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2017年5月 6日 (土)

ティツィアーノとヴェネツィア派展(3)~Ⅱティツィアーノの時代(1515~1550)

Tizianoflora  このコーナーに入ってすぐに、ティツィアーノの「フローラ」が展示されていたのを見ると、他の画家たちとティツィアーノとは違うレベルにいるのが一発で分かってしまいます。“その魅力は、リズミカルな曲線が織りなす図像の甘美さと、調和のとれた色面の配置にある。女性は、画家の熟練した腕前によって、不明瞭な背景からくっきりと浮かび上がってみえる。画面は、慎重な明暗表現から生まれた動きに基づき、構成されている。ミニバラ、スミレ、ジャスミンなど、春に咲く花々の束を持つ右手のひらの捉え方に、人物を短縮法で描くことへの関心をはっきりと見てとることができる。あらゆる部分が計算された色彩で表わされ、事物の描写に関しては、バラ色の色調で表わされた繻子のブロケードを、純白の肌着の襞が作る陰影に結びつける複雑な色の塗り重ねが特に素晴らしい。肩から滑り落ち、肌を露わにするこの肌着は、古代風の衣装を真似た当時の下着で、若い女性の肌の色を引き立てている。方のほうにわずかに傾けた女性の優美な顔は、赤みがかった金髪に縁どられている。本作品には、ティツィアーノの円熟期を特徴づける絵の具の厚塗りがすでに認められる。柔らかい色彩で人物の立体感が表わされ、素早く力強いタッチでたっぷりと施された鉛白のハイライトに、画家の熟達した技量を見てとることができる。”というような解説がありました。分かったような、分からないような。この解説文をネタにして、作品を見ていきたいと思います。前のコーナーの作品については、色彩や色遣いのことしか述べなかったと思います。この作品でも、色は、その魅力の主要な要素と言えるでしょう。とくにフローラの肌の色です。前のコーナーのテンペラとは違って油彩なので、絵の具や技法が異なるので、単純に一緒にすることはできないのでしょうが、この「フローラ」の魅力のひとつには色彩という面があることは否定できないと思います。例えば、フローラの顔から首、そして露わになった肩から上半身の肌の色です。しかも、ティツィアーノは、それを引き立たせるための演出を行っています。例えば、人物の背景は具体的なものが描かれず、単に暗い色が塗られているだけで、フローラはそこから浮かび上がってくるように映ります。それに伴い、暗く鈍い色の背後と対照的にフローラの肌が光に照らされたように映えるように、見る人に映ります。一方、彼女の着ている衣装は白い下着のような薄い衣服で、露わにさらされているフローラの肌と対立するような緊張をつくっていません。従って、背景から浮き上がった肌の色が、柔らかく、繊細に見えてくるのです。白い衣装以外にも、金髪という髪の色も肌と対照的になっていないし、ガウンのような白い衣装のうえにかけられている服の赤もどぎつさがなくて、穏やかな色調です。これらは肌の色と穏やかなハーモニーをつくりだしているように見えます。見る者は、落ち着いて肌の色を味わうことができる。
 しかも、この肌は頬の赤みであったり、首や肩の白さといった微妙なニュアンスの変化が、陰影によるグラデーションてあいまって重層的で複雑な変化をもっていて、実際に塗り分けられています。また、白い下着のような衣服は、透き通るほど薄さで肌のいろが透けているのと、襞やしわによって生じる影のグラデーションがさらに細かく彩色されています。
しかし、そういう細かさが気にならず、全体として肌色のたおやかな移ろいと言った感じで、その肌色がキレイだということが魅力的に映えているわけです。
 一方、このたおやかな肌色に塗られたフローラという女性は丸みを帯びたふくよかな輪郭で、まるで肌色の柔らかさを最大限に生かす佇まいです。つまり、フローラの姿が素描されて、それに彩色されていくという構造になっているのが普通でしょうが、この「フローラ」を見ているかぎりでは、色がまずあって、その色の魅力のためにフローラという題材が選ばれたり、このように描くという素描が行われたのではないか、と思われるのです。もちろん、近現代のフォービズムのように色が独り歩きして、現実にあるとかないといったことを超越してしまうようなものではなく、あくまで女性の肌の色というものです。肌色は現実の人の肌に色に似た色で、それを連想させる範囲内にあります。
じっくり見ると、このふくよかな女性のプロポーションは、フィレンツェ系の画家たちの素描に比べると、顔と身体のバランスやかしげた首の軸とか、ちぐはぐに感じさせるところがあります。しかし、この肌の色をたおやかに、柔らかく、豊かに塗られていると、違和感を生むことがなくて、むしろ、それによって色が引き立つようになっているように見えます。
Tizianopalma  ティツィアーノの「フローラ」と同じような構成、人物のポーズをしていたのが、パルマ・イル・ヴェッキオの「ユディット」という作品です。肌のグラデーションはティツィアーノ以上に精緻で、これに較べるとティツィアーノの「フローラ」はコントラストがあって、輪郭が明確に見えて、その絵画っぽさ、人工的なところが、かえって分かるようです。それほど、この作品の技巧的な精緻さはすごいと思います。ユディットという女性の肌の柔らかさの感触の表現などティツィアーノ以上に肌触りを再現されたような巧みさが見えます。しかし、これは好みの問題かもしれませんが、ユディットのふくよかさが肥満に見えて、顎がだぶついて、首が陥没しているように見えてしまう、丸みを強調しすぎであることが、どうも見たいと思えないところがあります。彼女のプロポーションの、例えば腕の位置の不自然さとか、紗がかかっているわけでもないのに、薄ぼんやりとしているところが、幻想風になるのではなく、リアルもリアリティも減っているように見えてきます。ちょっとグロテスク、頽廃趣味のグロテスク趣向の美の追求ではなく、美からずれてしまっているような印象です。この作品をティツィアーノの「フローラ」と並べて見ると、ティツィアーノの人工的な、リアルとかリアリティとは無関係な、美をつくっていくという性格がよく分かります。
