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2017年3月19日 (日)

吉岡正人展~永遠なる物語をつむぐ画家(4)

Yosioka2017heven  「天国の庭」という作品は、これまでのパターンから少し外れたような作品ですが、パターンのように描かれている静かな印象は、フランス19世紀の象徴主義の画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが神話の世界を題材にした壁画に通じるところもあるように見えます。この作品は比較的最近の作品ということになりますが、中世のような雰囲気とは少し異質な異教的古代のような雰囲気が漂っています。そのように感じることが出るのは、言ってみれば、吉岡の作品世界がマンネリ化されている。マンネリ化という悪いイメージですが、吉岡の作品で描かれているのは、日常的な風景ではない幻想風景です。その風景は日常から異質で、見る者が受け容れるためには、そのために敢えて想像力を働Chavannesmori かせなければなりません。そこに無理が生ずることになります。しかし、ここで述べているように、吉岡の作品というのは、作品を見るだけではなく、そこからものがたりを想像することで始まるものです。それが、作品を受け容れる、いわばスタート以前の段階で想像力を浪費してしまうのは効率的ではありません。そこで、無理なく作品世界を受け容れるようになるためには、それが日常に近い形で当たり前になっていることが必要になります。そのような当たり前にするためにマンネリといってよいほど定着させることで、可能となると思います。したがって、吉岡の作品が、似たようなものが数多く制作されるのは、それらの作品をまとめてひとつの世界として前提のように、当たり前に受け容れられることになっていると思います。そこで、この「天国の庭」が異質に感じられてしまうことになっていると思います。
Yosioka2017mountain  「山上の町」(1993年)という作品です。以前に、はじめて吉岡の作品を見た時に、有元利夫と似ていると思いましたが、この作品と有元の「花降る日」という作品を並べて見ると、山の描き方がこれだけ違うことから、両者の資質の違いがよく分かると思います。パターン化の程度の違いでいえば、吉岡の山の実際のリアルな山をデフォルメしたことが分かる、リアリズムを残したものであるのに対して、有元の山はデフォルメをさらに進めて、もはやリアルな山に繋がるものがなくなって、文字のように、それが山であることがわかればよいものになっています。したがって、有元の場合には、山というものに対して作品を見る者が持っている知識やイメージが、作品の山のパターンを見ることによって想起されて、それで補完しながら作品を見る。人物がそこを上っていこうとしている場面を自由に想像できることになります。これArimotohanafuru に対して、吉岡の山は、リアルな要素を残しているため、どのような山であるかが見る者に示されています。有元のように自由な想像は規制されますが、その分細かくて、実感できるように想像できます。ある意味突っ込んだイメージができることになります。それは、二人の画家の求める想像、抽象度の違いによるのではないかと思います。それは、吉岡の場合には描いているものは、おそらく、画家の目には、そのように見えているという要素があると思えます。そういう画家の視野で捉えられた世界が理想化されたとか、雑音を取り去って純化したさせたとか、そういった世界がベースになっていると思います。これに対して、有元の場合には、そう見えているを通り越して、自分で世界をつくってしまった。それを描いている、というように見えます。それゆえ、有元の場合、象徴的なのではあるのですが、距離感が異なるため、吉岡のような神秘性はあまり感じられず、むしろ透徹した個人の独立とでもいうのか、部分が自立しているとかものがベースにあるように見えます。
Yosiokagaka  では、このへんで印象をまとめてみましょう。本当のところは、もっと沢山の作品を紹介したいのですが、とくに2000年以降に制作された大作は、どの作品も前にしばらく佇んで時間が流れるままに過ごしていたいと思わせるばかりなのです。それは、このような場面で画像を眺めるのでは体感できない経験であると思います。そういう面では、吉岡の作品にスケールという要素は欠かせないと思います。それは、おそらく吉岡の絵画作品というのは、何かを描くといった画面の情報を鑑賞することでゲットするようなものではないと思うからです。思うに、それはひとつの始まりで、吉岡の絵画に触れる端緒でしかありません。大切なのは、その後のことで、見る者がそこから想像していくことではないかと思うのです。吉岡の描く画面は見る者に何かを声高に主張するようなものではありません。しかし、ある種の抽象絵画のようにコンセプトを押し付けたり、見る者に考えることを強制するようなものでもありません。むしろ、画面は黙して語らず、静謐です。その静謐さゆえに、初期ルネサンスや中世のような清澄でシンプルな印象を見る者に与えるのですが、その裏には、見る者を自然に想像に導くように周到につくられている。しかも、それと分からぬように。それば具体的には、これまで作品を見てきた中で個々に触れてきましたので、こでは繰り返しません。見る者が想像していく雰囲気が、作品というものがそれ自体で剥き出しで見る者の前に現前するのではないわけです。そこには、見る者の想像のヴェールが、その人によって薄くも厚くも重ねられて、それが作品の雰囲気をつくって行くことになると思います。だから、言葉遊びと取られるかもしれませんが、吉岡の作品が神秘的に見えると言う場合には、作品がそのように描かれているということ以上に、作品を見た人がそういう想像をした結果の印象なのだと思います。そういう想像する方向のひとつとして自己を見つめるという内省的な方向もあると思います。吉岡の作品は見る者に何かを押し付けるとか強制するようなものではないので、そこに限られることはありませんが、吉岡の描く人物が遠くを眺めることは自分の中に向けることと同じだということを述べましたが、それは実は作品を見る者の視線の方向にも当てはまることではないかと思います。

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