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2017年5月27日 (土)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(2)~1.ゴーガンの革命

 ポール・ゴーギャン(ゴーガンではすわりが悪いので、慣れたゴーギャンという呼び方にします。)は、“イリュージョニズムの絶対的な影響力に対抗し、芸術とは気質、思想、切実なる内面性を表現すべきものであって、自然を模倣するものではないと断言している。観察と想像力をないまぜにした彼の作品は、単一の空間の中に様々に異なった要素からなる世界を共存させる。”ことによって、ナビ派の画家たちに影響を与えたといいます。“象徴主義への道を歩んでいたナビ派の芸術家たちを勇気付け、彼らを夢や、神秘や、幼少期の恐怖感や、実存的な苦悩といったものの表現へと向かわせた。記号のようなものにまで省略された形態は、やがて純粋に絵画的な一つの論理としてまとめられた。”という解説が加えられていますが、そこに、ナビ派というのが、描くということよりも、むしろ理念、つまり、頭で考えて言葉をこねくり回したものからスタートしたものであることを、端的に表わしていると思います。
 私の偏向した嗜好なのかもしれませんが、ゴーギャンの作品に絵画的センスが感じられないのです。要するに下手、絵画になっていない。つまらない、というのが正直な感想です。それが、サマセット・モームの小説のモデルになったような、金融関係の仕事や家族、つまりはブルジョワ的な安定した生活を投げ出して、画家になったとか、哲学の箴言のような思わせぶりに作品タイトルが独り歩きして、描かれた作品だけは、それらに比べてあまり見られないのは、どこかで作品がつまらないことを認められている証拠ではないかと思っています。つまらない理由を説明することほど馬鹿馬鹿しいことはないのでやめておきますが、展示されている作品は、この展示構成では必要ということなのでしょうが、当然素通りしました。ですから、ナビ派の作品に対して、ゴーギャンの影響とか、上で解説されている面は、私はほとんど気にしていません。
Nabistakano  ゴーギャンに恨みはないのですが、例えば遠近法を無視した平面的な画面で見る者のものの見方を変えさせる作品として、高野文子を取り出して比べて見たいと思います。高野文子は現代日本のまんが家ですが、彼女の「田辺のつる」という作品の最後のページを見て下さい。上段真ん中のコマは少女が階段を降りるところですが、手前の階段の踊り場が水平ではなくて斜めになっていて、遠くの階段の先が遠近法では消失点に収斂していくのと反対に広がっていくわけです。となりの左側のコマで少女が降りていく途中の場面では先が収斂していく遠近法っぽい空間の描き方をしていますが、左右のバランスが歪んでいます。そして、下段のコマで少女を正面から、階段の下から見上げる場面は、階段の遠近法が極端での先の二階と、階段の先の廊下の奥との関係が歪んでいます。これは、遠近法という立体を平面にさせるイリュージョンを換骨奪胎して、空間を歪ませ、そのはこの場面に出ている少女から見た空間で、それが歪んでいるのは、少女の存在の不安定性が現れているというところ。さらに、その存在の不安定さは、少女の実存の先に死がリアルに見えてきて、それは、この画面を見ている人に、自然に入り込んでくるわけです。ゴーギャンのギミックのようなタイトルで、わざと言葉で見る者に意識させるのは、画面で表現できないという自身の力量の不足を自覚しているからやっているというフェイクに思えてくるのです。画面で勝負するとゴーギャンは、絶対的な力量で高野文子に負けている。この展覧会には縁のない話への脱線が長くなりました。だからゴーギャンには触れません。展覧会に戻りましょう。
Nabisbel1  エミール・ベルナールの「炻器瓶とりんご」という作品です。並べて展示されているゴーギャンの「扇のある静物」と比べて見ると、影響関係は認められません。別に、展覧会の解説に異を唱えるつもりはありませんが、ゴーギャンは薄塗りで水彩画のようでもあるのに対して、ベルナールは厚塗りで絵の具を盛ったように置いていて、むしろセザンヌに近い印象を受けます。左側に配される陶器、画面中央の壷、そして前方と右側の果物はどれも太く明確な
Nabisgorg_3 輪郭線で囲まれ、線の内側は立体感や質感を殆ど感じさせない色の面で、全て(静物単体が)最も収まりの良い視点で描かれています。これは、セザンヌの静物画で形相よりも実体の存在感を優先させたことではないと思います。そして、絵の具が厚く重ねられて重量感というのか、どっしりとした存在感をまず、画面に定着させようとしているように見えます。さらに画面の背景となる上下の水平線上に区切られた黄色と緑色の色面は単純であるがゆえに、静物の存在感をより際立たせる効果を発揮しています。そうしてみると、重量感が稀薄で、平面に模様のようになっているゴーギャンの作品と、どこに通じるところがあるのか、私には理解できません。
Nabisbel2  同じベルナールの作品で「収穫」という作品です。彼はブルターニュ地方の民族衣装をまとった人々を、ある時期、集中的に描いていますが、この作品もその一つです。上記の静物画と同じ手法で描かれています。ブルターニュ地方の民族的な白と黒の衣服に身を包んだ女性や背後の白いシャツで刈り取りに勤しむ人物たちは、太く明確な輪郭線と立体感を全く感じさせない色面のみによって表現されているのは静物と同じです。刈り入れをしている畑は、遠近法による空間の広がりが表現されていないで、一面に黄色く塗られています。これは、例えばヴァロットンの「ボール」の公園の風景を連想させる単純化と言えるでしょうか。面白いのは、人物の外形の輪郭は太い線でくっきりと描かれているのに、その顔は描きこみがなくて、色の濃淡でざっと描かれていることです。ベルナールの作品は、このコーナーの数点だけで、展示されている作品だけでは、他の画家たちとの共通性は、平面性ということだけです。しかし、その平面性ということで、何か他のナビ派の画家たちとは異質な感じがして、ここでは、私には分かりませんでした。その分からないというのは、ベルナールの視点ということです。おそらく、彼に見えていた世界を画面に表現したと思うのですが、展示されていた作品を見ているかぎりでは、私には、その世界が見えてきませんでした。ただ、ナビ派というグループということでなく、一人の画家としてでないと見えてこない人ではないかと、想像できます。ただし、私には、それを見たいと切望するタイプの画家では、どうやらなさそうです。
Nabissel  ポール・セリュジェの「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」という作品です。左上の木々、画面をななめに横切る道、川沿いの並木、右奥の水車小屋などあって、水面に映る対称的な姿、そのような風景の諸要素が、レモンイエローとオレンジ色そして青のベタ塗りの色斑になっていて、まるで抽象画のように映ります。まるで、初期の抽象画に本格的に移行する前のカンディンスキーの作品を想わせるところがあります。この作品は、タイトルの「護符」のようなナビ派の画家たちの方向性を指し示すマニュフェストのように位置づけられモーリス・ドニが所持し続けたということです。今回の展覧会で、セリュジエの作品の展示はこの一作のみで、ベルナールと同様に、この画家もよく分からないまま、消化不良を起こしそうです。
 おそらく、このような作品の展示が続くのであれば、私が、ここに感想を残すことはなかったと思います。

