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2017年5月 7日 (日)

ティツィアーノとヴェネツィア派展(4)~Ⅲティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ─巨匠たちの競合(1550~1581)

 この展示の前にヴェネツィア派の版画として、たくさんの版画が展示されていましたが、素通りしました。
Tizianopalus  ティツィアーノの「教皇パウルス3世の肖像」です。今回展示されているティツィアーノの作品を見た限りでは、ティツィアーノという画家の真骨頂は人物表現にあるのではないかと思われてきます。人物表現といってもアプローチの仕方は様々ですが、私の眼に映った彼の特徴的なところは、表層を描いているというところで、それはとりわれ肌の色合い、そこに光があたるグラデーションや陰影というところです。陰影といっても、人物の立体的な造形を表わして、それを画面という平面に置き換えるときに立体性を表わすものとしてではなくて、陰影が肌の色を変化させていく契機として、彼の場合は、そこで生まれる肌の色の変化の織りなす様子が主眼になっている。そして、その表面を感じるために、感触という視覚ではなくて、触覚の感覚、つまり眼で見えないものをそこに導入しようとしているところです。これが、目に見えないものというと人物の内面とかいう方向性がありますが、ティツィアーノの場合には、そういうものへの志向性がなくて、あくまでも表層に興味が限定されていて、しすし、その表層にこだわることで眼に見えないものである感触に行き着いてしまうといったことを感じるのです。
 この作品で言えば、老人である教皇の皮膚の皺です。この作品では、その皺が作り出す、肌のカサカサになったような硬い感触と、その皺の深さが肌に作り出す影の濃さとなり、その光と影の綾と肌の色の変化の綾が精緻に描写されています。
 ここで、多少の脱線になって、少しばかり図式的な議論になると思いますが、ティツィアーノの作品の志向しているところは、こんな方向ではないかというところをまとめてみたいと思います。今回の展示が、ティツィアーノひとりではなく、ヴェネツィア派の系統の画家の作品を集めて、ティツィアーノもその一つという展示の仕方をしていました。昨年のヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たちという展覧会で、“ルネサンス発祥の地であるフィレンツェの画家たちが、明快なデッサンに基づき丁寧に筆を重ねる着彩、整然とした構図を身上としたのに対して、ヴェネツィアの画家たちは、自由奔放な筆致による豊かな色彩表現、大胆かつ劇的な構図を持ち味とし、感情や感覚に直接訴えかける絵画表現の可能性を切り開いていきました。”という説明がありましたが、ここで見てきた作品についても、色彩が大きな魅力になっていました。これは、ローマに近く内陸部のフィレンツェと地中海に面してアジアとの交易で栄えたヴェネツィアという都市の性格の違いが人々の嗜好風土の違いを生んだ。それが絵画の趣味にも反映しているということになるのかもしれませんが。その性格の違いを、少し異なる視点で考えてみたいと思います。フィレンツェの絵画のあり方には、近代的な人間観があると思います。つまり、人間は個々の人格をもち、それは一人ひとりが独立した個人として統合され、個人で完結したコスモスのようなものだ。それは人間の内に存在する、つまり霊とか精神といったものだ。これに対して、現実に人間は肉体、身体をもって存在している。つまり、ここに存在しているそれぞれの人間は精神と身体の統合されたものであるということ。簡単に言えば。それを絵画にした場合に、身体の側面だけを描いていては、人間の内に存在する真実が抜け落ちてしまう。従って、人間の内である精神が表されるようにする。つまり、精神が内に宿した身体という統一性を描くことを求めることになる。それは例えば、人間は内なるコスモスといったように秩序であることから、例えば幾何学的な完璧な図形が真実であるように、均衡を保った形態に、それが象徴的にあらわれ、それを美と呼ぶことができる。それを人体を描く際には、整然として均衡のとれた構図で、そのことを明快に示すデッサンにより表現されるということになるわけです。つまり、精神を伴った真実の形を描くということになります。これに対して、ヴェネツィア派の絵画は、表層の色彩などで感覚に直接訴える、外面的な傾向が特徴です。これは、近代以前の精神とか霊といったことは神に属することで、人間や動物は自然の物質の世界にいる。そういう自然の世界では、目の前に何を見たり、触ったりして感覚できるというものです。そのような目の前にあるという断片がそこかしこにあるという感じで、統一的な秩序というよりは渾沌のようなものです。