Tizianobionbo  ほかにも、聖母子などの女性像が展示されていましたが、描き方が雑であったり、色がきたなかったりと、素人の私が見ても、ティツィアーノの作品とはレベルが違うことが明白な作品ばかりでした。むしろ、男性の肖像画に面白いものがありました。そのひとつ、セバスティアーノ・テル・ビオンボの「男の肖像」です。“陰影を丹念に施す手法や柔らかい光の効果、憂いを帯びた人物表現において、ジョルジョーネの様式に極めて近い”と説明されています。暗い中で、振り返る断線の顔に光が当たり、顔が浮き上がるように見えてきますが、帽子の影になって下半分しかハッキリしません。そのポーズと振り向いた顔の光線の変化を、憂愁の印象にまとめた佳品だと思います。聖母とか言うように理想化されて、いってみれば個性を超えた美という理想に縛られた女性像に比べ、男性の肖像は個人の個性的な顔つきとか形態の描写を追求できているようで、描き方も変化があって、面白かったです。
Tizianodanae  ティツィアーノの「ダナエ」。おそらく、「フローラ」と並んで、この展覧会の目玉といっていい作品です。“ティツィアーノは「色彩の力」すなわち、語り得ないものを表現する卓越した力を示した。黄金の光がアクシリオス王の娘ダナエと、ユピテルの突然の出現に驚くクピドの体を照らし、左に寄せられたカーテンの襞とシーツの皺の上で揺らめき、クピドの多彩な翼の上で戯れる。色彩は、あらゆる形態を包み込む黄金の光で満たされた場面の中で煌いているように見える。一方、寝室奥の円柱と壁に落ちる陰影は、空間を閉ざし、前景を圧縮しつつ、ダナエとクピトをまるでフリーズ上の浮彫彫刻のように際立たせている。とりわけ堂々とあらわれる裸婦は、ミケランジェロによる神話や寓意主題の彫刻の偉大さ比肩するほどある。ティツィアーノは、物語にひつようのないいかなる要素も排除し、そこに唯一無二の直接的な現実感を付与している。”「フローラ」と較べると、よくいえば自由に伸び伸びと描いている。別の言い方をすると、「フローラ」ほどキッチリと描かれていない。まあ、画面大きさが「フローラ」と「ダナエ」とではスケールが違うので、同じように描くようにはいかないでしょうが。どちらがいいかは、好みの違いということになると思いますが、「フローラ」のころは、今だ、若い画家としてのティツィアーノが、伝統の中で自身の存在を主張していこうというように、制約の中で妥協しながら制作しているところと、気負いが、いい意味でもそうでない意味での硬さとなって表われているのが、この作品のキッチリしたところだと思います。これに対して「ダナエ」は、すでに名実共に大家となった画家が、伝統とか周囲に余計な配慮をすることなく、自身の個性を全開にして制作している。言ってみれば「フローラ」は、優等生的に課題をクリアするようなところがあって、画家の壮年期に比べて個性が際立ってきていませんが、「ダナエ」には画家の特徴が際立って来ている反面、短所も隠さずに表われていると思います。昨年、新美術館での「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」でティツィアーノ晩年の大作「受胎告知」を見た時も思いましたが、ティツィアーノという画家は、空間を把握して画面に空間を構築するというのは得意ではないのではないか、という点です。しかし、画面の中に描かれている人々のひとりひとりを描くのは、適当に強弱をつけながら上手いので、それが画面全体を生彩あるものにしているという点です。「ダナエ」でも、彼女は室内の、ベッドの上で横たわっているはずですが、そういう場所で、そこにユピテルが雨に変身して部屋に侵入してきたという空間がつくられていません。裸のダナエがいて、画面の真ん中にユピテルが身をやつした靄のようなものが金色にモヤモヤしている。一応、ダナエの下方が白いシーツでベッドがあることらしい、という程度です。しかし、その反面、ダナエ、というよりも裸婦が堂々とした肢体、とくに官能に火照るような肌のグラデーションと柔らかな感触です。しかし、彼女の形態は上半身と下半身のバランスが取れていないようですし、顔の表情はそれというところがなく、あくまで顔であるということ、顔の造作が整っている美人であるということ以上のことは明確に描かれていません。ティツィアーノの特徴としては、色彩やグラデーションから漂う雰囲気かに、感触とかいう視覚化できないものを想像させて、画面を鑑賞させるというものでしょうか。
Tizianoreda  続いて、ティントレットの「レダと白鳥」が展示されていました。同じ裸婦ですが、「ダナエ」と並べると雑な感じで、裸婦には生気が感じられないし、白鳥はお座なりにしか見えないし、ガッカリの作品でした。

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