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2017年5月

2017年5月31日 (水)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(5)~4.心のうちの言葉

Nabisvoul2_2  前のコーナーでヴァロットンとの比較で素通りしたヴュイヤールの「八角形の自画像」という作品です。ちょっとゴッホの晩年の自画像を想わせるところもあるのでしょうが、絵の具をベタ塗りして塗り絵のようになっているところなど似ているのですが、ヴュイヤールの方はゴッホの作品のような重量感は、あまり感じられないものとなっています。ゴッホに比べて色彩の鮮やかさをアピールしているところが、ヴュイヤールの特徴だと思います。“自身の自然な顔色を単純化した色彩に置き換えている。ブロンドの髪は黄色に、赤毛の顎ひげはオレンジ色に、肌の色はピンク色に、その色調を仕上げているのは、ジャケットの群青色である。”と説明されていますが、塗り絵のように色の対象になっています。顔の左半分が影がかかっていますが、それが陰影となって顔を立体的に見せているのではなくて、茶色の塗られた色の面というように、この作品では、色の塗られた区画で、その区画が人の顔の形になっています。とは言っても、前のコーナーで見た「エッセル家旧蔵の昼食」では、色の使い方や色の面だけに還元したような描き方をしていないので、ヴュイヤールは、この作品では、このように描いているというのだろうと思います。むしろ、「エッセル家旧蔵の昼食」と共通していると思えるのは背景の木の枝に実がついているような赤と青の点が散りばめられたような描き方と、色の塗り方が筆触を勢いとして残しているところです。それは、ゴッホのようにその筆触が文様のように残って、呪術的な強い存在感を主張しているのではないですが、これによって、一様にベタッと塗られていないとNabisvoul3 ころが、模様のような装飾性を感じさせます。それは、肖像画といっても、王や貴族のような偉い人が、その偉さや偉大さをアピールさせるものとか、あるいは、人物の性格や人間性がにじみ出てくるようにして往時をしのばせるといったものではなくなっています。表面的な見てくれだけが描かれている。ヴュイヤールの場合には、ヴァロットンとは少し違いますが、演劇の舞台のような作為が見え隠れします。演劇の舞台では、不特定多数に観衆に向けて、本来のひとりの人間の複雑な感情や思考の微妙な綾や陰影、あるいは伏線を示すことはできないので、ストーリーに関係するところ単純化して強調、あるいは誇張して示します。それが演技ということになるわけですが。観衆に分かってもらうためには、すべてが明確に分かり易く表われ出ていなければならい。したがって、顔を、このように描くことができる。絵画において、ヴュイヤールは、そういう見方しかできないというのか、表面しか見ようとしていないので、人の内面に隠された心といったものではなくて、かたちとしてあらわれた仕草とかいった明確なものをピックアップして描いている。だから感情がうかがわれる微妙な表情のニュアンスを読み取るといったことがない。この「八角形の自画像」では、広い額は、以前の肖像画であれば、年齢を重ねた落ち着きとか沈着さといった意味づけができるようなところですが、ここでは、単に額が広いという顔の特徴として見る事ができます。つまり、個性ではなくて、特徴が表わされているのです。人物を描くときに、目に表情が表わされること一般的ですが、ここでは、そのような意味づけがされずに、目という顔の部分の形が、人物独特の形の特徴を捉えて描かれています。目に表情を読み取りたい人には、空虚にしてか見えないかもしれませんが。それで、この人物の特徴を捉えることはできます。独特の色使いは、そのような特徴を捉え易くする工夫と考えることもできると思います。形、つまり、特徴がはっきりするのです。それは、他方では人物画の見られ方の変化も関係していると思います。おそらく、ヴュイヤールに作品を注文したり購入するのはブルジョワといった市民階級で、その住居、パリであればアバルトメントの居間とか寝室といったプライベートな空間に飾られるものだろうと思います。それは、以前の王族や貴族が宮殿や城といった公の広間や廊下などで、自身の権威をアピールする手段として立派な姿に描かせるのとは、ニーズの方向が異なっていたはずです。日常の生活をする場で、せいぜいが親しい友人や親類を招く程度の空間で、ご立派な姿を描いた肖像画があっても、場違いでしょう。それよりも、部屋の一部として納まっていたり、部屋を飾ったりといった機能が望まれていたのではないかと思います。その場合、表面的で、明るく綺麗な色であったほうがいいわけです。そういう綺麗な色が映えるには、グラデーションを効かせて立体的に描かれるよりも、平面的でもベタッと塗られているほうがいいわけです。そういう方向で人物を描いていくと、ちょうど、この作品のようになるのではないでしょうか。
Nabisbolnald3  ピエール・ボナールの「格子柄のブラウス」という作品です。展覧会チラシのタイトルバックに使われている作品ですから、今回の展覧会の目玉ということなのでしょう。前のところで、同じ画家の「庭の女性たち」という作品はモザイクのようだと述べましたが、この作品では女性の着ている服の格子柄が四角いモザイクの組合せそのものです。そして、背後の壁やテーブルの上の食器や女性の手の部分などもモザイク模様のように描かれていて、作品全体が模様のようになっています。とくに、この作品では、そういうモザイクの模様のように描くという手法が優先されているというべきなのが、人物を含め立体の影が描かれていなくて、模様の平面さが意図的であるのが分かります。こうして見ると、ボナールという画家は表現手法、あるいは対象を感覚する手法を優先する人であったように思います。ヴュイヤール以上に、物体の表層をなぞることを徹底しているようです。この作品でも人物の表情を表わすよりも、模様のように人物を描くことが優先されていて、ボナールという人は、人物も事物も単に絵筆を動かす対象としては同じで、いうなれば「ミソもクソも一緒」、単なる光の反射にフラット化されているようです。そういう冷めた視線はナビ派の画家たちに共通しているのですが、とくにボナールにその傾向が強いのが、この作品に端的に表われていると思います。
 おそらく、現代のイラスト等で問われているクリエイターのセンスというのが、このナビ派の人たちの作品あたりから、前面に表われてきたのではないのか、と私には思いました。それまでも画家の個性ということはあったと思いますが、それ以前に技量の差とか、画面を作る上での教養とか、そういったことによって、画面を隙なく仕上げていくことが、画家の土台としてあったと思います。しかし、とくにボナールの作品などを見ていると、画面を完璧に仕上げることよりも、画家が独自の視点で、風景や人物のある一点を取り上げて、それを今までになかったり、他の人ではやっていなかったように表わしてみせる。その手際が鮮やかであるとか、その表わし方に視覚的な快さを生んでいるとか、現代の言い方でセンスを感じるとしか言いようのないこと、そういう従来にない刹那的な感覚の心地好さを作り出している。これは、絵画の購買者が王族、貴族や教会から市民階級あるいは産業化による経済社会の進展によって産業家や振興のブルジョワに変化していったことと、消費社会が生まれたことによる変化も影響しているNabisdoni4 と思います。何やら難しげなことを述べていますが、かつては貴族などが画家のパトロンになって、作品を注文して描かせていたため、主題などの仕様が規制されていたものの、身分は保障され、じっくりと作品を描くことができたわけです。しかし、購買者が変わると、貴族から庇護を受けることはできなくなって、作品を仕上げて、それを販売するようなことに変化します。その作品というのは、画郎という小売店や展覧会に展示して、そこで目についたものが売れるというもので。そこでは、制作からじっくりと作品を見続け、作品を見る教養が備わっている貴族の場合とはちがって、ぱっと一見の印象で気に入って買っていく、あるいは画商のセールストークに乗って買っていくという刹那的な、衝動買いに近いような売られ方でしょう。そこで、売れるためには、他の作品よりも目立つことが第一です。そこで、このナビ派のように、伝統的な教養とか、長い時間で培われる絵画をみる目などがなくても、パッと目について、心地好く感じる要素だったのでないでしょうか。そう考えると、ナビ派の特徴というのが、時代の要請に応える必然性があったということが分かる気がします。そして、現在の感覚で、好き嫌いでみることが、ここで展示されている作品については、あながち的外れではないのではないか、と思うのです。特に、ボナールの作品を見ていると“藝術”というよりは“アート”というイメージが似合っているようで、それは少し前の世代の印象派と、大きく違う点だと思います。
Nabisdoni3  ボナールに比べるとモーリス・ドニの作品は、絵画になっていて(変な言い方ですが)、上手いという印象です。自身の婚約者をモデルに描いた作品「マレーヌ姫のメヌエット」では人物がちゃんと肖像画として様になるように描かれています。しかし、色白を通り越した蒼白に近い肌は人の温もりが感じられず、目は虚ろな感じで、顔に表情がなくて、不気味な印象を受けます。顔たちが整っているだけに、その不気味さに底知れないものを感じさせます。そして、ピアノの背後の、壁であるだろう背景が点描によって、現実にない背景になっています。それが、ドニが意識することなく、モデルの女性に見ていたものが、画面に表われてしまっている。おそらく、モデルは婚約者ということですから、親密で愛情溢れるような作品にするのが自然でしょう。本人も、そうしたかったのではないかと思うのですが、このような底意地の悪いような不気味な作品にはしたくなかったと思います。それが、そうなってしまったのは、画家が意識することなく描いていて、そうなってしまったとしか考えられません。そうであれば、画家の目が、この女性に対して、そう見えてしまったとしか考えられません。しかし、同じ年に制作された、キャンバスにバステルで描かれた「婚約者マルト」では、バステルの淡い味わいを生かした、親密で可愛らしい作品になっていると思います。
 ドニの「婚約者マルト」を突き詰めて追求したような作品が、ヨージェフ・リップル=ヨーナイの「花を持つ女性」という作品です。これは、今回の展覧会でも、私にとって収穫とも言える作品で、朧に霞んだような画面に、ぼんやりと浮かんでいるような女性の姿と、手に持っている花の赤が鮮やかで、その幻想的な画面に魅入られるようでした。 
Nabisflower  それと、ついででもないのですが、このような画家たちと比べるとヴァロットンの肖像画は次元が違うというのか、まるで写真のような迫真の描写で、しかも、写真にならず絵画の写真にない匂いのようなものを、あざといほど強調するように描いていて、この画家の単に技量にはしることをしない賢さ、というよりも屈折した姿勢に感心してしまうのでした。