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コメント

>ゴーギャンの作品に絵画的センスが感じられないのです。要するに下手、絵画になっていない。つまらない、というのが正直な感想です。

たぶんゴーギャンは技量じだいが多少劣っていたことをコンプレックスに感じた可能性あるのですが、発想を逆転させて自分のやりたいことを優先させるためにヘタに見える絵を描いていますよ。ゴーギャンのやりたいことは簡単です。原始的なものにこそ本質があるという考え方を表わす作品をつくることがやりたいことなんです。ですので一見すると原始的であり、下手に見える作品であればあるほどいいのです。

いや、この下手に見えるという感覚は語弊がありますね。ゴーギャンはおそらく西洋で培われた絵画や彫刻の技術によって判断される上手さ下手さに拒絶を示していたのだと思います。ゴーギャンは自分が書いた文章でエジプト美術とかアフリカ彫刻とか日本の絵(北斎漫画)をかなり褒めています。例に出されている高野文子の漫画は透視図法を使っているわけですが、ゴーギャンはそもそも透視図法を拒否して近景・中景・遠景・・・からなる大きさだけで遠近感を出そうとしています。これはつまりルネサンス以来の近代的ともいえる手法にNOを突きつけていると言うことです。ゴーギャン的に言うと、透視図法は自分を文明に引き戻すお方法にほかならないでしょうね。加えて、透視図法のない絵なら平面的になるんで、色面を重視することになる。べったり塗った色面はゴーギャンから見たら原始的ですから、自分の考え方を表現するのにうってつけというわけです。

しかしよく見ると技巧が凝らされているのもゴーギャンの絵でしょう。実物をみると絵の具の塗り方が非常に薄くて柔らかいのに、描かれている色面にかなり重量感があります。あとはレイアウトだったり配置だったり色の置き方に工夫が凝らされています。ゴーギャンの絵が下手に見えてしまったとしても、そこにはゴーギャンが作り上げた世界があることに違いはないでしょう。上手い下手で判断するものではないということです。

ここに20世紀以降の美術に繋がる道が見えてきます。技巧ではなく、どんなものを作り上げたかということ「も」重視されていく美術の流れです。

もちろんゴーギャン自体はひじょうにセルフプロデュースに長けていた人間なので、ある程度は織り込み済みでみずからの芸術を意図的に作り上げた可能性は否定できないでしょう。ゴーギャンより前の人だとモネやらクールベやらドラクロワやらもその手の宣伝をする際のお手本になったと思います。

あとまあどこに書けばいいのか分からなかったのでここに書いておきますが、シャセリオーのことです。

最近の歴史研究は現代から過去を見ていくような、「なるようになった」かたちで歴史を記述しません。美術史に限らず歴史を扱う学問全般が進歩史観であるとか目的論について慎重な態度をとっています。そういった意味では、後継があまりないような歴史の事象について研究が行われたりします。

また、美術史では、名画と巨匠ばかり扱っていた過去の方法を反省して、巨匠で隠れてしまっていた周辺部や同時代の人物、過去に評価されていたけど今は忘れられた人物についてもどんどん光が当てられています。あとは巨匠と巨匠のあいだをつなぐような、挟まれた時代にも研究が行われていたりします。おそらくシャセリオーもその流れに乗った形で大規模な展覧会が行われたのだと思います。

シャセリオーが生きた時代は新古典主義・ロマン主義の強烈な論争があり、オリエンタリスムが流行し、晩年にはリアリスムが首をもたげていて、巨匠中心の史観でいえば過渡期とも言える年代です。しかし時代は作らなかったけれども、時代を反映した芸術家なんですよね。なにかに振り切れたわけではなくて様々なものがミックスされているところに魅力があると思いますよ。

25さん コメントをありがとうございます。参考になります。でもやっぱり、ゴーギャンはセンス悪いし下手ですよ。おっしゃっていることが、仮に本当であれば、それを私に分からせる技量がないわけですから。それをもって下手といえると思います。

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