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2017年5月28日 (日)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(3)~2.庭の女性たち

Nabisdoni1  ここでは最初の部屋に、カタログでは、もっと後のコーナーで展示されることになっているはずのモーリス・ドニの「磔刑像の奉納」という小さな作品に目が行きました。それによって、この展覧会に惹き入れられたと思います。この展覧会では、このドニの作品が最も多く展示されていたのではないかと思います(ものぐさなので作品数を数えたわけではありませんが)。彼は「美しきイコンのナビ」とあだ名されたといいますが、この作品を見れば分かります。磔刑にされたキリスト(磔刑像なのかもしれません)の下に駆け寄るにように集まる人々を黒い服の影にして。その群集の影の形態が波のような形となって層をなして、様々な色彩で画面いっぱいに広がっていっています。黒、赤、クリーム色といった色彩の階層は輪郭線でくっきりと縁取りされています。この波型の階層は、人々のオーラのようです。それはまた、キリストの姿からのピンク色の雲につながっているように。見えます。それは、信者のオーラとキリストから発せられるものとが、精神的な波が呼応するするように見える。おそらく、ナビ派というグループがどうかというより、モーリス・ドニという人には、それが見えていたのではないかと、私は想像します。それは、彼が霊能者とかそういうことではなくて、カメラで撮ったような一般的なリアルな視点では切り捨てられたところ。おそらく、そういうカメラのような視線(それは、いわゆるリアリズムというのがそれではあると思いますが)では見えなくなっている、見ないことになっているもの。ドニという人は、それを見えたのか、見ようとした。そして、その見ようとしたものを描くために、このような描き方になっていたのではないかと、私は想像したくなります。
Nabisdoni2  「テラスの陽光」という、同じドニの「磔刑像の奉納」と同じ頃の作品です。画面右端の縦茶色は樹の並びで上方の緑は、その木々の葉でその下の画面真ん中上の薄い緑は、その間からのぞく空。空の下の赤は遠景はるかな背景はタイトルの陽光に映えているということでしょうか、その手前、つまり画面の真ん中の縦のオレンジの入った赤は人影で風景を前にして佇む人でしょうか。その人影のまわりは木漏れ日が注いでいるのか赤くなっています。そして、それ以外の地面はオレンジ色。それぞれ色の面に塗り分けられている。これは、前のコーナーで見たポール・セリュジェの「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」に似たベタ塗りの色斑のような平面的な画面に見えるので、ナビ派という括りにしたのでしょうか。しかし、私には、ドニは、セリジュの作品を見て、そのような描き方があるということ、つまり描き方の選択肢を教わったという影響で、どうして、そのような描き方をするのかという点で、異なるのではないかと思えるのです。それは、ドニの「テラスの陽光」という作品は、セリュジェの作品よりもサーモグラフィの画面に似ている、と私にはみえるのです。ご存知のように、サーモグラフィは表面温度を検知して、その温度によって色がかわって画面に映し出されるものです。ドニの「テラスの陽光」の画面は、陽光が当たっているところは赤かったりオレンジになっています。そういう視覚では検知できないこと、この作品では温かさです。その基準でこの風景を映すと、この作品のようになるのではないでしょうか。その場合に、目で見る視覚で捉えていないので、空間とか遠近感は関係ないわけです。むしろ、皮膚感覚で温かさを色に置き換えて、視覚化させた場合、この作品の画面はリアリズムになりえます。ドニは、ここでは温かさを視覚で感覚しようとしている、というわけです。先に見た「磔刑像の奉納」もそうですが、ドニという人は、従来の視覚偏重の感覚とか世界への接し方に対して、感覚というの視覚だけではないということ、例えば音楽を視覚で感覚することはできない、そういう視覚だけでいると感じられないものを描こうとしたのではないかと、思えるのです。それを描くということであれば、視覚偏重の絵画技法は、あくまで視覚のためのものなので、音楽を描くとか温かさを描くとかオーラを描くとかいったことには使えません。また、音楽や温かさはそうですが、くっきりとした輪郭をもって外形がはっきり分かるように白黒の区別が明確なように存在しているわけではありません。どちらかというと曖昧で、茫洋として広がっているという存在のしかたでしょうか。あえて言えば、雲が近いかもしれませんが、そのようなイメージでドニは描こうとしたのではないか。だから、これらの作品は、あるがままを描いた写実的な作品なのです。その意味で、似ているように見えるセリュジェの作品とは、異質な作品ではないかと思えるのです。
Nabislife  かわって、ケル=グザヴィエ・ルーセルの「人生の季節」という作品です。何か展覧会のチラシなどで紹介されているナビ派の特徴を洩れなく、薄味ですが備えていて、見やすい作品になっているように思います。私には塗りが雑に見えて、それが目についてしまいました。
 ピエール・ボナールの「庭の女性たち」という連作です。“この4点の連作は、四季を象徴しています。庭に居る女性たちが、色彩の斑点によって装飾的に表現され、服の柄と植物模様、ならびに色彩の調和が特徴的な作品です。女性の服は、まるで画面に張り付いているかのように平面的に描かれています。”と解説されて、そして、この縦長の画面は日本の掛け軸や浮世絵の影響ということらししいです。点描。というより、粗いドットでかたちNabisbolnald づくった画像です。かなり粗い目のドットですが、それはスーラなどの光を微分するような精緻な目で捉えようというのではなくて、モザイクのような画像です。しかも、ボナールの作品はドットで画面をつくるだけでなく、ドットのセンサで情報を取り込んで、それをそのまま画面にドット単位で転写しているようなのです。視点という統合的な情報処理がなくて、各ドットで得られた情報がそのまま処理されているような感じです。したがって、全体としてのパースペクティブがなくて、当然空間の把握はなく、各ドットに色が塗られていて、それが組み合わさると結果として人の形になっていますが、結果としてそう見えるのであって、人体の立体感とか存在感とは関係なく、その点での色という情報が転写されているので、まるで文様のようになっている。しかし、人間というのは、そこにあるがままの情報を単に受け取るということはできないシステムになっています。つまり、センサでキャッチした情報を選り分けて、何らかの意味づけをして、その基準によって統合してはじめて視覚として認識されるわけです。一方、ボナールの作品は、そのままでは統合された意味づけがないので、人はそれを処理できないことになります。そこで象徴とか、何らかの名目、あるいは文様として捉えるということになると思います。その意味で、ボナールの作品は見る者が象徴とか意味を付加して絵画として鑑賞するか、文様のような飾り物としてインテリアのような機能をもたるものとして扱うことになると思います。ドニにしろ、このボナールにしろ、表層の感覚によって得られた情報を画面に転写するという点では、共通しています。つまり、二人とも、感情とか、メッセージとかいった、いわゆる内面的な要素はなくて、表層の情報処理に徹している。それがナビ派の特徴と言えるかもしれません。ドニもボナールも、この後の展示コーナーでもでてくるので、そのことを検証してみたいと思います。
Nabismiyol  このコーナーで最後に取り上げたいのは、アリスティード・マイヨールの「女性の横顔」という作品です。マイヨールは彫刻家としてオーギュスト・ロダンと並び称されるほどのビッグ・ネームですが、この作品は精細な印象の佳品だと思います。

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