2017年5月30日 (火)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(4)~3.親密さの詩情

Nabisbolnald2  最初のところで、ナビ派の特徴として日常的なことを主題としたという特徴が説明されていたのを引用しましたが、そのまさに日常生活の風景を親密さというキーワードで作品としたものが展示されているということでした。
 ピエール・ボナールの「ベッドでまどろむ女(ものうげな女)」という作品です。タイトル名や女性のポーズからみて情事の後の情景ということなのでしょうし、その女性のポーズが扇情的なのでしょうけれど、まるで、シーツのしわと同じように見えます。裸の女性が恥ずかしげもなく両足をひろげて、恥毛をあらわにするというポーズは、かなり扇情的で、それなりの意図や覚悟でもなければ、当時では描くようなものではない者ではないかと思います。しかし、この女性の上方のシーツのしわでつくりだされる模様と右方の毛布の形と、女性のポーズはよく似ていて、とくに女性が浮き立たせるようには描かれていないので、それらが色違いの模様のように見えます。ここにあるのは、たしかに日常の情景かもしれませんが、それを冷たく観察していて、描いている対象の女性に対して、シーツや毛布と同じように分子レベルで観察しているような、親密さの感情など微塵も感じられない機械のセンサのような情報処理です。
Nabisvallotton  フェリックス・ヴァロットンの「化粧台の前のミシア」という作品です。ヴァロットンは2年以上前に、同じ美術館での回顧展で見ましたが、このようにして他の画家たちに比べると、その時に見えてこなかった特徴が際立つように思いました。その時には、フラットな画面に見えていたのが、いま、ドニやボナールの作品の平面性と比べると、はるかに立体的で、空間を感じさせる画面になっているのが分かります。しかも、二人に比べると見た目の形が明確です。化粧台、女性、背後の箪笥の位置関係とそれぞれの輪郭がハッキリしています。しかし、ヴァロットンの特徴としては、それがハッキリしすぎている点ではないかと思います。実際に目で見て、これほどまで書き割りのようにくっきりしていると、むしろあざとく映ってきます。そのあざとく映っているところでは、リアルのある部分をスッパリと切り捨てている。むしろ、切り捨てすぎているところに、冷淡に映るところがあるかもしれません。例えば、化粧台や箪笥、あるいは壁に建て付けられた棚は定規で直線をひいた図面のようですし、化粧台に置かれたブラシや櫛のような小物は、見る者がそれと分かるような明確な形で表わされていて、リアルな写生とは異なるものです。端的に表われているのが人物。化粧台の前にいる女性です。この女性は外形の情報を、画家なりの処理により、そのまま画面に転写したというのではなくて、実際に情報を取得しているのではなくて、女性らしき形を入れているように見えます。書き割りのような装置のなかで、いかにもそれらしいポーズ(かたち)の女性がレイアウトされている。それは、現実の日常生活の情景というよりも、演劇の舞台に設定されたホームドラマの風景のようです。ここで展示されているドニやボナールがセンサで情報を取得したままを描こうしていたのに対して、ヴァロットンは見る者の立場に立って描いているように見えます。多分、ブルジョワの小市民の生活なのでしょうが、それを伝統的な歴史画や宗教画の重厚な描き方で描くと、壮大で重苦しいものになって、わざとらしく窮屈になってしまいます。それを等身大で(この展覧会でいうと親密さ、ということになるだろう)描こうとして、このようなスタイルになっている、そういうように描いている。そこにヴァロットンという人の屈折というのか、一筋縄ではいかないところがあると思います。それは、同時に展示されているエドゥアール・ヴュイヤールの「エッセル家旧蔵の昼食」の家庭風景と比べてみると、特徴が際立つと思います。Nabisvoul

2017年5月29日 (月)

テロ対策とか治安維持とかは右翼に対してはどうなの?

  「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案について、その共謀という構成要件が問題となっていて、戦前の治安維持法の再現となってしまうという。こんな議論は的外れかもしれないけれど、昭和初期に政党政治が瓦解して軍国主義体制に一気に傾いた原因のひとつに、515事件や226事件のような軍人によるテロや血盟団のような右翼によるテロがあったと思う。これに対しては治安維持法は全く機能しなかった。515事件や226事件の犯人たちは治安維持法による裁判ではなくて、軍法会議で裁かれている。これらの結果民主的な体制が崩壊していったわけだけれど、このような軍隊や右翼のテロを防ぐことができなかったことに対する反省。あるいは、そうならないためにどうするか、ということは検討されてきたのだろうか。今回のテロ等準備罪については、どちらかという左翼的なもの、市民運動的なもの、イスラムなどの海外からのものを想定していて、右翼とか、もっというと、憲法に反する法律を国会で暴力的に共謀してつくってしまうことに対して対象とすべきではないか、といったことは議論の対象とすべきではないかと思うのは、的外れなのだろうか。

2017年5月28日 (日)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(3)~2.庭の女性たち

Nabisdoni1  ここでは最初の部屋に、カタログでは、もっと後のコーナーで展示されることになっているはずのモーリス・ドニの「磔刑像の奉納」という小さな作品に目が行きました。それによって、この展覧会に惹き入れられたと思います。この展覧会では、このドニの作品が最も多く展示されていたのではないかと思います(ものぐさなので作品数を数えたわけではありませんが)。彼は「美しきイコンのナビ」とあだ名されたといいますが、この作品を見れば分かります。磔刑にされたキリスト(磔刑像なのかもしれません)の下に駆け寄るにように集まる人々を黒い服の影にして。その群集の影の形態が波のような形となって層をなして、様々な色彩で画面いっぱいに広がっていっています。黒、赤、クリーム色といった色彩の階層は輪郭線でくっきりと縁取りされています。この波型の階層は、人々のオーラのようです。それはまた、キリストの姿からのピンク色の雲につながっているように。見えます。それは、信者のオーラとキリストから発せられるものとが、精神的な波が呼応するするように見える。おそらく、ナビ派というグループがどうかというより、モーリス・ドニという人には、それが見えていたのではないかと、私は想像します。それは、彼が霊能者とかそういうことではなくて、カメラで撮ったような一般的なリアルな視点では切り捨てられたところ。おそらく、そういうカメラのような視線(それは、いわゆるリアリズムというのがそれではあると思いますが)では見えなくなっている、見ないことになっているもの。ドニという人は、それを見えたのか、見ようとした。そして、その見ようとしたものを描くために、このような描き方になっていたのではないかと、私は想像したくなります。
Nabisdoni2  「テラスの陽光」という、同じドニの「磔刑像の奉納」と同じ頃の作品です。画面右端の縦茶色は樹の並びで上方の緑は、その木々の葉でその下の画面真ん中上の薄い緑は、その間からのぞく空。空の下の赤は遠景はるかな背景はタイトルの陽光に映えているということでしょうか、その手前、つまり画面の真ん中の縦のオレンジの入った赤は人影で風景を前にして佇む人でしょうか。その人影のまわりは木漏れ日が注いでいるのか赤くなっています。そして、それ以外の地面はオレンジ色。それぞれ色の面に塗り分けられている。これは、前のコーナーで見たポール・セリュジェの「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」に似たベタ塗りの色斑のような平面的な画面に見えるので、ナビ派という括りにしたのでしょうか。しかし、私には、ドニは、セリジュの作品を見て、そのような描き方があるということ、つまり描き方の選択肢を教わったという影響で、どうして、そのような描き方をするのかという点で、異なるのではないかと思えるのです。それは、ドニの「テラスの陽光」という作品は、セリュジェの作品よりもサーモグラフィの画面に似ている、と私にはみえるのです。ご存知のように、サーモグラフィは表面温度を検知して、その温度によって色がかわって画面に映し出されるものです。ドニの「テラスの陽光」の画面は、陽光が当たっているところは赤かったりオレンジになっています。そういう視覚では検知できないこと、この作品では温かさです。その基準でこの風景を映すと、この作品のようになるのではないでしょうか。その場合に、目で見る視覚で捉えていないので、空間とか遠近感は関係ないわけです。むしろ、皮膚感覚で温かさを色に置き換えて、視覚化させた場合、この作品の画面はリアリズムになりえます。ドニは、ここでは温かさを視覚で感覚しようとしている、というわけです。先に見た「磔刑像の奉納」もそうですが、ドニという人は、従来の視覚偏重の感覚とか世界への接し方に対して、感覚というの視覚だけではないということ、例えば音楽を視覚で感覚することはできない、そういう視覚だけでいると感じられないものを描こうとしたのではないかと、思えるのです。それを描くということであれば、視覚偏重の絵画技法は、あくまで視覚のためのものなので、音楽を描くとか温かさを描くとかオーラを描くとかいったことには使えません。また、音楽や温かさはそうですが、くっきりとした輪郭をもって外形がはっきり分かるように白黒の区別が明確なように存在しているわけではありません。どちらかというと曖昧で、茫洋として広がっているという存在のしかたでしょうか。あえて言えば、雲が近いかもしれませんが、そのようなイメージでドニは描こうとしたのではないか。だから、これらの作品は、あるがままを描いた写実的な作品なのです。その意味で、似ているように見えるセリュジェの作品とは、異質な作品ではないかと思えるのです。
Nabislife  かわって、ケル=グザヴィエ・ルーセルの「人生の季節」という作品です。何か展覧会のチラシなどで紹介されているナビ派の特徴を洩れなく、薄味ですが備えていて、見やすい作品になっているように思います。私には塗りが雑に見えて、それが目についてしまいました。
 ピエール・ボナールの「庭の女性たち」という連作です。“この4点の連作は、四季を象徴しています。庭に居る女性たちが、色彩の斑点によって装飾的に表現され、服の柄と植物模様、ならびに色彩の調和が特徴的な作品です。女性の服は、まるで画面に張り付いているかのように平面的に描かれています。”と解説されて、そして、この縦長の画面は日本の掛け軸や浮世絵の影響ということらししいです。点描。というより、粗いドットでかたちNabisbolnald づくった画像です。かなり粗い目のドットですが、それはスーラなどの光を微分するような精緻な目で捉えようというのではなくて、モザイクのような画像です。しかも、ボナールの作品はドットで画面をつくるだけでなく、ドットのセンサで情報を取り込んで、それをそのまま画面にドット単位で転写しているようなのです。視点という統合的な情報処理がなくて、各ドットで得られた情報がそのまま処理されているような感じです。したがって、全体としてのパースペクティブがなくて、当然空間の把握はなく、各ドットに色が塗られていて、それが組み合わさると結果として人の形になっていますが、結果としてそう見えるのであって、人体の立体感とか存在感とは関係なく、その点での色という情報が転写されているので、まるで文様のようになっている。しかし、人間というのは、そこにあるがままの情報を単に受け取るということはできないシステムになっています。つまり、センサでキャッチした情報を選り分けて、何らかの意味づけをして、その基準によって統合してはじめて視覚として認識されるわけです。一方、ボナールの作品は、そのままでは統合された意味づけがないので、人はそれを処理できないことになります。そこで象徴とか、何らかの名目、あるいは文様として捉えるということになると思います。その意味で、ボナールの作品は見る者が象徴とか意味を付加して絵画として鑑賞するか、文様のような飾り物としてインテリアのような機能をもたるものとして扱うことになると思います。ドニにしろ、このボナールにしろ、表層の感覚によって得られた情報を画面に転写するという点では、共通しています。つまり、二人とも、感情とか、メッセージとかいった、いわゆる内面的な要素はなくて、表層の情報処理に徹している。それがナビ派の特徴と言えるかもしれません。ドニもボナールも、この後の展示コーナーでもでてくるので、そのことを検証してみたいと思います。
Nabismiyol  このコーナーで最後に取り上げたいのは、アリスティード・マイヨールの「女性の横顔」という作品です。マイヨールは彫刻家としてオーギュスト・ロダンと並び称されるほどのビッグ・ネームですが、この作品は精細な印象の佳品だと思います。

