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2017年5月22日 (月)

コンピュータにはできない将棋や囲碁のプレイ

 人工知能の技術の進展のめざましさは、囲碁や将棋といったゲームで人間のトップ・プレイヤーをコンピュータが打ち負かすことが珍しいことではなくなってきています。もはや、人間はコンピュータには勝てない、というところに来ているのではないか、というほどでしょうか。ある棋士がインタビューでコンピュータと人間の違いについて、コンピュータは手に思い入れがないということを言っていましたが、それは、人間の棋士は、次の一手を考えるときには、これまで経過を物語の流れのように捉えていて、その流れで考えるといいます。当然、そこには、それまでの自分が打ってきた手に対して思い入れのようがあるということで、その棋士がいうには、人間は、その物語に思考を縛られてしまうといいます。そこで、選択された手は、後で考えれば、その局面で最適の一手でないこともある。これに対して、コンピュータの場合には、その時の最適の一手を、何の思い入れなしに選択できる。それが大きな違いといいます。おそらく、コンピュータは、次の一手について可能性のあるいくつかの選択肢について、リスクとメリットを比較衡量して、確率の高いものを選択していることになると思います。もしそうであるとすると、純粋に確率計算だけで成り立っていて、偶然性が排除されれば、確率の確度が高まっていくのと同時に、次の一手が決まっていってしまうことになるのではないでしようか。偶然のハプニングが起こらないのであれば、勝つための確率の高い手を選択する。つまりは勝利に向かって最短コースを一直線に向かうわけで、まわり道を必要はないでしょう。それを突き詰めれば一本道ということになるのでは。つまり、最強の手です。もし、そうなってしまったのであれば、最初の一手で、あるいはゲームが始まったときに、すでに結果は決まってしまうことになるわけです。その時、ゲームは果たして面白いのでしょうか。
 おそらく、人間のプレイヤーであれば、さきほどの棋士が語っていたように、必ずしも最適の一手を選択するわけではないため、究極の勝利に向かって一直線ということは、目標としていても、到達は不可能に近いものだったはずです。不可能であったからこそ、それを目指して切磋琢磨する棋士たちのプロセスを見て、面白かったり、感心したりすることができたわけです。たぶん、そういうことはゲームに勝つということに関しては、役立たないノイズでしかありません。しかし、もしかしたら、将棋や囲碁を人が楽しむのは、実は勝つという確率計算の部分ではなく、ノイズの方だったのではないかもしれないと思うようになりました。それは、おそらく、コンピュータがゲームをする場合に、ノイズを排除していると思えるからです。その行き着く先が究極の一手ということになるのではないか。そして、もし、その究極の一手が実現した時に、将棋や囲碁の意味、それを人がプレイする意義とは何か、ということが問われることになるのではないか、と思います。
 現在のところでは、そのような意義を考えることは、誰もしていませんが。なぜ人は将棋をするのか、囲碁をするのか。トランプでもなく、サッカーでもなく、その他のもろもろではなく。そして、そのなぜをゲームにおいて体現するようなプレイを目指すプレイヤーがいてもいいのではないか、それは必ずしもゲームに勝つこととイコールではありませんが、全く別ということではないでしょうが。もし、それが実現したとしたら、それはコンピュータでは、到達できないのではないかと思います。

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