる「誘惑」の絵画に惹き寄せられてきたのも、どうやら偶然のことではない。”と引用が長くなりましたが、説明されていました。それは、私には、前のところで述べてきましたが、クラーナハの画面は見る者の視線を誘導するような構成が考えられている、と言うことではないかと思います。強引に自説を主張するつもりはありませんが、引用した解説のような「女のちから」ということがあるとしても、ここで展示されているクラーナハの作品で描かれた女性たちは、男たちや見る者を誘惑するほどの強い魅力に溢れているか。わたしには、とうてい、それほどの強い魅力を感じることが出来ないのです。絵画で描かれている題材が誘惑のストーリーであるとして、その誘惑というストーリーのなかで、誘惑が成り立つためには誘惑するものがなければならない、そのようなパーツ以上のものとは感じられません。この場合、女性よりも誘惑というストーリーが優先され、その誘惑というストーリーは、見る者の視線を誘導するという画面効果のために格好の題材として持ち込まれたといったほうが、私にはしっくりくるように思えます。これは、私という偏見をもった個人が、展示されているクラーナハの作品を見た印象から導かれたことです。
Cranachsamson  「不釣合いなカップル」という作品です。風刺画のように滑稽にデフォルメされているように見えます。そのデフォルメによって、画面の二人の人物のうち左側の男性の滑稽さ、愚かさの方が目立っていると思います。右側の女性には、誘惑しようと言う意志的なところが見えません。男性のニヤついている下卑た顔つきに比べて、女性は人形のように表情がありません。私には、クラーナハという画家が、イタリア・ルネサンスの画家たちのように描く題材がある程度決まっていて、女性であれば理想の体型を具現化した女神であったり、人として理想の姿といえる聖母マリアや聖女といった人、あるいは肖像画のモデルとなる人々であったり、を写実的に理想化して描くことに手練手管を尽くすといった方向には行かなかった。というより、行くことができなかった。それで、クラーナハは自身が画家として生き残るために、イタリア・ルネサンスの画家たちとは別の道を行かざるを得なかった。では、彼は自身、何ができるのか。彼が描くことができて、その描いたものに適した題材といったことです。それは、上述のイタリア・ルネサンスの画家たちのとは異なります。そこで、たまたま出遭ったのが、このような題材だったのではなかったのかと思います。そして、それが人々に受けた。それで、クラーナハは「これだ!」と思ったのではないでしょうか。それで、この題材の作品を量産するように多数制作した。そうしていくうちに、クラーナハ自身、この題材を描くことに習熟していった。それが、画面構成でストーリーを作り出し、見る者を導く手法を磨き上げることになったのではないか、と勝手なストーリーを妄想したくなります。
Cranachsamson2  「サムソンとデリラ」という作品です。旧約聖書の士師記にあるペリシテ人との戦いで超人的な怪力をふるって戦ったサムソンの力源泉である髪の毛を、デリラという女性が誘惑して眠らせている間に切ってしまうというエピソードです。いうなれば、誘惑する女の有名なエピソードのひとつです。これも、画面の視線は、誘惑して髪の毛を切ろうとするデリラよりも、だらしなく眠りこけるサムソンに集まるようになっていないでしょうか。主役はサムソンです。それは、背後の木陰にいる兵士たちの視線は二人、とくにサムソンに向けられていることと、サムソンが中央にいること、デリラはサムソンを見ているのに、サムソンは見返していないことなどから、サムソンが見られる存在として描かれていることは明らかです。それにしても、裸女をたくさん描いていて、しかも、旧約聖書の古代の誘惑する女です。私は19世紀世紀末の象徴主義のファムファタールの影響を受けすぎているかもしれませんが、例えば、ギュスターヴ・モローのようにデリラを主役にして、彼女の誘惑する存在であることを際立たせることだって可能なはずです。クラーナハはそれをしません。そういう時代で、節度が求められたということはあるかもしれませんが、「泉のニンフ」のような作品を描いた人ですから、モローほどではなくても、そのような方向性で描くことはできたはずです。しかし、クラーナハはしていません。そのことは誘惑の源泉として「女のちから」を描こうしたのではない、と私には思えます。