2017年5月27日 (土)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(2)~1.ゴーガンの革命

 ポール・ゴーギャン(ゴーガンではすわりが悪いので、慣れたゴーギャンという呼び方にします。)は、“イリュージョニズムの絶対的な影響力に対抗し、芸術とは気質、思想、切実なる内面性を表現すべきものであって、自然を模倣するものではないと断言している。観察と想像力をないまぜにした彼の作品は、単一の空間の中に様々に異なった要素からなる世界を共存させる。”ことによって、ナビ派の画家たちに影響を与えたといいます。“象徴主義への道を歩んでいたナビ派の芸術家たちを勇気付け、彼らを夢や、神秘や、幼少期の恐怖感や、実存的な苦悩といったものの表現へと向かわせた。記号のようなものにまで省略された形態は、やがて純粋に絵画的な一つの論理としてまとめられた。”という解説が加えられていますが、そこに、ナビ派というのが、描くということよりも、むしろ理念、つまり、頭で考えて言葉をこねくり回したものからスタートしたものであることを、端的に表わしていると思います。
 私の偏向した嗜好なのかもしれませんが、ゴーギャンの作品に絵画的センスが感じられないのです。要するに下手、絵画になっていない。つまらない、というのが正直な感想です。それが、サマセット・モームの小説のモデルになったような、金融関係の仕事や家族、つまりはブルジョワ的な安定した生活を投げ出して、画家になったとか、哲学の箴言のような思わせぶりに作品タイトルが独り歩きして、描かれた作品だけは、それらに比べてあまり見られないのは、どこかで作品がつまらないことを認められている証拠ではないかと思っています。つまらない理由を説明することほど馬鹿馬鹿しいことはないのでやめておきますが、展示されている作品は、この展示構成では必要ということなのでしょうが、当然素通りしました。ですから、ナビ派の作品に対して、ゴーギャンの影響とか、上で解説されている面は、私はほとんど気にしていません。
Nabistakano  ゴーギャンに恨みはないのですが、例えば遠近法を無視した平面的な画面で見る者のものの見方を変えさせる作品として、高野文子を取り出して比べて見たいと思います。高野文子は現代日本のまんが家ですが、彼女の「田辺のつる」という作品の最後のページを見て下さい。上段真ん中のコマは少女が階段を降りるところですが、手前の階段の踊り場が水平ではなくて斜めになっていて、遠くの階段の先が遠近法では消失点に収斂していくのと反対に広がっていくわけです。となりの左側のコマで少女が降りていく途中の場面では先が収斂していく遠近法っぽい空間の描き方をしていますが、左右のバランスが歪んでいます。そして、下段のコマで少女を正面から、階段の下から見上げる場面は、階段の遠近法が極端での先の二階と、階段の先の廊下の奥との関係が歪んでいます。これは、遠近法という立体を平面にさせるイリュージョンを換骨奪胎して、空間を歪ませ、そのはこの場面に出ている少女から見た空間で、それが歪んでいるのは、少女の存在の不安定性が現れているというところ。さらに、その存在の不安定さは、少女の実存の先に死がリアルに見えてきて、それは、この画面を見ている人に、自然に入り込んでくるわけです。ゴーギャンのギミックのようなタイトルで、わざと言葉で見る者に意識させるのは、画面で表現できないという自身の力量の不足を自覚しているからやっているというフェイクに思えてくるのです。画面で勝負するとゴーギャンは、絶対的な力量で高野文子に負けている。この展覧会には縁のない話への脱線が長くなりました。だからゴーギャンには触れません。展覧会に戻りましょう。
Nabisbel1  エミール・ベルナールの「炻器瓶とりんご」という作品です。並べて展示されているゴーギャンの「扇のある静物」と比べて見ると、影響関係は認められません。別に、展覧会の解説に異を唱えるつもりはありませんが、ゴーギャンは薄塗りで水彩画のようでもあるのに対して、ベルナールは厚塗りで絵の具を盛ったように置いていて、むしろセザンヌに近い印象を受けます。左側に配される陶器、画面中央の壷、そして前方と右側の果物はどれも太く明確な
Nabisgorg_3 輪郭線で囲まれ、線の内側は立体感や質感を殆ど感じさせない色の面で、全て(静物単体が)最も収まりの良い視点で描かれています。これは、セザンヌの静物画で形相よりも実体の存在感を優先させたことではないと思います。そして、絵の具が厚く重ねられて重量感というのか、どっしりとした存在感をまず、画面に定着させようとしているように見えます。さらに画面の背景となる上下の水平線上に区切られた黄色と緑色の色面は単純であるがゆえに、静物の存在感をより際立たせる効果を発揮しています。そうしてみると、重量感が稀薄で、平面に模様のようになっているゴーギャンの作品と、どこに通じるところがあるのか、私には理解できません。
Nabisbel2  同じベルナールの作品で「収穫」という作品です。彼はブルターニュ地方の民族衣装をまとった人々を、ある時期、集中的に描いていますが、この作品もその一つです。上記の静物画と同じ手法で描かれています。ブルターニュ地方の民族的な白と黒の衣服に身を包んだ女性や背後の白いシャツで刈り取りに勤しむ人物たちは、太く明確な輪郭線と立体感を全く感じさせない色面のみによって表現されているのは静物と同じです。刈り入れをしている畑は、遠近法による空間の広がりが表現されていないで、一面に黄色く塗られています。これは、例えばヴァロットンの「ボール」の公園の風景を連想させる単純化と言えるでしょうか。面白いのは、人物の外形の輪郭は太い線でくっきりと描かれているのに、その顔は描きこみがなくて、色の濃淡でざっと描かれていることです。ベルナールの作品は、このコーナーの数点だけで、展示されている作品だけでは、他の画家たちとの共通性は、平面性ということだけです。しかし、その平面性ということで、何か他のナビ派の画家たちとは異質な感じがして、ここでは、私には分かりませんでした。その分からないというのは、ベルナールの視点ということです。おそらく、彼に見えていた世界を画面に表現したと思うのですが、展示されていた作品を見ているかぎりでは、私には、その世界が見えてきませんでした。ただ、ナビ派というグループということでなく、一人の画家としてでないと見えてこない人ではないかと、想像できます。ただし、私には、それを見たいと切望するタイプの画家では、どうやらなさそうです。
Nabissel  ポール・セリュジェの「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」という作品です。左上の木々、画面をななめに横切る道、川沿いの並木、右奥の水車小屋などあって、水面に映る対称的な姿、そのような風景の諸要素が、レモンイエローとオレンジ色そして青のベタ塗りの色斑になっていて、まるで抽象画のように映ります。まるで、初期の抽象画に本格的に移行する前のカンディンスキーの作品を想わせるところがあります。この作品は、タイトルの「護符」のようなナビ派の画家たちの方向性を指し示すマニュフェストのように位置づけられモーリス・ドニが所持し続けたということです。今回の展覧会で、セリュジエの作品の展示はこの一作のみで、ベルナールと同様に、この画家もよく分からないまま、消化不良を起こしそうです。
 おそらく、このような作品の展示が続くのであれば、私が、ここに感想を残すことはなかったと思います。