ある意味では内面的な精神を統一的な秩序としてみる側からは、表面的な感覚を追求するのは、精神を伴わない華美であり、快楽的であったり、享楽的ということになるでしょう。しかし、別の面から言えば、近代以降、現代においては統一的な秩序という近代的な人間観から、そのような統一ということが実はフィクションでしかなく、現実には不条理があり、そこで無理をして統一的な秩序を求めれば必ず歪みが生まれてしまう。それが例えば、個人の孤独だったり、不安だったりといったことです。そして、ティツィアーノのような目の前の感覚を追求していくという絵画のあり方は、近代を跳び越えて、現代に通じるところがあると思えるところがあります。それは、ティツィアーノの前時代の画家の作品をシュルレアリスムやラファエル前派に通ずるところがあると戯言を述べましたが、ティツィアーノは、間違いなく、その系統に位置しているわけです。実際に「フローラ」のキッチリしすぎている、人形のような顔かたちは、現代の日本のマンガのニ次元美少女のパターンと共通性を見つけることができそうだ、というのはこじつけでしょうか。
 ここで「教皇パウルス3世の肖像」に戻ると、この人物の人格的な価値の高さとか宗教的な神聖な人格といったことが、この姿勢や顔の表情や皺の深さに象徴的に表われているとは言えません。また、人物の周囲や背景に、そのようなことを象徴的に表わすアトリビュートのような記号を散りばめることもしていません。この画面にあるのは、豪華な衣装をきらびやかに描くことであり、血色のよく生気に溢れた皮膚の張りを生き生きと描くことです。そこに結果として描かれているのは、役割としての教皇です。その人は、個人という完結したところに留まっているのではなく、その個人がないからこそ教皇という人間と神との架け橋のような機能的な存在として人間を超えたところにいるわけです。そのため、人間の内面を描かないことで、かえって、超越的な存在となっている教皇を表わすことになっているというわけです。
Tizianomaria  同じたティツィアーノの「マグダラのマリア」です。彼女はもともと娼婦であった罪深い女性だけど、イエスに出会って改悛しその後イエスに従って過ごし、最終的には聖女になった女性、と一般的には解釈され、とくにルネサンス以降には彼女の改悛を主題として取り上げる作品が制作されるようになります。この作品もそのひとつに入ると思います。この場合、マグダラのマリアの改悛という、いわば劇的な信仰のドラマということになりますが、改悛して信仰に生きる女性の改悛に至るまでの罪深い生活を悔悛する痛ましさ、敬虔さという面と、もとは娼婦であったという官能的な魅力を備えた美しい女性という信仰に対して罪深い側面という、相矛盾するふたつの側面を備えています。こ一人の統一した人格としての女性が、このような相反する二つの側面をもっているということを一枚の絵画の画面に表わすということは、とても難しいのではないかと思います。これが時間の経過を伴う、例えば演劇であれば、最初娼婦である彼女がキリストと出遭い、改悛して、過去と訣別し、新たに信仰の道に入るということで、時間の経過の中で二つの面を別々に提示し、官能的な面を後で否定することで、人格の統一は保つことができますし、官能的な面を否定することで、それと対照的に信仰の面が強調されることになります。しかし、絵画には、そのような時間の経過を織り込むことはできません。例えば、バロック美術Caravaggiomaria の画家、カラヴァッジョやラ=トゥールの描くマグダラのマリアは改悛した後の修道女のような質素な姿で、官能的な描写は抑えられています。それがマグダラのマリアであることは、周辺に配置された彼女を象徴するような小道具(アトリビュート)を配置することで、信仰に生きる女性としてのマグダラのマリアの姿をあらわしています。そこで、ティツィアーノの、この作品を見てみると、官能的な美女を描くということを、折角の機会なのだから、精一杯に美しく描こうとしている、というように見えます。この場合、改悛して信仰に生き、官能的な面を罪深いとして否定し悔いた姿として統一させるということはしていません。前にも述べましたように、ティツィアーノには近代的な個人、つまり統一した内面を備えた人格が姿に表われ、それが均衡という秩序を持った形態という理想として画面に描かれるという方向性にはなっていません。いわゆる理想的な形態が結果として美となって表われるというよりは、感覚的な美、いって見れば官能的な美、全体の均衡よりは部分的とか刹那的に感じらりる美という方向性で作品を描いている面が強い画家であると思います。それは、ヴェネツィア派の画家たちの系譜として共通の基盤のようなものかもしれませんが、ティツィアーノに残されていると思います。それが、この作品ではマグダラのマリアという女性の見た目の美しさ、それが官能的な美しさであるとしても、それが信仰に生きようとする彼女の内心の志向するところに、外面が適合するようには描かれていません。