Cranachjudit  「ホロフェルネスの首を持つユディト」という作品です。展覧会のポスターでも使われている、この美術展の目玉のひとつなのでしょう。旧約聖書の外典「ユディト記」のなかで、アッシリアの強力な軍勢に包囲されていたユダヤの街ベトリアを若く美しい未亡人ユディトが救った話を題材にしています。彼女は自身の魅力的な振舞いによって、アッシリアの司令官ホロフェルネスを酒に酔わせ、その首を剣で斬り落とし、軍隊を敗走させました。“中世の伝統にしたがうなら、ユディトの像は例外なしに「美徳」を表わす。その場合、並外れて強力なちからをもった司令官ホロフェルネスに勝利した彼女は、サタンを打ち負かすマリアの予型ともなる。また寓意的な観点からすれば、ユディトは「節制」の美徳と同一視され、「快楽」という悪徳を克服するものとみなされる。けれども、かように肯定的な含意をともなった解釈が絶えずなされてきた一方で、ユディトの物語は15、16世紀には「女のたくらみ」と呼ばれる表現の枠内でも知られるようになった。すなわち、女性の魅力的なちからには気をつけよ、という警告を観者に向けて発する画像のことである。”と長い引用をしましたが、ユディトのエピソードが「女のちから」として捉えられるという説明です。で、この作品について、“敵将ホロフェルネスを惑わせ、その首を斬り落としたユディト。その姿はときに英雄的に、またときに蠱惑的に表わされてきた。だが、クラーナハが描いたほど醒めきった姿のユディトが、他に存在するだろうか。過剰なまでに豪奢にまとわされた装飾品の饒舌さとは裏腹に、そのユディトは自身の表情や身振りによって何も語ろうとしない。いや、彼女はみずからで明示的なメッセージを発することを避けるばかりか、こちらの感情移入までをも拒む。いっさいの情緒を抜きとられたかのようにして、斬り落としたホロフェルネスの首を、身じろぐことなく差し出すのである。”
Cranachcara  引用が長くなりましたが、この作品の場合には、作品自体以上に、この解説のように作品に付随するものが付加価値として作用しているように思えるので、敢えてそうしました。私は鈍感なのかもしれませんが、実際のところ、事前に何の情報もなくて、虚心坦懐にこの作品に向かって見ていると(今となっては、そんなことはありえず、あくまでも思考実験のようなことになりますが)、この作品の画面の中の女性の部分だけを取り出してみると、つまり、引用した解説の“過剰なまでに豪奢にまとわされた装飾品”を取り去って、物語の場面のようなところも取り去って、単に顔の部分だけを取り出して見ると、生気も表情もない能面のように見えるのです。他のクラーナハの作品で普通に見られる記号のような女性の顔としてみることのできるものであることが分かります。例えば、この作品と同じようなアングルで女性を描いている有名なダ=ヴィンチの「モナリザ」と比べるのもおかしいかもしれのせんが、「モナリザ」の場合には、背景などの女性以外のところはほとんど見ません。女性の微妙な表情に神秘性を感じるように、描かれている女性が中心です。このクラーナハのユディトに「モナリザ」の女性ほどのそれ自体で人を魅了してしまうほどの存在感とか生気とかは、残念ですが感じられません。では何があるかと言うと、その女性を印象的に見せている画面構成ではないかと思います。衣装とか、剣とか、背景とかホロフェルネスの首といった要素が画面にあって、それらがアンサンブルを作り出すようにユディトを際立たせ、見る人の視線を誘うようにしているところに、この作品の特徴があると思います。端的にいうと、この画面の女性はコスプレをして、画面全体は見る者を場面に誘い女性と、そこで共演するように錯覚させるように仕掛けている、端的に言えば風俗産業のイメクラのようなものではないかと思います。一方、ユディトのものがたりの場面としてのドラマチックな迫真さとかリアリティの点で見ると、カラヴァジョやジェンテレスキの作品のような映画を見ているような、目の前で事件が起こっているかのような作品に及ぶべくもありません。クラーナハの「ユディト」には、そういうリアルなところはなくて、さきほどいみじくもイメクラに喩えましたが、そのような偽物のまがいものめいた薄っぺらさがあります。例えば、カラヴァジョやジェンテレスキの作品とは違ってクラーナハのユディトはホロフェルネスの首のほうに視線を向けず、あらぬ方向を眺めています。つまり、画面の中で二人の関係が示されていないのです。カラヴァッジョやジェンテレスキの場合には、ユディトはホロフェルネスを敵として凝視するように視線を向けていますが、クラーナハの場合にはそれがなくて二人は画面の中で並列されているだけです、まるでテーブルの上に茶碗が並んでいるように、たまたま同じ画面にいるとでもいっているようです。それが、よく言えば記号性ということで、それが画面にリラックスしたような余白をつくり出し、そこに見る者の想像力を参加させる余地を作り出しているのではないかと思います。画面を見て、ユディトとホロフェルネスの首の関係をあれこれ想像して愉しむ余地を与えてくれているということです。おかしな喩えかもしれませんが、現代のサブカルチャーの世界で、マンガやアニメのキャラを使って二次創作のパロディ同人誌が作られていますが、ダ=ヴィンチやカラヴァッジョやジェンテレスキの作品からはそのような同人誌は生まれるとは思えませんが、このクラーナハの作品からは生まれる可能性がある、そのような性格の作品ではないかと思えます。
Cranachjudit2

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