2017年5月26日 (金)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(1)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(1)
2017年2月14日(火)三菱一号館美術館
Nabispos  出張で出先の仕事が順調に進み、思ったより早く終わったので、少し無理して都心に出た。ちょうど三菱一号美術館は、閉館の時間が遅めだったので、他の美術館と違うので、間に合うことができた。また、この2月中頃の時期は、年末年始にかかっていた企画展がちょうど終わって、春の時期の新たな企画展に入れ替わる端境期にあたって、真空時間のような時期で、この展覧会は、一歩早めに始まったものだったので、普段であれば、積極的にわざわざ行くようなタイプのものではないが、行ったということだった。新鮮さもあったが、違和感もあった。以前に、ここでヴァロットン展を見た時にナビ派に触れられていたが、とくに意識するまで行かなかった。それが、この展覧会で、はじめて意識したというしだい。
さて、ナビ派というのは、あまり紹介されていなかったので、私も知識がないまま見てきました。そこで展覧会チラシに簡単な紹介があるので引用します。“19世紀末のパリで、前衛的な活動を行った若き芸術家のグループ「ナビ派」。ボナール、ヴュイヤール、ドニ、セリュジエ、ヴァロットンらを中心とするナビ派の画家たちは、ゴーガンから影響を受け、自らを「ナビ(預言者)」と呼んで、新たな芸術表現を模索しました。近代都市生活の諸相を平坦な色の面で表わす装飾性と、目に見えないものを描く内面性─日常と神秘をあわせ持つナビ派の芸術は、一見控えめで洗練された画面のうちに、20世紀美術を予兆する静かな革新性を秘めています。”ということです。ただし、そういうコンセプトで展覧会を企画したという一方で、オルセー美術館のコレクションから借りてきましたというので、ナビ派をこの展示で全貌を見ることができるかどうか、私には、知識がないので何ともいえません。 いつもは引用する主催者あいさつは、オルセー美術館から借りてきましたという内容なので、コンセプトは明らかにされていませんが(もともと、なかったのかもしれませんが)オルセー美術館の関係者が、カタログのなかで“アンティミスムと言われる親密さ、そして彼らの作品から漂う雰囲気にまず、惹かれました。それだけでなく、小さな画面いっぱいに様々な色彩が押し込められているかのような絵画空間を生み出した発想にも魅力を感じています。”と述べられているので、そういう見方で捉えられているということでしょうか。そして、同じカタログで学芸員が、ナビ派をカウンター・カルチャー、サブ・カルチャーとして捉えるという視点で意義付けをしています。それは、西洋の絵画がルネサンスの時代にレオナルド・ダ=ヴィンチが絵画を「すべての芸術に勝る至高の業」と定義して、神の業務に準ずる仕事として、二次元の平面に三次元の空間をイリュージョンとしてつくりあげ、それを支える観念の体系や知の蓄積を、鑑賞者に提示するもの、つまりハイ・カルチャーとして作り上げられていったといいます。そのような偉大で形而上学的なものは理想かもしれませんが、ありがたすぎて親しみ難いものになってしまいます。それに対して、身近な自然の光景や日常の暮らしの情景などを軽妙で簡潔に表現しようとしたのがナビ派という捉え方です。それは、現代の日本において1970年代に権威であった教養としての芸術に対して、身の回りの等身大の日常を「かわいい」として共感の視線で表現することを見出したサブ・カルチャーに重ねてみることができる、という捉え方です。それは、西洋絵画の歴史を顧みると類例のないユニークなものだということになるといいます。
 このようなことを手掛かりに、これから作品を見ていきたいと思います。ただし、一言、ここでサブ・カルチャーを引き合いに出していることについて、それは対照的に取り出しすのは、権威であるハイ・カルチャーからの上から目線での見方で、その視点でみれば意義があるということになるでしょうが、そうではなくて、サブ・カルチャーからの視点でみればナンセンス、伝統的な絵画の権威が息切れして、自力回復ができないから、辺境であるサブカルのおいしいところをパクッてきた、ということでしかありません。たとえば、日常というのはキレイごとだけではなく猥雑で惨めなものもあるわけですが、そういうことから目を背けるならば、都合のよいとこ取りにすぎないということになります。私の作品を見た印象では、そういうところは否定できないと思います。それは、例えば、18世紀のドイツでロマン主義の理想を追い求めるところを個人に強いるところが負担になって、日常の暮らしに逃避するように閉じこもり自足していくビーダーマイヤーと称される小市民的な風潮が見られると思います。それは、引き合いに出されていた、日本のサブカルチャーが当初は60年代後半から70年代初頭にかけての反体制的な、政治・社会運動の挫折をスタートのひとつとしている点もわすれるべきではないということです。

2017年5月24日 (水)

新人偏重?

 将棋に関する話題つながりということで、ちょっと苦しいこじつけですが、中学生でプロ棋士になったという人が、公式戦で連勝を続けているということで、一般のニュースでも取り上げていることを知りました。過去に、そのような人は現われなかったという破格の人なのだということは分かりますが、その実力としては、四段ということで、将棋の世界であればA級というトップリーグにはほど遠いところにいる人しかないわけです。彼は、将来を期待されているかもしれませんが、所詮、その程度の人です。ボクシングで言えば4回戦ボーイのようなものでしょうか。4回戦ボーイが連勝を続ければ、話題になりますが、そこで彼が連勝したとはいっても、世界タイトル戦のようなレベルの相手ではなく、4回戦において連勝しているということではないかと思います。
 とくに将棋の世界に限ったことではありませんが、企業においても、新卒の新入社員のための入社式は、毎年4月1日のニュースで必ず取り上げられます。そしてまた、新入社員や、あるいは企業内の人事異動によってはじめての業務に就いた人に対しては、初心者向けの研修や入門書が沢山あります。例えば、新入社員のための研修やハウトゥー本。また、初めての営業のための入門書、初めての人事担当者むけセミナーとか、たくさんあります。しかし、それ以降の本や講座は、バタリとなくなってしまいます。
 これは、私の偏見かもしれませんが、新人とか入門者にたいしては、とても親切で至れり尽くせりで、人々は何くれとなく、眼を配っています。しかも、少し目立つ新人が出てくると、大スターのように称揚しています。
 それが新人の段階をすぎると、急転直下、無視に近い扱いとなってしまいます。
でも、本質的には、14連勝した新人棋士の将棋よりも、名人戦の攻防の方がすごいはずです。また、企業では、新入社員よりも現場の最前線で身体を張っている中堅の人が事業を支えているはずです。私は、新人はいなくても、いいけれど、このような人たちがいなければ将棋も企業も存続できなくなる、そういう存在だと思います。本来であれば、そういう人にスポットライトをもっと当てるべきではないかと思うのです。
 また、企業の業務の研修の話題を少しフォローしますが、初心者段階を過ぎた、実際には業務2年目程度の人は、未だ、自分で考えて自己啓発できるほど、業務を自分のものにできる人は多くないと思います。そういう人向けの教育とか研修というもの、初心者としてひととおりのこと、業務がどのようなものかが、だいたい分かったから、それから、どのように進んでいくかという、いわば第2段階程度は、初心者向けと同じように定型化していると思います。だから、初心者向けと同じように、第2段階向けのハウトゥー本やセミナーが充実していてもいいのではないかと思います。

2017年5月23日 (火)

