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2017年3月17日 (金)

吉岡正人展~永遠なる物語をつむぐ画家(2)

Yosioka2017bird_2  「鳥を放つ」(2005年)という作品です。このころになると、テンペラと油彩を駆使した手法で、このようなスタイルを繰り返す、最初に引用したことばにあるようなアルチザンの姿勢が固まってきたといえると思います。その中でも、この作品は展示されている作品が大画面の作品がけっこうある中で、中規模の大きさながら、とても印象深い作品です。それは、画面の上半分全部を占めるほど大きくとられている青空と、その空の青さの印象です。透き通るような鮮明な青の印象は、おそらく、この画家のもとめているところが直接的に出ている作品ではないかと思い、その意味で、私には感動的でした。この作品を見て、似ていると思ったのはヨーロッパの教会の祭壇画といったものではなくて、1960年代アメリカ西海岸のロックグループIt’s a beaytiful dayのアルバム・ジャケットでした。それは、ヒッピーなどの反体制運動の中で出てきたバンドで、澄み切った青空は体制側の汚れとか、産業化による汚染に対するアンチテーゼといった意味合いが込められていて、そのシンボルのようなものでした。だから、今見ると、そこには演出が見え見えで、そこに同時に描かれている女性は自由の女神のパロディなのでしょうか、人間的なリアリティがなく図式的です。当時は
、だからメッセージが単純化され伝わり易かったと思いまYosioka2017beautiful_2 す。この「鳥を放つ」には、そのようなメッセージこそありませんが、人物を図案化して単純化させることによって、青空がいっそう引き立つ効果を出していると思います。この作品では人物に感情移入するとかいったことがなくて、人物が置かれている場面に目が行く、とすると青空の方が印象的で、しかも、人物が風に吹かれながら、また、背後のイヌが見上げている、それを見ているような視線に導かれて、青空に目が行くのです。そして、衣装の赤や背景の森の深い緑が青を際立たせています。だから、ここで、というより、吉岡の作品の画面に登場する人物は画面の主人公ではなくて、ある種の狂言回しのような傍観者とか、見る者を画面に誘導する画面と見る者のあいだの中間者のような位置づけになっていると思います。だから、人物に存在感があってはいけない。存在感があると、見る人は人物に注目してしまうことになります。だから、吉岡の作品では、メインは実は人物ではなくて、人物が見る者との間でとりもつ青空だったり森の風景だったりといったものではないかと思うのです。
Yosioka2017forestfire  「森は静かに燃える」(2008年)という作品です。ここでは、「鳥を放つ」が空の青が印象的であったのに対して、森が燃える炎の赤です。しかも、人物の背後には池がひろがり、水面に炎が映って赤が画面の大半を占めます。その赤の鮮やかさです。それが印象的ですが、その赤について、印象的なのですが、その鮮やかな色彩をベタ塗りで色彩を前面に出すのではなくて、そこで筆触をあえて露わにしています。これは燃える炎だからかもしれませんが、前に見た「赤い部屋Ⅰ」の壁、「ふたり」のグレーの背景、「時は流れる」や「森の中」の背景の建物の壁など、みなそうです。おそらく、これは意図的なものであることは確かなのですが、私にはそれがよく分かりません。ただ、感情を喚起するとか、精神的な意味合いをもたせるといったロマン主義的なものではなく、また画面に動きを与えるといったことではないと思うのですが、あえて言えば、パターン化をすすめる中で手触り感を残すとか、そういったことはあると思います。ここでも鮮烈な赤を前面に出すと、どぎつくなってしまうことがありますが、それを巧く抑えているのは、その効果も一役買っていると思います。
Yosiokaasa  「朝(旅に出る)」(2007年)という作品です。これは、以前に偶然に寄ったギャラリーでも見た記憶があります。朝というタイトルのとおり、朝日が射してきて映えるように色づいてくる森の光景の鮮やかさ。たとえば右上の光が拡散して虹のように映っているところや、中央の大樹の幹が上に行くに従って朝日の当たり方が異なるので刻々と光線が変化していく様が鮮やかで、そこに旅立つ男と見送る女に光が射している様子が、まるで後光のように映えている。また、旅立つ男や馬が向いている先は遠景で、すでに太陽が昇って明るくなっている。しかし、実はこの画面の中心は画面を上下に貫く太い幹の大木で、二人を見守るようにどっしりと存在している。それだけでなにか物語を紡ぐような光景です。この作品を見ていると、ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイの「浅瀬を渡るイザンプラス卿」という作品を思い出してしまうのです。騎乗の騎士のプロフィールの画面ですが、二人の幼子を抱えた老人の姿は、何かの物語を想像させます。かといって、何かの物語や歴史の一場面ではなく画家ミレイが自身で描いたものです。しかし、見る者はこの画面から物語を想像してしまうのです。吉岡の「朝(旅に出る)」にも同じような見方をしてしまいます。しかもそれだけでなく、馬を真横から見た姿を中心にしていたりとか、その馬の描き方が、骨格から筋肉のつき方まで詳細に描き込んであること、あるいは草や樹といった植物のひとつひとつが細密といっていいほど写実的に描きこまれている。そういう細部が一種スーパーリアリズムになっているのに、画面全体は写実性は感じられない。とくに吉岡の作品では人物が、そのような細部とはそぐわないほど類型化されています。しかし、そこに違和感を見る者に覚えさせるようにはなっていなくて、それは、リアルな細部を組み合わせて画面全体を構成させると写実ではなくなって、現実の風景ではなくなっているからです。その現実のリアルな手触りがないところが、物語を想像させることに繋がっている。かといって、あまりに作りものめいていると、見る者が感情移入するように自主的に物語を想像させることはできないので、細部はリアルに描きこんである。だから、画面の雰囲気は中世のヨーロッパなのでしょうが、そのように描いているのは明らかに近代芸術の透徹した方法論であると言えると思います。吉岡がラファエル前派を参考にしたかどうかは分かりませんが。Zenpaml2

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