それとこれとは別、とティツィアーノは意識して考えたのではないでしょうが、統一させるということは意識していなかったのではないかと思います。折角の美人なのだから、それを描こうというのが無理なくできた、そういう画家であったのではないか。薄く透明なヴェーLatourmaria2 ルと白い下着の姿で左肩をはだけて露わにしたポーズは聖女にふさわしいとは言えないような官能的なポーズで、チラリズムの刺激的な姿です。そのあらわにされた肌の白さ、柔らかで滑らかな感触が、顔では上気したような赤みかがった色合いや、あごの柔らかな肉付きの描き方、仄かに明らんだ唇が震えるような感じと、仰ぎ見るように上に視線をむけて、目頭から涙がこぼれてくる、その目頭が熱くなった赤く充血している。そこでの赤のヴァリエーションの使い分け。そして、赤みかがって光り輝く金髪の豊かウエーブして、肩から胸の膨らみの谷間を流れるようす。それが光に反射するところとウェーブによりつくられ影との陰影。それらが、細かく描きこまれています。これらは、前に見た「フローラ」や「ダナエ」以上に力が入っているようで、信仰の聖女というより、古代の異教の女神を描くのと同じようです。個々で描かれている美は、精神的なものに昇華された天上的なものではなくて、感覚的で官能的な地上的なものです。これをティツィアーノの、この作品では罪深い、否定すべきもの、悔うべきものとして描かれているようには見えません。それは、マグダラのマリアの悔い改められた信仰があっても、同じように美しさが同じ人物のなかで存在しているという姿です。それは、穿っていえば、人間とは、もともと理想的に割り切ったように一貫した存在ではなく、矛盾を抱えた、時には理不尽な存在でもありうるわけです。これは、現代の、例えば実存主義や心理学の指摘などにも通じる点がある、というのは飛躍でしょうが、そのような点に、この作品を現代の私が、ある意味でリアリティをもって切実なものとして受け入れることができる可能性があると言えると思います。
Tizianodiana  一方、ティントレットはティツィアーノと並べて巨匠として上げられていますが、「ディアナとエンディミオン」という作品をみると、一応完成はしているけれど、力がこもっていないという印象で、ティツィアーノの引き立て役ぐらいにしか見えませんでした。
 ティントレットより、展示の最後にあったヴェロネーゼの「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者ヨハネ」という作品が印象に残りました。ここで、ティツィアーノやティントレットと並べて名前を挙げられている画家なので、美術史のビッグネームなのでしょうが、知識のない私には、その点は不案内です。明るい画面で、左側の女性の金髪の黄金色の輝き、右側の女性の赤と金色の衣装。そしてはだの白さのまぶしさ。それらの色が、それぞれの色の効果を打ち消し合うことなく、全体として、明るい画面をつくって、全体としての輝かしさを形成しているのは、眼がくらむほどです。ここには、ティツィアーノには残っていた人間の内面と外形との矛盾対立はもはや残滓もなくて、屈託をもたずに色彩の操作で画面を作り上げていると思います。人間を人格としてとらえるとか感情移入するとかいうことではなくて、相対的に冷めた眼で人間を、ここでは題材がキリスト教の物語なので、宗教の信仰に没入するというのではなくて、結果として距離を置いた批評性が生まれている、という見方ができるようなものになっていると思います。それは、ティツィアーノには、見られなかったものですが、明らかにティツィアーノが潜在的に持っていたものを、取り出してきて発展的に継承したのではないかと思わせるものです。この作品での中心は色彩であって、幼児のキリストや聖母マリアでなければならい必然性は、見ていて感じられない。この人物構成、配置でヴェネツィアの富裕な商人の家族の光景とタイトルされても違和感はないです。ここに、キリストや聖人の神々しさのそれらしい描き方はされていません。むしろ、赤ん坊の肌の柔らかな色彩とか、金髪や衣装の色彩を消費するような、極端なことを言えば、精神というような重石を切り捨てて、消費する。それは、感覚できるものを、手に取れるものだけを描くという唯物的な姿勢、刹那的な姿勢に行き着くようなもののように思えます。それは、ティツィアーノにも潜在的にもっていて、同時代のミケランジェロなどのような人には持っていない、独特の個性のように思えます。
Tizianovelnez  全体として、力のこもった作品は少なくて、それで全体を判断するのは、早とちりかもしれませんが、ひとつの視点はみえたような気がします。

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