コンピュータにはできない将棋や囲碁のプレイ つづき

 もともと、囲碁や将棋が日本で長い時間をかけて、独特の発展を遂げて、広く普及したのは、武装集団である武士たちにとって戦場のシミュレーションとして、教育や訓練の働きを持っていたからではないかと思います。囲碁というのは、陣地取りの攻防ですし、将棋は機能の異なる駒を駆使した戦略の駆け引きを抽象化したものだろうと思います。そのうちに、囲碁や将棋をゲームとして楽しまれるようになった、ということを想像します。
 そこで、前回の続きですが、コンピュータによって、このゲームで勝つことを、確実に勝つ、効率的に勝つことを追求することは、戦場のシミュレーションという本来の目的に適ったものと言えると思います。しかし、それでは、そのシミュレーションを実際の戦場に応用できるのでしょうか。囲碁や将棋は、戦場の駆け引きや敵味方の形勢の流れをエッセンスとして取り出したものだろうと思います。しかし、実際の戦場では人間である兵士が動くわけで、ゲームの駒のように疲れ知らずでもなく、決められたとおりに動けない場合も多々あるでしょう。その他にも、ゲームでは切り捨てられた要素が沢山あり、それらは時々刻々変化している、ということでしょう。したがって、囲碁や将棋は、戦場での姿勢とか原則的なところのシミュレーションということでしょうか。しかし、その姿勢とか原則があって、多様な情報を整理して活用し、実際の戦略や行動に移っていくというところでしょうか。そのなかで、囲碁も将棋も二人が相対するという形式の意味というのが、あると思います。それは、戦場では部隊が相対するとき、それぞれの部隊はバラバラではなく統一された行動をとるわけで、それは指揮官が統合しているわけです。そこで、その指揮官はどのような行動を指示するかを予測することになります。その時、指揮官は機械ではないので、予想できないような指示をするかもしれない。というのも、人間は感情によって突飛な判断をすることがある。だから、相手の心を読むといったことを必要とするわけです。囲碁や将棋には、その要素があります。場合によっては、相手の心を読むだけに留まらず、相手の心に何かを書き込もうとすることすらあります。例えば、相手を心理的に追い詰める、騙す、油断させるといったことです。それは、実際の戦場においても、応用可能ではないかと思います。
 そして、現代の囲碁や将棋の棋士たちのゲームを人々が楽しんでいるのも、実は、相対する二人の棋士の心理的な駆け引きを、見ることができる点は大きいと思います。それは、見る側にとっては、物語を生んでいくものでもあると思います。というのも、戦場では天候とか、地形とか兵士の状態(士気、疲労他)などといったゲームに入ってこないことが、現代のゲームではその代わりに別のことがあると想像できるからです。それが、見る者の想像をふくらませて、物語を豊かなものにしています。そうでなければ、将棋や囲碁を題材にしたマンガや映画が生まれることはなかったでしょう。しかし、それらのことはゲームで確実に勝つということとは関係ありません。むしろ邪魔です。だから、コンピュータによって行われるゲームでは、そのような要素か切り捨てられてしまうのでないかと思うのです。そうなった囲碁や将棋を人々は見たいと思うでしょうか。そうなった囲碁や将棋に、人はどのような楽しみを見出すのでしょうか。それがよく分かりません。

2017年5月22日 (月)

コンピュータにはできない将棋や囲碁のプレイ

 人工知能の技術の進展のめざましさは、囲碁や将棋といったゲームで人間のトップ・プレイヤーをコンピュータが打ち負かすことが珍しいことではなくなってきています。もはや、人間はコンピュータには勝てない、というところに来ているのではないか、というほどでしょうか。ある棋士がインタビューでコンピュータと人間の違いについて、コンピュータは手に思い入れがないということを言っていましたが、それは、人間の棋士は、次の一手を考えるときには、これまで経過を物語の流れのように捉えていて、その流れで考えるといいます。当然、そこには、それまでの自分が打ってきた手に対して思い入れのようがあるということで、その棋士がいうには、人間は、その物語に思考を縛られてしまうといいます。そこで、選択された手は、後で考えれば、その局面で最適の一手でないこともある。これに対して、コンピュータの場合には、その時の最適の一手を、何の思い入れなしに選択できる。それが大きな違いといいます。おそらく、コンピュータは、次の一手について可能性のあるいくつかの選択肢について、リスクとメリットを比較衡量して、確率の高いものを選択していることになると思います。もしそうであるとすると、純粋に確率計算だけで成り立っていて、偶然性が排除されれば、確率の確度が高まっていくのと同時に、次の一手が決まっていってしまうことになるのではないでしようか。偶然のハプニングが起こらないのであれば、勝つための確率の高い手を選択する。つまりは勝利に向かって最短コースを一直線に向かうわけで、まわり道を必要はないでしょう。それを突き詰めれば一本道ということになるのでは。つまり、最強の手です。もし、そうなってしまったのであれば、最初の一手で、あるいはゲームが始まったときに、すでに結果は決まってしまうことになるわけです。その時、ゲームは果たして面白いのでしょうか。
 おそらく、人間のプレイヤーであれば、さきほどの棋士が語っていたように、必ずしも最適の一手を選択するわけではないため、究極の勝利に向かって一直線ということは、目標としていても、到達は不可能に近いものだったはずです。不可能であったからこそ、それを目指して切磋琢磨する棋士たちのプロセスを見て、面白かったり、感心したりすることができたわけです。たぶん、そういうことはゲームに勝つということに関しては、役立たないノイズでしかありません。しかし、もしかしたら、将棋や囲碁を人が楽しむのは、実は勝つという確率計算の部分ではなく、ノイズの方だったのではないかもしれないと思うようになりました。それは、おそらく、コンピュータがゲームをする場合に、ノイズを排除していると思えるからです。その行き着く先が究極の一手ということになるのではないか。そして、もし、その究極の一手が実現した時に、将棋や囲碁の意味、それを人がプレイする意義とは何か、ということが問われることになるのではないか、と思います。
 現在のところでは、そのような意義を考えることは、誰もしていませんが。なぜ人は将棋をするのか、囲碁をするのか。トランプでもなく、サッカーでもなく、その他のもろもろではなく。そして、そのなぜをゲームにおいて体現するようなプレイを目指すプレイヤーがいてもいいのではないか、それは必ずしもゲームに勝つこととイコールではありませんが、全く別ということではないでしょうが。もし、それが実現したとしたら、それはコンピュータでは、到達できないのではないかと思います。

2017年5月 7日 (日)

ティツィアーノとヴェネツィア派展(4)~Ⅲティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ─巨匠たちの競合(1550~1581)

