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2017年4月 5日 (水)

瑛九19355→1937─闇の中で「レアル」をさがす(4)~ⅲ.ほんとうの「レアル」をもとめて─第1回自由美術家協会展への出品前後

Eikyureal  1937年に自由美術協会の設立があり、瑛九も参加し、7月の第1回の展覧会に「レアル」(右上図)という作品を出展します。これは、写真を切り貼りしたようなコラージュです。解説では、瑛九の作品について、その手法が当時の流行に乗ったものとして評価しているのに反発して、本質をみろという内容の反論を試みているように説明されています。瑛九自身の言葉が残されているので、事実としてあったことは分かります。しかし、この「レアル」という作品を見ていて、作品を見る限りで、しかも、後世の2016年の展覧会の時点で見ていると、作品として、1936年のフォト・デッサン集『眠りの理由』から停滞している。そしてまた、その後に展示されているデッサンに比べると、むしろ後退しているように私には見えます。すごく、おこがましいことかもしれませんが。そうしてみると、瑛九が手法しか評価しない批評家や画壇に反発するような言辞をのこしているのは、必ずしもそのまま受け取るものではなくて、彼自身の制作がなかなか進展しなくて、思うようには行かない苛立ちが、はけ口を求めた結果ではないか、と思えてくるのです。つまり、やつ当たりです。瑛九の書簡から引用されています。“フォト・モンタージュそのものは技巧であって、それだけの意味に於ては時代精神の表現ではない…フォトグラムそのものはなにも前衛的な表現ではない…我々が云々すべきはそれが芸術の問題としてならその様な「絵之具はどういふ風にぬるべきか」的な事ではなく表現事実についてであらう”ということは、批評家に向けられるだけでなく、本来なら言っている瑛九自身にも向けられるべきではないかと思えるからです。
Eikyureal3  後世の無責任な立場で、『眠りの理由』の作品と「レアル」を見比べて、それほど変わっているとは思えず、同じに見えてしまうのです。したがって、作品だけを見ている限りでは、この展覧会であえて章立てを分ける意味がどこにあるのか、と思えるのです。しかも、『眠りの理由』では、マン・レイたちが手法として戯れていたレイヨグラフに対して、つまり、既存のものが普通と違って見えることを楽しんでいたようだったのに対して、瑛九は、素朴な形ではありましたが、既存の物体を写すのではなくて型紙という自分で創作したものを写すことによって、今までにない世界を創ろうという意志が表われていたと思います。それが、瑛九自身のマン・レイたちとは違うという自負を持つことに至ったのではないかと思います。これが、見ている者にとって、プリミティブに感じと、何だか不思議な「何だろうか?」という印象を強く残すものとなっていると思います。
 ところが、1937年の「レアル」では、既存の物体を持ち込んで、その組み合わせというマン・レイたちのレイヨグラフと同じことを始めてしまって、『眠りの理由』にあった自作の要素を放棄してしまっているのではないかと思えるのです。その結果、素朴ではあっても今までになかった形が画面から消えてしまいました。作品画面は洗練され、すっきりしたものになっていますが、見慣れないかたちのものが画面にはたしかに見ることはできるのですが、「何だろうか?」という不思議さとか違和感のような感じは受けなくて、それを美しいとか評価できてしまうのです。つまり、その見慣れないものの存在が、見る者に強烈に迫ってこないので、距離を平気でとることができて、既存の価値規準にあてはめて評価できてしまうのです。これは、私の個人的な印象なので、そうでないと感じる人も少なくないと思いますので、これが「レアル」という作品の評価とは誤解しないでほしいのですが、念のために。
Eikyureal2  しかしながら、『眠りの理由』に感じられた土俗的なもの、原初的なものに遡ろうとする志向性は、「レアル」にも残っていて、肉体とか身体性といったことを抽出してみようという傾向に変わってはいますが、無意識のレベルに立ち返ろうとする志向が見えていると思います。それは、解説の説明が分かり易いと思います。“ここで重要なのは、それらの多くにおいて、映画雑誌あるいはファッション雑誌の美しい女性モデルのイメージが切り刻まれ、解体され、むき出しの肉塊と化し、闇の中(コラージュの台紙は多くの場合、黒である)に投げ出されている点である。そして頭や眼など理性を司る部分があえて排除され、ときに性的な暗示が加えられることで、作品に強烈な反・理性的性格が付与されている点に注意したい。…本当に「レアル」なものは、生半可な理性によって、捉えられるものではありえない。それは常に理性の光の届かない闇の中で、手探りで探し求めなければならないものなのではないか。だとするならば、これらのコラージュはやはり闇のような暗黒の台紙の上で展開されなければなかった…”。ただし、この説明の後半については、もしここに説明されている通り、瑛九が制作したのであれば、理性的な分析や構成では現実の闇は捉えられないということが、あまりにも図式的で理解しやすく、それを理性の道具でもあるロゴス(言語)で説明できてしまっているのは、やはり、瑛九の「レアル」という作品の限界ではないかと思います。
 端的に言えば、たしかに不可思議ではあるのですが、洗練されていてオシャレで、インテリアのようなものにうまく使えそうなものではないか、瑛九が抵抗した流行のような風俗的なものにハマってしまうものではないかと思います。それは、私の偏見から言えば、瑛九の志向とか考え方は後世のコスモスとしか言いようのない抽象画と共通しているとは思うのですが、後世の作品は、そのつくりの論理が自立しているのに対して、この「レアル」の場合には、借り物のような感じがします。例えば、コラージュという手法もそうであるし、画面の素材として集められたパーツもそこらにある既存のものを既存のそのものの論理で使いまわしているように見えます。その結果として、できたものは既存のものを既存のまま構成したもので、せいぜいのところ既存に対する反抗が関の山というのか、既存の範囲内で遊ばれているといったものに感じられるところです。
 否定的な言い分を並び立てていますが、作品としては面白い作品で、うまく部屋に飾ると映えると思います。

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