 この展示の前にヴェネツィア派の版画として、たくさんの版画が展示されていましたが、素通りしました。
Tizianopalus  ティツィアーノの「教皇パウルス3世の肖像」です。今回展示されているティツィアーノの作品を見た限りでは、ティツィアーノという画家の真骨頂は人物表現にあるのではないかと思われてきます。人物表現といってもアプローチの仕方は様々ですが、私の眼に映った彼の特徴的なところは、表層を描いているというところで、それはとりわれ肌の色合い、そこに光があたるグラデーションや陰影というところです。陰影といっても、人物の立体的な造形を表わして、それを画面という平面に置き換えるときに立体性を表わすものとしてではなくて、陰影が肌の色を変化させていく契機として、彼の場合は、そこで生まれる肌の色の変化の織りなす様子が主眼になっている。そして、その表面を感じるために、感触という視覚ではなくて、触覚の感覚、つまり眼で見えないものをそこに導入しようとしているところです。これが、目に見えないものというと人物の内面とかいう方向性がありますが、ティツィアーノの場合には、そういうものへの志向性がなくて、あくまでも表層に興味が限定されていて、しすし、その表層にこだわることで眼に見えないものである感触に行き着いてしまうといったことを感じるのです。
 この作品で言えば、老人である教皇の皮膚の皺です。この作品では、その皺が作り出す、肌のカサカサになったような硬い感触と、その皺の深さが肌に作り出す影の濃さとなり、その光と影の綾と肌の色の変化の綾が精緻に描写されています。
 ここで、多少の脱線になって、少しばかり図式的な議論になると思いますが、ティツィアーノの作品の志向しているところは、こんな方向ではないかというところをまとめてみたいと思います。今回の展示が、ティツィアーノひとりではなく、ヴェネツィア派の系統の画家の作品を集めて、ティツィアーノもその一つという展示の仕方をしていました。昨年のヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たちという展覧会で、“ルネサンス発祥の地であるフィレンツェの画家たちが、明快なデッサンに基づき丁寧に筆を重ねる着彩、整然とした構図を身上としたのに対して、ヴェネツィアの画家たちは、自由奔放な筆致による豊かな色彩表現、大胆かつ劇的な構図を持ち味とし、感情や感覚に直接訴えかける絵画表現の可能性を切り開いていきました。”という説明がありましたが、ここで見てきた作品についても、色彩が大きな魅力になっていました。これは、ローマに近く内陸部のフィレンツェと地中海に面してアジアとの交易で栄えたヴェネツィアという都市の性格の違いが人々の嗜好風土の違いを生んだ。それが絵画の趣味にも反映しているということになるのかもしれませんが。その性格の違いを、少し異なる視点で考えてみたいと思います。フィレンツェの絵画のあり方には、近代的な人間観があると思います。つまり、人間は個々の人格をもち、それは一人ひとりが独立した個人として統合され、個人で完結したコスモスのようなものだ。それは人間の内に存在する、つまり霊とか精神といったものだ。これに対して、現実に人間は肉体、身体をもって存在している。つまり、ここに存在しているそれぞれの人間は精神と身体の統合されたものであるということ。簡単に言えば。それを絵画にした場合に、身体の側面だけを描いていては、人間の内に存在する真実が抜け落ちてしまう。従って、人間の内である精神が表されるようにする。つまり、精神が内に宿した身体という統一性を描くことを求めることになる。それは例えば、人間は内なるコスモスといったように秩序であることから、例えば幾何学的な完璧な図形が真実であるように、均衡を保った形態に、それが象徴的にあらわれ、それを美と呼ぶことができる。それを人体を描く際には、整然として均衡のとれた構図で、そのことを明快に示すデッサンにより表現されるということになるわけです。つまり、精神を伴った真実の形を描くということになります。これに対して、ヴェネツィア派の絵画は、表層の色彩などで感覚に直接訴える、外面的な傾向が特徴です。これは、近代以前の精神とか霊といったことは神に属することで、人間や動物は自然の物質の世界にいる。そういう自然の世界では、目の前に何を見たり、触ったりして感覚できるというものです。そのような目の前にあるという断片がそこかしこにあるという感じで、統一的な秩序というよりは渾沌のようなものです。ある意味では内面的な精神を統一的な秩序としてみる側からは、表面的な感覚を追求するのは、精神を伴わない華美であり、快楽的であったり、享楽的ということになるでしょう。しかし、別の面から言えば、近代以降、現代においては統一的な秩序という近代的な人間観から、そのような統一ということが実はフィクションでしかなく、現実には不条理があり、そこで無理をして統一的な秩序を求めれば必ず歪みが生まれてしまう。それが例えば、個人の孤独だったり、不安だったりといったことです。そして、ティツィアーノのような目の前の感覚を追求していくという絵画のあり方は、近代を跳び越えて、現代に通じるところがあると思えるところがあります。それは、ティツィアーノの前時代の画家の作品をシュルレアリスムやラファエル前派に通ずるところがあると戯言を述べましたが、ティツィアーノは、間違いなく、その系統に位置しているわけです。実際に「フローラ」のキッチリしすぎている、人形のような顔かたちは、現代の日本のマンガのニ次元美少女のパターンと共通性を見つけることができそうだ、というのはこじつけでしょうか。
 ここで「教皇パウルス3世の肖像」に戻ると、この人物の人格的な価値の高さとか宗教的な神聖な人格といったことが、この姿勢や顔の表情や皺の深さに象徴的に表われているとは言えません。また、人物の周囲や背景に、そのようなことを象徴的に表わすアトリビュートのような記号を散りばめることもしていません。この画面にあるのは、豪華な衣装をきらびやかに描くことであり、血色のよく生気に溢れた皮膚の張りを生き生きと描くことです。そこに結果として描かれているのは、役割としての教皇です。その人は、個人という完結したところに留まっているのではなく、その個人がないからこそ教皇という人間と神との架け橋のような機能的な存在として人間を超えたところにいるわけです。そのため、人間の内面を描かないことで、かえって、超越的な存在となっている教皇を表わすことになっているというわけです。
Tizianomaria  同じたティツィアーノの「マグダラのマリア」です。彼女はもともと娼婦であった罪深い女性だけど、イエスに出会って改悛しその後イエスに従って過ごし、最終的には聖女になった女性、と一般的には解釈され、とくにルネサンス以降には彼女の改悛を主題として取り上げる作品が制作されるようになります。この作品もそのひとつに入ると思います。この場合、マグダラのマリアの改悛という、いわば劇的な信仰のドラマということになりますが、改悛して信仰に生きる女性の改悛に至るまでの罪深い生活を悔悛する痛ましさ、敬虔さという面と、もとは娼婦であったという官能的な魅力を備えた美しい女性という信仰に対して罪深い側面という、相矛盾するふたつの側面を備えています。こ一人の統一した人格としての女性が、このような相反する二つの側面をもっているということを一枚の絵画の画面に表わすということは、とても難しいのではないかと思います。これが時間の経過を伴う、例えば演劇であれば、最初娼婦である彼女がキリストと出遭い、改悛して、過去と訣別し、新たに信仰の道に入るということで、時間の経過の中で二つの面を別々に提示し、官能的な面を後で否定することで、人格の統一は保つことができますし、官能的な面を否定することで、それと対照的に信仰の面が強調されることになります。しかし、絵画には、そのような時間の経過を織り込むことはできません。例えば、バロック美術Caravaggiomaria の画家、カラヴァッジョやラ=トゥールの描くマグダラのマリアは改悛した後の修道女のような質素な姿で、官能的な描写は抑えられています。それがマグダラのマリアであることは、周辺に配置された彼女を象徴するような小道具(アトリビュート)を配置することで、信仰に生きる女性としてのマグダラのマリアの姿をあらわしています。そこで、ティツィアーノの、この作品を見てみると、官能的な美女を描くということを、折角の機会なのだから、精一杯に美しく描こうとしている、というように見えます。この場合、改悛して信仰に生き、官能的な面を罪深いとして否定し悔いた姿として統一させるということはしていません。前にも述べましたように、ティツィアーノには近代的な個人、つまり統一した内面を備えた人格が姿に表われ、それが均衡という秩序を持った形態という理想として画面に描かれるという方向性にはなっていません。いわゆる理想的な形態が結果として美となって表われるというよりは、感覚的な美、いって見れば官能的な美、全体の均衡よりは部分的とか刹那的に感じらりる美という方向性で作品を描いている面が強い画家であると思います。それは、ヴェネツィア派の画家たちの系譜として共通の基盤のようなものかもしれませんが、ティツィアーノに残されていると思います。それが、この作品ではマグダラのマリアという女性の見た目の美しさ、それが官能的な美しさであるとしても、それが信仰に生きようとする彼女の内心の志向するところに、外面が適合するようには描かれていません。それとこれとは別、とティツィアーノは意識して考えたのではないでしょうが、統一させるということは意識していなかったのではないかと思います。折角の美人なのだから、それを描こうというのが無理なくできた、そういう画家であったのではないか。薄く透明なヴェーLatourmaria2 ルと白い下着の姿で左肩をはだけて露わにしたポーズは聖女にふさわしいとは言えないような官能的なポーズで、チラリズムの刺激的な姿です。そのあらわにされた肌の白さ、柔らかで滑らかな感触が、顔では上気したような赤みかがった色合いや、あごの柔らかな肉付きの描き方、仄かに明らんだ唇が震えるような感じと、仰ぎ見るように上に視線をむけて、目頭から涙がこぼれてくる、その目頭が熱くなった赤く充血している。そこでの赤のヴァリエーションの使い分け。そして、赤みかがって光り輝く金髪の豊かウエーブして、肩から胸の膨らみの谷間を流れるようす。それが光に反射するところとウェーブによりつくられ影との陰影。それらが、細かく描きこまれています。これらは、前に見た「フローラ」や「ダナエ」以上に力が入っているようで、信仰の聖女というより、古代の異教の女神を描くのと同じようです。個々で描かれている美は、精神的なものに昇華された天上的なものではなくて、感覚的で官能的な地上的なものです。これをティツィアーノの、この作品では罪深い、否定すべきもの、悔うべきものとして描かれているようには見えません。それは、マグダラのマリアの悔い改められた信仰があっても、同じように美しさが同じ人物のなかで存在しているという姿です。それは、穿っていえば、人間とは、もともと理想的に割り切ったように一貫した存在ではなく、矛盾を抱えた、時には理不尽な存在でもありうるわけです。これは、現代の、例えば実存主義や心理学の指摘などにも通じる点がある、というのは飛躍でしょうが、そのような点に、この作品を現代の私が、ある意味でリアリティをもって切実なものとして受け入れることができる可能性があると言えると思います。
Tizianodiana  一方、ティントレットはティツィアーノと並べて巨匠として上げられていますが、「ディアナとエンディミオン」という作品をみると、一応完成はしているけれど、力がこもっていないという印象で、ティツィアーノの引き立て役ぐらいにしか見えませんでした。
 ティントレットより、展示の最後にあったヴェロネーゼの「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者ヨハネ」という作品が印象に残りました。ここで、ティツィアーノやティントレットと並べて名前を挙げられている画家なので、美術史のビッグネームなのでしょうが、知識のない私には、その点は不案内です。明るい画面で、左側の女性の金髪の黄金色の輝き、右側の女性の赤と金色の衣装。そしてはだの白さのまぶしさ。それらの色が、それぞれの色の効果を打ち消し合うことなく、全体として、明るい画面をつくって、全体としての輝かしさを形成しているのは、眼がくらむほどです。ここには、ティツィアーノには残っていた人間の内面と外形との矛盾対立はもはや残滓もなくて、屈託をもたずに色彩の操作で画面を作り上げていると思います。人間を人格としてとらえるとか感情移入するとかいうことではなくて、相対的に冷めた眼で人間を、ここでは題材がキリスト教の物語なので、宗教の信仰に没入するというのではなくて、結果として距離を置いた批評性が生まれている、という見方ができるようなものになっていると思います。それは、ティツィアーノには、見られなかったものですが、明らかにティツィアーノが潜在的に持っていたものを、取り出してきて発展的に継承したのではないかと思わせるものです。この作品での中心は色彩であって、幼児のキリストや聖母マリアでなければならい必然性は、見ていて感じられない。この人物構成、配置でヴェネツィアの富裕な商人の家族の光景とタイトルされても違和感はないです。ここに、キリストや聖人の神々しさのそれらしい描き方はされていません。むしろ、赤ん坊の肌の柔らかな色彩とか、金髪や衣装の色彩を消費するような、極端なことを言えば、精神というような重石を切り捨てて、消費する。それは、感覚できるものを、手に取れるものだけを描くという唯物的な姿勢、刹那的な姿勢に行き着くようなもののように思えます。それは、ティツィアーノにも潜在的にもっていて、同時代のミケランジェロなどのような人には持っていない、独特の個性のように思えます。
Tizianovelnez  全体として、力のこもった作品は少なくて、それで全体を判断するのは、早とちりかもしれませんが、ひとつの視点はみえたような気がします。

2017年5月 6日 (土)

ティツィアーノとヴェネツィア派展(3)~Ⅱティツィアーノの時代(1515~1550)

Tizianoflora  このコーナーに入ってすぐに、ティツィアーノの「フローラ」が展示されていたのを見ると、他の画家たちとティツィアーノとは違うレベルにいるのが一発で分かってしまいます。“その魅力は、リズミカルな曲線が織りなす図像の甘美さと、調和のとれた色面の配置にある。女性は、画家の熟練した腕前によって、不明瞭な背景からくっきりと浮かび上がってみえる。画面は、慎重な明暗表現から生まれた動きに基づき、構成されている。ミニバラ、スミレ、ジャスミンなど、春に咲く花々の束を持つ右手のひらの捉え方に、人物を短縮法で描くことへの関心をはっきりと見てとることができる。あらゆる部分が計算された色彩で表わされ、事物の描写に関しては、バラ色の色調で表わされた繻子のブロケードを、純白の肌着の襞が作る陰影に結びつける複雑な色の塗り重ねが特に素晴らしい。肩から滑り落ち、肌を露わにするこの肌着は、古代風の衣装を真似た当時の下着で、若い女性の肌の色を引き立てている。方のほうにわずかに傾けた女性の優美な顔は、赤みがかった金髪に縁どられている。本作品には、ティツィアーノの円熟期を特徴づける絵の具の厚塗りがすでに認められる。柔らかい色彩で人物の立体感が表わされ、素早く力強いタッチでたっぷりと施された鉛白のハイライトに、画家の熟達した技量を見てとることができる。”というような解説がありました。分かったような、分からないような。この解説文をネタにして、作品を見ていきたいと思います。前のコーナーの作品については、色彩や色遣いのことしか述べなかったと思います。この作品でも、色は、その魅力の主要な要素と言えるでしょう。とくにフローラの肌の色です。前のコーナーのテンペラとは違って油彩なので、絵の具や技法が異なるので、単純に一緒にすることはできないのでしょうが、この「フローラ」の魅力のひとつには色彩という面があることは否定できないと思います。例えば、フローラの顔から首、そして露わになった肩から上半身の肌の色です。しかも、ティツィアーノは、それを引き立たせるための演出を行っています。例えば、人物の背景は具体的なものが描かれず、単に暗い色が塗られているだけで、フローラはそこから浮かび上がってくるように映ります。それに伴い、暗く鈍い色の背後と対照的にフローラの肌が光に照らされたように映えるように、見る人に映ります。一方、彼女の着ている衣装は白い下着のような薄い衣服で、露わにさらされているフローラの肌と対立するような緊張をつくっていません。従って、背景から浮き上がった肌の色が、柔らかく、繊細に見えてくるのです。白い衣装以外にも、金髪という髪の色も肌と対照的になっていないし、ガウンのような白い衣装のうえにかけられている服の赤もどぎつさがなくて、穏やかな色調です。これらは肌の色と穏やかなハーモニーをつくりだしているように見えます。見る者は、落ち着いて肌の色を味わうことができる。
 しかも、この肌は頬の赤みであったり、首や肩の白さといった微妙なニュアンスの変化が、陰影によるグラデーションてあいまって重層的で複雑な変化をもっていて、実際に塗り分けられています。また、白い下着のような衣服は、透き通るほど薄さで肌のいろが透けているのと、襞やしわによって生じる影のグラデーションがさらに細かく彩色されています。
しかし、そういう細かさが気にならず、全体として肌色のたおやかな移ろいと言った感じで、その肌色がキレイだということが魅力的に映えているわけです。
 一方、このたおやかな肌色に塗られたフローラという女性は丸みを帯びたふくよかな輪郭で、まるで肌色の柔らかさを最大限に生かす佇まいです。つまり、フローラの姿が素描されて、それに彩色されていくという構造になっているのが普通でしょうが、この「フローラ」を見ているかぎりでは、色がまずあって、その色の魅力のためにフローラという題材が選ばれたり、このように描くという素描が行われたのではないか、と思われるのです。もちろん、近現代のフォービズムのように色が独り歩きして、現実にあるとかないといったことを超越してしまうようなものではなく、あくまで女性の肌の色というものです。肌色は現実の人の肌に色に似た色で、それを連想させる範囲内にあります。
じっくり見ると、このふくよかな女性のプロポーションは、フィレンツェ系の画家たちの素描に比べると、顔と身体のバランスやかしげた首の軸とか、ちぐはぐに感じさせるところがあります。しかし、この肌の色をたおやかに、柔らかく、豊かに塗られていると、違和感を生むことがなくて、むしろ、それによって色が引き立つようになっているように見えます。
Tizianopalma  ティツィアーノの「フローラ」と同じような構成、人物のポーズをしていたのが、パルマ・イル・ヴェッキオの「ユディット」という作品です。肌のグラデーションはティツィアーノ以上に精緻で、これに較べるとティツィアーノの「フローラ」はコントラストがあって、輪郭が明確に見えて、その絵画っぽさ、人工的なところが、かえって分かるようです。それほど、この作品の技巧的な精緻さはすごいと思います。ユディットという女性の肌の柔らかさの感触の表現などティツィアーノ以上に肌触りを再現されたような巧みさが見えます。しかし、これは好みの問題かもしれませんが、ユディットのふくよかさが肥満に見えて、顎がだぶついて、首が陥没しているように見えてしまう、丸みを強調しすぎであることが、どうも見たいと思えないところがあります。彼女のプロポーションの、例えば腕の位置の不自然さとか、紗がかかっているわけでもないのに、薄ぼんやりとしているところが、幻想風になるのではなく、リアルもリアリティも減っているように見えてきます。ちょっとグロテスク、頽廃趣味のグロテスク趣向の美の追求ではなく、美からずれてしまっているような印象です。この作品をティツィアーノの「フローラ」と並べて見ると、ティツィアーノの人工的な、リアルとかリアリティとは無関係な、美をつくっていくという性格がよく分かります。
Tizianobionbo  ほかにも、聖母子などの女性像が展示されていましたが、描き方が雑であったり、色がきたなかったりと、素人の私が見ても、ティツィアーノの作品とはレベルが違うことが明白な作品ばかりでした。むしろ、男性の肖像画に面白いものがありました。そのひとつ、セバスティアーノ・テル・ビオンボの「男の肖像」です。“陰影を丹念に施す手法や柔らかい光の効果、憂いを帯びた人物表現において、ジョルジョーネの様式に極めて近い”と説明されています。暗い中で、振り返る断線の顔に光が当たり、顔が浮き上がるように見えてきますが、帽子の影になって下半分しかハッキリしません。そのポーズと振り向いた顔の光線の変化を、憂愁の印象にまとめた佳品だと思います。聖母とか言うように理想化されて、いってみれば個性を超えた美という理想に縛られた女性像に比べ、男性の肖像は個人の個性的な顔つきとか形態の描写を追求できているようで、描き方も変化があって、面白かったです。
Tizianodanae  ティツィアーノの「ダナエ」。おそらく、「フローラ」と並んで、この展覧会の目玉といっていい作品です。“ティツィアーノは「色彩の力」すなわち、語り得ないものを表現する卓越した力を示した。黄金の光がアクシリオス王の娘ダナエと、ユピテルの突然の出現に驚くクピドの体を照らし、左に寄せられたカーテンの襞とシーツの皺の上で揺らめき、クピドの多彩な翼の上で戯れる。色彩は、あらゆる形態を包み込む黄金の光で満たされた場面の中で煌いているように見える。一方、寝室奥の円柱と壁に落ちる陰影は、空間を閉ざし、前景を圧縮しつつ、ダナエとクピトをまるでフリーズ上の浮彫彫刻のように際立たせている。とりわけ堂々とあらわれる裸婦は、ミケランジェロによる神話や寓意主題の彫刻の偉大さ比肩するほどある。ティツィアーノは、物語にひつようのないいかなる要素も排除し、そこに唯一無二の直接的な現実感を付与している。”「フローラ」と較べると、よくいえば自由に伸び伸びと描いている。別の言い方をすると、「フローラ」ほどキッチリと描かれていない。まあ、画面大きさが「フローラ」と「ダナエ」とではスケールが違うので、同じように描くようにはいかないでしょうが。どちらがいいかは、好みの違いということになると思いますが、「フローラ」のころは、今だ、若い画家としてのティツィアーノが、伝統の中で自身の存在を主張していこうというように、制約の中で妥協しながら制作しているところと、気負いが、いい意味でもそうでない意味での硬さとなって表われているのが、この作品のキッチリしたところだと思います。これに対して「ダナエ」は、すでに名実共に大家となった画家が、伝統とか周囲に余計な配慮をすることなく、自身の個性を全開にして制作している。言ってみれば「フローラ」は、優等生的に課題をクリアするようなところがあって、画家の壮年期に比べて個性が際立ってきていませんが、「ダナエ」には画家の特徴が際立って来ている反面、短所も隠さずに表われていると思います。昨年、新美術館での「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」でティツィアーノ晩年の大作「受胎告知」を見た時も思いましたが、ティツィアーノという画家は、空間を把握して画面に空間を構築するというのは得意ではないのではないか、という点です。しかし、画面の中に描かれている人々のひとりひとりを描くのは、適当に強弱をつけながら上手いので、それが画面全体を生彩あるものにしているという点です。「ダナエ」でも、彼女は室内の、ベッドの上で横たわっているはずですが、そういう場所で、そこにユピテルが雨に変身して部屋に侵入してきたという空間がつくられていません。裸のダナエがいて、画面の真ん中にユピテルが身をやつした靄のようなものが金色にモヤモヤしている。一応、ダナエの下方が白いシーツでベッドがあることらしい、という程度です。しかし、その反面、ダナエ、というよりも裸婦が堂々とした肢体、とくに官能に火照るような肌のグラデーションと柔らかな感触です。しかし、彼女の形態は上半身と下半身のバランスが取れていないようですし、顔の表情はそれというところがなく、あくまで顔であるということ、顔の造作が整っている美人であるということ以上のことは明確に描かれていません。ティツィアーノの特徴としては、色彩やグラデーションから漂う雰囲気かに、感触とかいう視覚化できないものを想像させて、画面を鑑賞させるというものでしょうか。
Tizianoreda  続いて、ティントレットの「レダと白鳥」が展示されていました。同じ裸婦ですが、「ダナエ」と並べると雑な感じで、裸婦には生気が感じられないし、白鳥はお座なりにしか見えないし、ガッカリの作品でした。

2017年5月 5日 (金)

ティツィアーノとヴェネツィア派展(2)~Ⅰヴェネツィア、もうひとつのルネサンス(1460~1515)

Tizianobellini  ヴェネツィア派の創成期のジョヴァンニ・ベッリーニとその工房を中心として、その周辺を主とした展示です。この展覧会のメインがティツィアーノなので、そのイントロといった位置づけになると思います。正直に言えば、これと取り出して特筆したくなるような作品はありません。ティツィアーノと比べると引き立て役になっていると思います。
 ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子(フリッツォーニの聖母)」という作品です。人物が人形みたいで、類型化そのものとか突っ込みどころ満載で、もっともらしい理屈はいくらでもいえるのでしょうが、この作品の魅力は背景の空の色彩に尽きると思います。テンペラという技法でしか出せない鮮やかさなのか、その後の画家たちの油彩では、これほどまでに抜けるような透き通る青空を、見た記憶がありませんでした。見たかもしれませんが、それが記憶に残っていない、ということは、それが印象的に描かれていないということでもあって、絵画というものに対して色々なことを考えたり、様々な要素を画面に織り込んだりすることによって、単純に色の綺麗さとか鮮やかさを愛でるということがやりにくくなっていったのが、絵画の進歩でもあるという考え方もできるわけです。言ってみれば、プリミティブな単純な見た目の気持ちよさを素直に味わえるということだろうと思います。
Tizianovivalini  バルトロメオ・ヴィヴァリーニの「聖母子」もそうです。聖母子の着ている衣装の深い緑と、聖母が下に着ているピンク色、そして二人が座っている椅子に掛けられた赤い布。これらの色の鮮やかさ。それと背後の光輪になるのか金色に輝くのとの対比が目に映えるところ。人物の描き方とか、陰影がつけられて立体感とかいったことは、美術史の学者や美術館の学芸員が理屈をつけてくれればいいので、私の場合のような消費者のような野次馬は、見た目の快楽ということで、ある意味テーマとか何が描かれているとかいったことは、どうでもよくて抽象画のように意味とか形を考えずに色とその組合せを堪能しているといった具合です。もっとも、これらの作品を、単独でこれだけを、わざわざ鑑賞したいと思うことはなくて、この展覧会のようにずらっと並んでいて、作者もタイトルも考えずに、たまたま視野に入った、これらの作品を見て時間を浪費するといったような鑑賞(消費)の仕方に適しているといったものだと思います。
Tizianobasaiti  マルコ・バザイーティの「聖母子と寄進者」という作品で、この聖母の顔はまるで能面のようで、裸の赤ん坊はセルロイド製のキューピー人形です。描かれた当時は、そういうものだったのかなどと考えることもないのですが、そんなことは関係なく、今、東京でこの作品を見て楽しむことと、それは関係ないので、そのときに、この作品は、それでも十分楽しむことはできるもので、それは、どういうところかという、単純に聖母子の肌の色の心地好さです。画像では、それが伝わらないのでもどかしさが残りますが、実物を見ていて触角に近いような知性を伴わない純粋に感覚的な快感に近い心地好さではないかと思います。
 また、こんな見方は冗談のようで教科書的ではないのですが、マルコ・パルメッツァーノという画家の作品が何点か展示されていて、上にあげられた作品に比べるとキチッとしたリアルなスタイルのデッサンができていて、形がはっきりしている作品を制作しているのですが、フィレンツェのルネサンスの画家たちに比べると、どこか人工的なつくものめいた感じがするところがあるのが、ちょっと変な感じで、むしろ近現代の作品に似通った印象を持たされる面白さがありました。例えば、「死せるキリストへの香油の塗布」という作品は、人物の顔の描き方が柔らかな皮膚に蔽われた滑らかな感じがなくて、ロボットのようです。それだけに顔の輪郭や凹凸が明確に描きこまれていて、描かれている人のキャラクターが図式的に明確化されているのを見ると、20世紀のシュルレアリスムの画家ルネ・マグリットの作品と似ていると思えてしまうのです。また、同じ画家の「射手たち」という作品は、ラファエル前派のバーン=ジョーンズが描いたといっても、そう思ってしまうようなテイストがあります。それが、どうしてなどという穿ったことは、ここでは考えるのをやめておきます。
Tizianopalume  なお、このコーナーで展示されていたティツィアーノの「復活のキリスト」は画家の若い頃の作品なのか、これがティツィアーノなの?と思うようなものでした。

2017年5月 4日 (木)

ティツィアーノとヴェネツィア派展(1)

Tizianopos  父親の退院の日、朝に会社に顔を出して昼前に病院で退院の手続と、すぐ後で施設にもどるための専用車の手配やら、施設の入所の手続で昼飯を食べ損ねた。やっとひと通り終わった午後、一応ほっとしたのと、緊張から開放されたのと、何とも言えない空しさにとらわれたのとで、精神的に疲れを一気に感じた。中途半端に時間で、空腹は感じつつも、今食べると夕食が食べられなくなってしまう。会社には休みをとったが、このまま疲れを抱えて家に帰りたくない。それで、始まったばかりのこの展覧会に行ってみることにした。東京都美術館についたのは午後4時過ぎで、会期の初めということもあるのか、人影はまばらで、静かな雰囲気で、疲れていた私には落ち着くのによい空間だった。状況としては、フィレンツェ・ルネサンスと違って、ヴェネツィア派は知名度も高くないし、人気もイマイチなのかしら。たしかに、展示されている作品は目玉のティツィアーノは別として、全体として薄味の印象ではあった。
 昨年の国立新美術館での「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」を見て、この今回の「ティツィアーノとヴェネツィア派展」を見て、どちらがどうと比べるつもりはないが、両方を足しても限られた作品数の中でも、ヴェネツィア派といい多くの画家がいるなかで、ティツィアーノがとりわけ目立ったと思った。ティントレットといった有名な画家の作品も見たが、実際に見た作品の印象では、美術史などの取り扱いとは異なる印象で、私にはティツィアーノが圧倒的で、他の画家は後塵を拝するといったことを見ることができた。この展覧会で、そのことを再確認できたと思う。そもそも、ティツィアーノが中心の展覧会ではあったけれど。残念なのは、しょうがないのかもしれない(これだけの作品を集めて日本にもってくること自体が大変なことなのは分かる)が、(気持ちとして)ティツィアーノの作品をもっと見たいと思った。
 いつものことで主催者あいさつを引用しておきます。今回の展覧会は、現地の美術館から借りられるだけのものを借りて持ってきましたので見てくださいというような展示のように見える(それでいいと思う)ので、とくに展覧会の趣旨とか、焦点の画家をどのように考えているとか、そういうことは語られていない形式的なあいさつになっているようなのですが、とりあえず、というところです。
 “アドリア海に面する水の都ヴェネツィアは、15世紀から16世紀にかけて海洋貿易によって飛躍的に反映するとともに、フィレンツェ、ローマと並ぶルネサンス美術の中心地として輝かしい発展を遂げました。絵画の分野を中心に美術の進展をみたヴェネツィアでは、ベッリーニ工房などから、多くの優れた画家たちが輩出されました。なかでもティツィアーノ(1488/90~1576)は、自由な筆遣いと豊かな色彩を特徴とする独自の様式を確立し、その絵画はヴェネツィアのみならず、ヨーロッパに広く影響を与えました。80年以上に及ぶ長い生涯の中で、ヴェネツィアの教会や貴族たちからの絶え間ない注文に応えただけでなく、ヨーロッパ諸国の君主や教皇のための絵画も制作しました。その斬新な油彩画法は、近代絵画の先駆者とも評されます。本展覧会では、ベッリーニ工房を中心に展開するヴェネツィア派の幕開けから、ティツィアーノの円熟期、そして巨匠たちの競合の時代という流れに沿って、およそ70点に及ぶ絵画、版画を紹介します。”
 では、次のような展示の流れに沿って作品を見ていきたいと思います。
  Ⅰヴェネツィア、もうひとつのルネサンス(1460~1515)
  Ⅱティツィアーノの時代(1515~1550)
  Ⅲティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ─巨匠たちの競合(1550~1581)

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